第66話 それは愛する人へ捧ぐ音色

 器楽――それは、貴族の嗜み。


 はい、それはもう重々承知しております。

 仮にも王妃様の元侍女であったわたしです。

 王女様や王妃様が演奏を楽しまれているお姿も知っておりますし、王様はもちろんお二人の王子様方もそれぞれお得意な楽器がおありになることも知っています。


 行儀見習いのご令嬢からも、子供の頃はお稽古が大変で……なんて、思い出話を聞かされておりますから、それほど器楽が当たり前に、上手でなくともひとまず教養として嗜んでおくものであることは――知ってはおりますけれど。

 楽器は高いのですよ、とても。

 しかも買ったらそれで終わりでもなく、手入れも必要なものでもあって。

 その高い楽器を所有し、その上で弾き方を教えてくださるような方を雇って、毎日のようにお稽古する時間を取る優雅なことは平民にはできません。

 する必要もない。


 平民で器楽なんて、それこそそこらの下級貴族など目じゃない贅沢が出来るような金満な事業家が、ゆくゆくは貴族に嫁がせようなんて考えている娘にさせるくらいのものだ。 

 平民かつ質素堅実を重んじるユニ家では縁のないものだったから、ひとまず最も一般的なアルゥードという、ぽってりした滴型の本体を腕に抱えて十三本の弦を指で弾いて奏でる楽器を触ってみましょうとなり。

 

「あ、これはいけませんわね」


 即刻、ヴェルレーヌの容赦ない一言で切り捨てられた……。

 けれど、それは仕方のないことだと思うの。

 それに模範演奏として楽器を抱えて音階を奏でた彼女の姿といったら、芸事を愛する女神様の一人のようで、男爵令嬢でもこの水準なのとわたしは軽く打ちのめされたのでした。

 落ち込んだわたしを慰めるためか、ルイがいくらなんでも彼女のようなのは稀ですと言ったその言葉を信じたい。


 ヴェルレーヌは元男爵令嬢。

 夜番の小間使いで、たまに夜更けに寝付けない時、なんとなく主寝室を出て、廊下の窓から夜の庭を眺めていた時などに一言二言、言葉を交わしたくらい。

 人が見たら、わたしよりむしろ彼女が公爵夫人だと思われるのでは?

 そうわたしも思えてならないような、優雅な雰囲気を持つ美女だ。

 金髪碧眼で、日に当れない体質のためか、透き通るように色白で儚げなその姿。

 夜向けの藍鼠色のお仕着せドレスが、彼女の結い上げた金髪と白い肌を一層引き立てて、まさしく深窓のご令嬢といった風情で……おまけに所作も美しい。

 同い年であることもあって、比べると自分が悲しくなってくる。 

 教育係の挨拶にわたしの前にやってきた、ヴェルレーヌをうっとり見ていたら、わたくし如きでその様子では先が思いやられますと言われてしまったけれど。

 それはともかく、この器楽を巡ってはヴェルレーヌとルイとの間で一悶着あった。

 

「ヴェルレーヌ、流石にこのような一瞬でその判断はどうかと思いますが?」

「あら、それは公爵様ともあろうお方の言葉と思えません」

「おや?」 

「恐れながら、公爵様はどなたもご自分と同じように出来ると安易にお考えだと言われたことはございませんか?」

「……それは」


 なにか痛いところを突かれたらしい。

 明らかに若干眉間のあたりが険しくなったルイに、それはそれは優雅ににっこりとヴェルレーヌは微笑んだ。


「人には得手不得手というものがございます。失礼ながら、繊細な指先の器用さを要する弦楽器はこの短期では少々難しいかと」


 どうやら、わたしに繊細な器用さを求める楽器は無理といった判断が下されたようだけれど、ヴェルレーヌは正しい。

 二本一組の細く緊密に張られた弦を撫でるように的確になんて……それだけで指がりそうでわたしも出来る気がしない。

 ルイが才能以上に努力の人なのも知っているけれど、そもそも基礎能力の部分水準以上な人で彼の要求水準は高い。

 彼の周りも優秀すぎるから、人並みが基準が狂っていると正直思う。


「鍵盤楽器にいたしましょう。公爵家なら当然ございますよね?」

「長く使っていないものなら」

「では、直ちに手を入れてくださいまし。そちらのがまだ、“あら、お出来にはなりますのね”くらいには短期集中で一曲必死でやればなんとかなるでしょう」

「彼女は私の妻ですよ……ヴェルレーヌ」

「ええ、ですからそう申し上げているのです」


 す、すごい。

 他の使用人とはフォート家に落ち着いた経緯が違うこともあって、フェリシアンさんも時折手を焼かされるらしいことは耳にしていたけれど。

 あのルイが、にこやかに押されている。

 

「そもそもそんな楽器をお持ちの家は限られますもの。意地悪でアルゥード披露しろと言われてお断りする際の言い訳にもなります」

「言い訳?」

「公爵様なら、アルゥードはもちろんのこときっとヴィオーレなどもお出来になるのでは」

「まあ、嗜み程度に。随分弾いてませんが」


 嗜み……と、ヴェルレーヌがぼそりと呟くのが聞こえた。

 それ絶対違いますよねといった響きが含まれていたけれど、ひとまずそこには触れないことにしたらしく小さくため息を吐く。


「器楽が不得手な方は珍しくありません。皆が満遍なく出来るものでもございませんもの。“弦楽器は苦手”としておけばよろしいのですわ。代わりに“夫の自分と合奏出来るものを楽しんでいる”とでも」

「ふむ、成程」

「目も当てられないことにさえならなければ、よろしいのでしょう?」

「貴女を引き受けたのは正解でした、ヴェルレーヌ」

「リモンヌ家は元商家です。お引き受けした契約はきっちりと果たしてご覧にいれます」


 儚げな美女と思っていたけれど、淑やかな所作でスカートを摘んで礼の形を取りながらルイを見上げる凛々しい眼差しがとても心強い。

 そういえば、父様もよく仰っていた。

 商人は狡猾だが、彼等は信用を重んじるから結んだ契約を簡単には反故にはしないって。


「頼りにしてます、ヴェルレーヌ」


 ヴェルレーヌに寄り添ってその手をつかみわたしがそう言えば、にっこりと彼女は微笑んだ。

 本当に女神様のようだと思った。

 

******


 拙いながらも与えられた課題曲をようやく両手で通しで弾けるようになったわたしの演奏を聴いて、ようございますと言ったヴェルレーヌにほっとわたしは息を吐いた。


 日は暮れたけれど、夕闇の空はまだうっすらと明るさを残して紫から青へと色を滲ませている。

 星の光が見え始めた深い青に沈んでいく空を白い枠が区切る、背後の大窓へわたしはちらりと視線を送った。

 窓辺の長椅子ソファに寛いで、ルイは目を閉じたままでいる。

 どう思っているのか読み取れない表情でいるから、おそらく及第点に達してはいなさそうだ。

 

 弾いている自分が一番よくわかってはいるものの、結構頑張っていると思うのだけれど。

 譜面の読み方も必死で覚えて。

 それにひと月前は触ったことすらないものなのにと、手元の、二段の鍵盤を収める四角い箱と弦が張られた大きな三角の箱を繋いだ大机のようなクラヴィサンと呼ばれる楽器へと視線を戻す。


 王宮で見かけたものと遜色ない、この楽器自体が美術品みたいなものだ。

 全面に四季の女神と精霊の絵が描かれ、楽器全体を支える七本の細い猫足や板の厚みの部分には優美な彫刻と金彩が施されている。

 この音楽室をルイに案内された時はご冗談でしょうと思った。

 これをわたしが弾くの、と。

 

「この調子なら王都へいらっしゃる頃に間に合うでしょう」

「本当?」


 わたしが不安そうにヴェルレーヌに尋ねれば、おそらくはと彼女ではなくルイが答えたのに窓を振り返った。

 目を開いていたルイは、なにやら少々不満気な雰囲気をまとっている。

 やはり、わたしの演奏ではご満足しないですよねと思ったら、どうもそれとは別の事を考えるように口元に指を当てて、クラヴィサンの弦が収まっている部分の側に立つヴェルレーヌを軽く睨んでいる。


「……しかし、貴女こそ何故教えられるのか」

「リモンヌ家は貴族としては下位ですがお金はうなるほどある家でしたもの。それに外に出られないわたくしの暇つぶしに両親は惜しみなかったものですから」

「言われてみれば……貴女、文学などもただの男爵令嬢らしからぬご趣味ですからね。今回の特別報酬の古書といい」

「特別報酬の古書?」

「この短期に王都の社交に堪えられるものをお教えするはちょっと、かなり、大変かと思いましたのでお給金の上乗せを……少しばかりふっかけ過ぎてしまいましたけれど」


 マリーベル様の教養が大変にちぐはぐなものでしたので、とヴェルレーヌは言った。


「ちぐはぐなもの?」

「お出来になられるところと、不十分なところの差が大きいのです」

「はあ」

「所謂お勉強、読み書き計算他歴史などはほとんど問題ありません。領地運営のお手伝いをなさっていたり、王妃様の第一侍女に抜擢されて通用していらしたのも納得です」

「だからおさらい程度で大丈夫って言ったのね」

「ええ、それに元王宮勤めだけあって、貴族の家名や系統などもよく頭に入っていらっしゃいます」

「それは仕事でしたから」

「ですが、その勢力や関係などについては、王妃様のお側にいたのが信じられないくらいからっきしです。一体どのようになさっていたのですか?」


 淑やかに小首を傾げるその仕草はとても上品だけれど、明らかに不可解といった表情を浮かべ細めた目でじっとわたしを見る彼女に、そう言われましても……と答える。


「周囲の方々の様子など見つつ臨機応変にとしか」

「そのような簡単なものではないはずですけれど……」

「ええと、なんとなくご機嫌損ねないように礼儀と序列に気をつけて……王妃様や文官の方々の助言に従って……」

「文官の方々?」


 それまでわたしよりもヴェルレーヌを見ていたルイが、その若干不機嫌そうな気配をわたしに向けてきたのに、なにと、座っていた椅子の上で身動ぎする。


「彼等は損得なしには動かないような人種です。いくら王妃の侍女だからって、何故直接彼等の業績に関わるわけでもない貴女にそのような親切を?」

「お可愛らしいからでは?」

「まさか、ないです。王宮には綺麗なお嬢様方は沢山いらっしゃるのですから。ああでも……そういえば」

「そういえば?」


 ルイがわたしの言葉を繰り返したのに、うーんと腕組みして頭の中で曖昧な記憶をたぐり寄せる。

 たしかにルイの言う通り。

 彼等は融通のきかない人達で、何度か声を荒げて口論もしたし、なかなか頼んだことをしてくれないからきつい口調でうるさく物を言うこともあったのだけれど。


「王宮勤めを辞める時に廊下で呼び止められて、あなたとは色々と業腹なこともあったが、結果的には感謝すべきことがどうとか……立て込んでいたのであまりきちんとお聞きできなくてご挨拶だけはしたのですけど。なにかのお役に立ったのかしら?」

「貴女一体、なにをしていたんですか……本当に」

「特になにも」

「なにかしていたならすぐ人の噂に立つはずですよね。公爵様ならお調べでしょう?」


 人差し指を顎先にあててのヴェルレーヌの言葉に、ルイが唸るように彼女の名を口にした。

 基本的にフォート家の使用人達はあるじであるルイに対して容赦がないものの、それでも敬意だとか敬愛の念を抱いているのが感じられるのだけれど。

 ヴェルレーヌはちょっとそのあたりが他の人達とは違う。

 なんていうの……ああそう、忠義心みたいなものが欠片もないというか、主人っていうよりはただの雇用主って感じで。

 でもって、主従というより対等な知人って雰囲気なのよね。


「……その、さも当然裏から手を回しているとマリーベルが誤解するような言い方は止してもらえますか」

「でもお調べになっていらっしゃいますよね?」

「たしかに調べていますよね、わたしのこと」

「ええ、まあ……多少は。後々のこともありますから」


 わたしの確認に、軽く咳払いしてルイは答える。

 彼は隠し事は大いにするけれど、嘘は吐かない。

 魔術師である彼にとっては言葉はあらゆる物事を規定するもの、加えてそれは神や精霊の力を使うためのものでもある。

 嘘という偽りの言葉を使うことは、神や精霊を欺き怒りを買う行為であるらしい。

 もっとも、隠し事や婉曲表現の解釈を相手に委ねることや、自分に都合のよい誤解をするよう言葉を駆使する行為は問題ないらしいので、まったく油断ならないのだけれど。


「少々珍しい立場の行儀見習いであることと、例の“芋虫事件”や王妃の抜擢くらいで、特筆すべきことは聞こえませんでしたね」

「当たり前です」

「貴女の話を聞いていると、とてもそうと思えないのですが。仕立屋に尋ねてもこれといったことは聞けませんでした」

「ナタンさん?」

「貴族間や王宮の噂話には詳しいですから、あの男は……そろそろ夕食の時間が近いですね」

「では、もう一度通して弾いてみましょう。姿勢はよろしいので手の形や指の運び方にご注意なさってください」


 ヴェルレーヌの言葉に頷いて、鍵盤に指を置く。

 曲はルイが選んだものだ。同じような指の運びの繰り返しでゆったりした曲ですからと。

 別に喜ばそうとは思っていないけれど、一曲集中ではあるわけだし。

 よろしいとか、結構とかまではいかなくても。

 いいのではないですか、くらいは言わせたくはある。


*****


 ヴェルレーヌ曰く、わたしの場合はお勉強はほどほどでよいから、それよりも動作と意識を変えること、あとはひたすら器楽の練習だそうな。


『マリーベル様はもう人を使う側です。使われる側の感覚はお捨てください』


 だそうで。

 でもって。


『動作はとにかくゆったり丁寧に指先まで意識して。少々のろまに思えるくらいでマリーベル様の場合は丁度いいです。お作法は王妃様の侍女だっただけにそれほど問題ありません』


 なんでも。


『侍女であったことに加え、トゥール家のご養女で公爵夫人であることからマリーベル様は王妃様の派閥の一員となることは確定です。一旦、受け入れられれば多少のことは大丈夫です。ですが、出来て崩すのと、出来なくて崩すしかないのでは天と地ほど違います』


 ということで。

 王妃様に恥ずかしい思いをさせないためにも、とにかく優雅な所作は是が非でも身につけなければならないものであるらしい。


『言葉遣いも、もう少し丁寧さを心がけてくださいませ』


 たしかに、少々くだけているとは思う。

 だから日常生活でなるべく訓練するように、最近では気をつけているのだけれど。

 けれど……。


「正直、体がうずうずするっ」

「その言葉は、旦那様の前では仰らないほうがよろしいですよ。マリーベル様」


 朝食を終えてからずっと、クラヴィサンの練習をしていたわたしにフェリシアンさんが「少し休憩なさっては」と声をかけ、音楽室にお茶の用意を運んでテーブルに並べてくれた。

 クラヴィサンの椅子に腰掛けたまま、彼の言葉にどうしてと尋ねれば、おそらくマリーベル様がお困りになるかとと彼は苦笑する。

 特に夜にその愚痴は止したほうがよろしいです、と言われて、ようやくその意味に気がつき、少し熱くなった両頬を押さえて「そうします」とわたしは答えた。


「仲睦まじくてよろしいことです」

揶揄からかわないでください……」

「まさか、私は先代からお仕えして旦那様を見ておりますから」


 音楽室はわたしとフェリシアンさんの二人きり。

 彼以外の使用人達は、今日も庭仕事の手伝いだ。

 だから、そんな言葉が出たのだろう。


 ああそうか。

 彼は、直接見ているのだ……ルイとご両親のことをと思ったけれど、それに触れることをわたしは避けた。


「そういえば、テレーズはいつ来るのだったかしら」

「七日後に。家政婦長が入ったなら、私の負担もかなり軽減されます」


 なにしろフォート家の女性使用人は皆それぞれ手がかかります、とさらりと口にしたフェリシアンさんに、言われてみればそうかもと若干引きつった笑みになってしまった。


「いまのところ手紙のやりとりですが、しっかりした方でいらっしゃる」

「この家に慣れてくれたら、きちんと仕切ってくれると思います。ルイにも物怖じしないでしょうし」

「それは頼もしい」

「わたくしのために、王都に連れて行くことになってしまいますけれど」

「リュシーやヴェルレーヌは同行できませんから。それにあちらであれこれ生じるだろう細かなことを処理してくださるなら、とても助かります。なにしろ西部や北部の件もあるもので」

 

 まだモンフォール家絡みの後始末が残っているらしい。

 本当に、わたしや父様のために申し訳ない。


「マリーベル様が気になさることではありませんよ……おや」

「あら?」


 窓から聞こえてきた音に反応して、フェリシアンさんがテーブルにお菓子のお皿を置いて顔を上げたのと、わたしが耳を澄ませたのはほぼ同時だった。


「なんて素敵な音色……」

 

 思わず窓の側へ寄って、長椅子ソファの脇でうっとり目を閉じて呟いた。

 歪みのない。

 まるで真っ直ぐに天に届くような、深みのある弦の音色だ。


「……旦那様」

「ルイ?」

「左様で……」


 まあ、こんな音色を奏でられれるとしたら彼しかいないだろうけれど、彼の名を口にしたわたしに応じるフェリシアンさんの、声の僅かな震えに思わず彼を振り返った。


「どうかした?」

「いいえ、いえ……お懐かしいと思いまして」

「懐かしい?」

「はい」


 フェリシアンさんの落ち着いた返事を聞いて、一体どこで弾いているのかしらと再び窓へ顔を向けて庭を見下ろす。

 すぐ近くのように聞こえるけれど、建物のでっぱりで死角になって見えない位置のようだ。

 

「おそらく中庭です。マリーベル様の私室とこの音楽室の間あたりで。昔、たびたびそちらで弾いておいででしたから」

「ルイが?」

「はい、大奥様にお聞かせするために。大奥様お使いになられていた部屋の窓から見えない位置で」

「見えない……」


 ルイのお母様は、生まれてすぐの魔術の制御がきかない我が子への抑えきれない恐怖と愛情との葛藤に心が疲れて、彼の顔や姿が見られなくなってしまった。

 それはルイが成長し危険ではなくなった後も、お亡くなりになるまで続いた。

 

「大奥様は旦那様の演奏がとてもお好きでした。旦那様への手紙でもその音色をほめておりました」

「ルイのお母様の手紙の中身を知っているの?」


 ええ、旦那様が見せてくださいましたのでと、フェリシアンさんは答えた。

 その内容はルイをほめるものだったと言ったのに、どこかが痛んだように一瞬目を伏せ、気を取り直したようにわたしに柔和な笑みを見せた。


「正直、また聞けると思ってはおりませんでした」

「フェリシアンさん……?」

「……一失点でございますよ」

「あ……」

「ですが、この音色に聴き入って聞こえなかったことにしておきましょう」


 え、本当に?

 でもどうしてと、瞬きしたわたしの胸の内を読んだのだろう。

 微かに苦笑してフェリシアンさんは、「ささやかなお礼でございます」とカップにお茶を注いだ。

 お礼?

 なんだかよくわからないけれど、まあいいかと思った。

 それより、聞こえてくる音色に耳を傾けていたい。

 そうして黙って聴いていて気がついた。

 いまわたしが練習している、ルイが選んだ曲と共通の旋律を含んでいる。


『“弦楽器は苦手”としておけばよろしいのですわ。代わりに“夫の自分と合奏出来るものを楽しんでいる”とでも』


 ヴェルレーヌがルイに提案した言葉が思い浮かんで、ああそうかと胸の内で驚いていたから、フェリシアンさんがなにか呟いた気がしたけれど聞き逃してしまった。


「いまなにか言いました? ルイの演奏に意識が向いていて……」

「いいえ」

「そう」


 気のせいだったようだ。


「お茶を飲みながらお聞きになられてはいかがですか」

「そうね」


 頷いて。

 フェリシアンさんが勧めてくれた椅子にゆっくりと腰掛けて、お茶の香りと綺麗な音色を目を閉じて楽しむ。


 わたしが気のせいだと思ったフェリシアンさんの呟きは、やはり気のせいではなかったけれど、どんな言葉を呟いたのかを知るのはずっと先、随分後になってからだ。

 それはルイのお母様が彼への手紙に書いた言葉。


 “いつかあなたに愛する人ができた時、聞かせてあげたならきっと喜んでくれるでしょう……”

  

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