挿話 フォート家の家令(3)
『ルイ、ここ数日、随分と遅くまで起きて本を読んでいるそうね。寝不足で馬に乗っては危ないわ、あなたは案外早く駆けると聞いています。
小さな頃、少し気が短いところがあったものね。
あなたの様子は、先生方やフェリシアンから聞いているの。
もう受洗式で着た上着の丈が少し足りなくなったのですって?
私が知るあなたと比べて、きっと背は随分伸びているのでしょう。
次の春の祝いの上着には、地の精霊の御加護を願って刺繍をしなければね。魔術師にとっては叡智を司る精霊ですもの、あなたの賢さはきっとあなたを守ってくれるでしょう。
先生方や皆の言うことをよく聞いて、夜は早めに休んで頂戴――』
夜遅く、奥様は、ルイ様の私室のドアの隙間から時折手紙をそっと差し込んでいかれます。
ルイ様の姿を見ることはできなくても、奥様はたしかにルイ様を愛しておりました。
奥様は、私や家庭教師達を私室に招き、ルイ様のご様子を静かに聞いて、側にいる侍女達に自慢することすらありました。
それなのに、どうしても直接お会いすることは難しいのです。
何度も、本当に何度も、奥様はルイ様に近づこうとしていましたが、どうしてもそれは出来ませんでした。
奥様の意志に反し、全身が震え呼吸が苦しくなる発作は治ることはなく、結局、お亡くなりになるまで苦悩は続いたのです。
ルイ様は、奥様がご自分の心の病を克服しようと苦しまれていることを知っていました。
あの方が夜遅くまで起きているのは、差し込まれる手紙を受け取るため。
それだけが、母子が最も近づくことのできる唯一の接点といっても過言ではありませんでした。
存在を意識させれば発作が起きてしまうため、ルイ様は灯りを消し、暗い部屋で眠っていると思わせて、私室のドアの側で手紙を差し込む奥様を待っていました。それを知っているのは、屋敷の中で私だけです。
ルイ様は繰り返し読まれた手紙を手に、ぽつりと呟くように私に漏らすのです。
「母上も悪いなどと思わず、私のことなど早く忘れてしまえばよいのに」
「……ルイ様」
「命運の女神に記憶の忘却を遡って命じさせる魔術を組もうとしても壊れてしまう」
「ルイ様っ」
「フェリシアン、わかっている」
時そのものを、人の手で操ることは不可能だ――そう美しく微笑まれるのは、まだ八つにも満たない方なのです。
ご自分のことを母親の記憶から完全に消すために、忘却の魔術を組もうと何度も試みているのは。
「もし、それが出来たなら……」
あの時、ルイ様はなんと仰るつもりだったのでしょうか。
時そのものを、人の手で操ることが出来たのならば――。
ルイ様は、生まれながらにして魔術師としか生きられないフォート家に生まれたことで、子供であることを許されなかった方でした。
私には、命運の女神というものがわかりません。
時そのものを、人の手で操ることは不可能として忘却の魔術は成り立たせない一方で、なんという非情な色合いの“天上の紡ぎ糸”をルイ様にお与えになったのでしょうか。
年月を重ねるごとに、子供ではいられないルイ様の状況は解消されるどころか、ますます彼を隙のない貴族としてあらねばならない場所へと押し流していったのですから。
*****
『昨日、窓からあなたの奏でるヴィオーレの音色が聞こえてえきました。
あれは中庭で奏でていたのかしら。
あなたの音色は歪みがなくてまるで真っ直ぐに天に届くようなのね、窓辺に椅子を置いて聞き入っていました。
いつかあなたに愛する人ができた時、聞かせてあげたならきっと喜んでくれるでしょう。
共和国との争いにお父様が出て随分と経つけれど、必ずご無事でお帰りになりますよ――』
それはよく晴れた秋の日でした。
秋を司る乙女、風の精霊シルヴィエールが舞うにふさわしい、そんな美しい秋の日だというのに、共和国との争いの
人が減り、どこかがらんと静かな屋敷の廊下の窓から、高く澄んだ空を見上げたルイ様の横顔を、あの歪んでいまにも泣き出しそうに見えた表情を、私はきっと忘れることはないでしょう。
「愛する人など、できるはずもない」
ルイ様は、十一歳となっていました。
十三歳ともなれば王宮にも上がれ、十五歳になれば成人と認められます。
公爵家の嫡男として、一般的な貴族であればそろそろ婚約者候補の話が出てもいい頃です。
しかしフォート家には婚約者候補などといった考え方はありません。
フォート家の当主の相手は、フォート家にかけられた呪いの如き精霊の祝福によって決まります。
祝福は、たった一人を選ばせる。
フォート家の当主が愛する者は、ただ一人。
けれどその愛する者には、いまの奥様のような苦しみを与えることになりかねないのです。
意志と心と体が噛み合わないまま、徐々に奥様は少しずつ壊れ、苦悩のために弱っていきました。元々、それほど体が丈夫な方でもないのです。
奥様の苦悩は旦那様にも及びました。
どれほど旦那様が奥様を気遣い愛しても、奥様にとっては我が子を見ることもできないいまの苦しみの元凶であることに結びつきます。
どうして私を選んだのっ……私を解放して……!
そのように旦那様に訴える奥様の嘆きは、やがてルイ様の耳にも届くところとなり、私はそんなご家族の姿をとても見てはいられませんでした。
どれほど奥様に詰られ嘆かれても、旦那様は奥様を自分の元から手放そうとはしませんでした。
しかし、奥様の側にいるのは彼女にとってよいことではないと考えたのか、あるいは共和国との争いが激化していったためなのか、王都や戦地に赴いて、以前ほどの頻度で屋敷に戻ることはなくなりました。
哀しみと苦悩をぶつける先を失った奥様は、それからはもう生きる屍も同然でした。その瞳は虚で表情を失い、言葉を滅多に発することもなく、食事もろくに召し上がらず、ただ時が過ぎるのを待っているようでした。
「私は誰も選ばない――苦しめるとわかっていてどうして選べる?」
「旦那様や奥様のことを仰っているのなら……お二人のことはお二人にしかわからないことです」
旦那様も奥様も、互いを深く愛していることは揺るぎようのない事実でした。
けれどもお二人のそれは、互いを傷つけ、しかし互いにしか救いを求められないそのようなものでした。
十一歳のルイ様に、そのようなこと理解できるはずもありません。
まして、自分の存在を母親の記憶から消し去ろうと、忘却の魔術を組むことを諦めてもいなかったルイ様には。
たとえ苦しみを抱えていても、我が子に愛する者をと願う母親の気持ちなど届くはずもなかったのです。
*****
『ルイ、どうしているかしら。
いつのまにかとても寒くなったわ。
窓の外も真白でまるであなたが生まれた日のようで――ルイ、愛し……』
旦那様の戦死の報が届いたその翌日は、鉛色の空から綿のような雪が絶え間なく降り落ちる、なにもかもがその白い色に閉じ込められるような冬の日でした。
雪の上に赤々とした炎が燃えています。
しかし、私があの日、屋敷から見た業火の色とはまるで違っていました。
魔術ではなく、自らの手で薪を組んで起こした火。
赤から黄色に揺らめく炎を見つめ、ルイ様は、幾枚もの彼に向けた言葉が綴られた母親の手跡の残るその紙を、静かに炎の中へと投げ込んでいました。
「フェリシアン」
ルイ様、いえ――。
ルイ・メナージュ・ヴァンサン・ラ・フォートという名の、新しい旦那様の私に対する呼びかけでした。
衰弱し切っていた奥様が、風邪を拗らせて亡くなって間もなく、まるで後を追うように旦那様も戦地で息を引き取りました。
ルイ様は、十二歳にして家督を継ぎ、フォート家の当主となられたのです。
「私にはどうでもいい。公爵家など、フォート家の魔術も。しかしここで途絶えさせてしまったらあの人の苦しみも、彼等の……いや、これまでうんざりするほど繰り返されただろうフォート家の悲劇はまったくの無駄ということになる」
「旦那様……」
「フォート家の当主としてなにもかも続けなければならないというのに、一体、十二の子供になにができる?」
ぱちんと、燃える木の爆ぜる音がして、周囲に厚く積もった雪に吸い込まれていきました。
エクサ王国東部大領地ロタール公爵領領主にして防衛地区バラン辺境伯。
元七小国王家の血を継ぎ、王国の魔術の歴史を担う魔術師――それらを背負うにはあまりに若すぎる当主。
一体どれほどの、どのような者達がどういった思惑と悪意をもって、若き当主に群がるか。その恐ろしさも重圧も、私には想像もできませんでした。
「“祝福“に振り回されるのは私の代でたくさんだ。だからこそ、フォート家の魔術師であり続けなければならない」
ただでさえ。
これまでも誰に甘えることもできず、優秀な後継者としての振る舞いを続けてきたルイ様であるのに、この日、子供であることの一切を自ら断たねばならなくなったのです。
なに一つ。
本当になに一つ、私はお役に立てませんでした。
そのような私が。
フォート家の家令である私が、いまお役に立てずになにが家令でしょうか。
「領地と屋敷はどうぞお任せください。旦那様は魔術師なのですから」
「父上に引き続きお前に任せる。共和国の争いの沈静化、いやその前に王家の認めを得ることが先か……」
「冬の女神に仕える地の精霊は、魔術師にとって叡智を司る精霊でございます」
「フェリシアン?」
「旦那様の中にある叡智は、旦那様ご自身を必ずお守りするはずです」
旦那様の賢さはきっと旦那様を守るだろうと、そう大奥様は仰っていました。
旦那様は冬生まれ。
冬の女神に仕える地の精霊が守らないはずがない、そう言い添えた私の胸の内の声など聞こえるはずがないというのに。
旦那様は私を振り返って見上げると意外そうに瞬きし、少し間を置いて、とても大人びた微笑みを見せました。
「……そうですね。たしかに」
すべてをふっ切った、穏やかな声音と口調でした。
旦那様は再び炎に向かい、その青灰色の目を僅かに伏せて最後の一枚を火にくべました。
紙に短く綴られた、ペンを持つ力を失って乱れ、ほとんど文字の形を成していない。インクは滲み、伝えようとした言葉を成そうとした文字は力尽きた一本の線に流れて細く途切れていました。
それは、最期の手紙でした――。
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