第18話 魔術師の帰宅
お嫁入りの荷物ではなく、クローゼットの中に用意されていた寸法ぴったりに誂えられていたドレスの数々は、おそらく魔術師が勝手に頼んだものに違いない。
わたしの婚礼衣装を作った、王妃様をはじめとする錚々たる貴族の方々を顧客に持つ超一流の服飾職人・ナタンさんに、きっと婚礼衣装の採寸を元にして。
その中から比較的控えめなものを希望して、リュシーが選んだ空色のドレスに着替え、彼女に髪を結い上げてもらう。
「はあ、やっぱり王家御用達なナタンさんのドレスは素敵ですよねえ……」
支度したわたしの姿を眺め、両頬に手を当ててうっとりため息を吐きながらリュシーは呟く。
「旦那様の服も素敵ですけど、ドレスを見たい触りたいって思っていたんですぅ」
「魔術師なローブ以外、見たことないけど」
「えっ、そうなんですか!? なんて勿体無い!」
それはそれは素敵なんですよぉ……と、呟いているリュシーの様子に、オドレイといい使用人に慕われているのねと思う。
「それにしても、ナタンさんの工房って王家御用達なだけに貴族からの注文をいつも沢山抱えていて大忙しなのに。よくこんなにも作らせたものね」
自分の荷物なんて不要なくらい、普段着から昼夜の外出用まで揃っている。
上等な衣装ばかりを新しくこれだけ誂えさせる財力がすごい。
「出資者なのですから、フォート家の注文は最優先ですよぉ」
魔術師はナタンさんの工房にその有り余る財産を投資している。
ナタンさんの工房だけでなく彼の目に留まったあちらこちらへ、使い切れないお金を使ってくれるならそれでよいと流し込んでいるらしい。
結局のところ富が富を生む状態となって、流し込んだ以上のお金が戻ってきているそうだけど。
「そりゃそうですよ、旦那様は趣味がいいし出し惜しみしませんから。皆張り切って良い物を作るんです」
誇らしげにリュシーは話し、それは結構なことだとは思うけれど、当面は屋敷から出る用もなさそうなわたしのために、どれほどの注文が後回しにされたんだろとも思う。
「いくら公爵家で出資者だからって、割り込みは横暴では」
「でも領内の絹地を優先供給もしていますよ。リュシーも“美を愛する同志”として染め色選びなんかをちょっと協力してますし」
リュシーは綺麗なものが好きなようで、十四歳の少女とは思えないくらい服飾や小物周り、髪型や化粧品や香料など美容にも詳しい。
職人としては厳しいあのナタンさんとは“美を愛する同志”として、互いに認め合う間柄らしいから驚きだ。
魔術師がわたしの侍女に彼女を選んだのも納得だった。
「それに普段はあまり注文なさらないから今回は特別で、ナタンさんもお祝いだって手紙に書いてましたしぃ。それにナタンさん、旦那様が注文するとものすごく嫌がりますから。普通の服でも好みが細かいし、魔術師の服なんかは特に面倒だって」
「そうなの? 魔術師の服なんてドレスと比べたらそんなに面倒なものに思えないけれど」
「なんでもぉ、魔術向けの素材から集めないといけないって。刺繍なんかも頼める職人が限られていて大変って……費用もものすごくかかるみたいでフェリシアンさんが意見するくらい」
あのローブって、そんなにすごい服なの?
たしかにものすごく上等で地厚な絹をたっぷり使ったもので、縁に入っている刺繍も繊細な模様ではあるけれど。
魔術向けというところで特殊なのかもしれない。
そんなことをとりとめなく考えながら、リュシーと一緒に部屋を出て、室内に飾る花を選びに庭へ出る彼女と分かれて、一人で屋敷の長い長い廊下を歩く。
「……人がいないわ」
屋敷の中とはいえ、女主人が一人きりで動き回るなんてことは普通はないけれど、使用人が極端に少ない屋敷だから仕方ない。
かつては王城だったという、広大過ぎる屋敷に対して人が少な過ぎる。
そういえば、いま頃王宮はどうしているかしら。
嫁いでまだ三日なのに、もうなんだか懐かしいように思える。
王都や王宮と比べて、とても静かで穏やかな所で屋敷だからかもしれない。
ええ、本当に……。
どうしてやろうかっこのお屋敷っ!
王国以前の七小国の一つであった公爵家。
その屋敷は無駄に広く、勿体無くもその大半を寂れるがまま放置されている。
屋敷の主人は、人も招くこともほぼなく、私室か図書室に引き篭もって魔術研究に勤しんでいるため、他に使うのは食べる所くらいだとか。
「まだ、リュシーやオドレイさん達の方が屋敷を有効活用しているわ」
部屋が有り余っているフォート家に、使用人には地下や屋根裏の部屋をあてがうなんて発想自体がない。
生活の場として使用している棟は、主の区画と使用人の区画に大雑把に二分されている。各人個室を与えられ、休憩室や遊興室などに空いている部屋を好きに使うことも許されていた。
「雇用条件も、契約書を見せてもらったら本当に王国の法規制の水準以上な条件だったし」
正直、魔術師の妻でなくなったら、小間使いとして雇ってもらいたいと思ったくらい。
たったの八人でこの屋敷を維持してくれているし、皆、素晴らしく働き者で仕事も素晴らしいから異論はないけれど、一般的な貴族の家と大きく違っているのはたしかだ。
「変人……変わり者の貴族扱いされても仕方ない」
それに、使われていない棟は、調度に埃や蜘蛛の巣が被り放題。
どう見ても廃墟同然な状態の廊下に立って、はああっと息を吐いてわたしはがくりと首を落とす。
「こんなに立派なお屋敷なのに……」
気になる。
気になりすぎる。
掃除したい、埃まみれになっていても素晴らしさがわかる調度の数々を磨いてしかるべきものをしかるべき場所へ配置し、目録を整理したい。
「いくら持てるものだからって、粗末にしていいわけではないのよ」
「まったくもってその通りでございます」
背後からの初老の男性の声に振り返れば、なんとなく平目や
フォート家の家令、フェリシアンさんがにこにこと笑みを浮かべて立っていた。
先代当主から仕えている最古参の使用人。
柔和な表情、親しみと敬いが絶妙な均衡を保ち、丁寧でも慇懃さはないその使用人として洗練された物腰。
わたしも王妃様の第一侍女として、王宮で何千何百人といった使用人の一員として王宮仕えの人々を見ていたからわかる。
この
「フェリシアンさんほどの方がいて、どうしてこんな状態に?」
「以前は公爵家らしく大勢の使用人もいて、いまよりは多少整っておりましたがこのあたりは先の旦那様に拾われた頃から似た有様で……」
なるほど。
広大な屋敷や敷地を持て余しているのは、魔術師の代からではないわけだ。
「こういうの、魔術でなんとかならないものなのかしら?」
「先代もいまの旦那様も、そのようなことはなさりませんね」
「先代の奥様はなにも仰らなかったの?」
「現在使用している元王妃の棟以外はなかったことにしていらっしゃいました」
「なかったこと……」
「はい」
「気持ちはわかるわ」
「ええ、大奥様を責める気にはわたくしもなれません。病弱な方でしたし」
そういえば。
魔術師はまだ幼いといってもいい歳に、両親を亡くして家督を継いでいる。
やや斜め後ろに控えるフェリシアンさんをわたしは振り仰いだ。
家令といえば、資産に領地、人員から領民のことまで知り尽くしているはず。
先代からならなおさら、もしかすると主である魔術師よりもフォート家について詳しいかもしれない。
出来る使用人というのは、誇り高い。
その家に新たに入る余所者にとって、手強い相手になることもある。
わたしがフォート家に来てまだ三日。
主と結婚した奥様というだけで、無条件に受け入れてもらえているかどうかわからない。
「お聞きになりたいことがあれば、なんなりと」
「……あの方が戻ってきたら相談してみます」
魔術師の妻とはいえ、彼の留守中にあれやこれや聞き出すような不躾で図々しいことはしないほうがきっと無難だ。
小さく息を吐いて、ひとまず引き上げることに決めた。
それに書かなければならない婚儀のお祝いのお礼状が山のようにある。
「旦那様がマリーベル様をお選びになられたのがわかる気がします」
「え?」
「お若いのに慎ましやかで思慮深い」
奥様というのは止してと言えば、あっさり切り替えてくれたのはこの人だけだ。少しずつ慣れてくださればよいのですといって。
「本当に、無駄に格の高いフォート家に嫁いでいただくために大変なご面倒をかけてしまって。お越しいただいたらいただいたで頭を悩ませてしまい申し訳なく思っております」
「はあ、あの」
「そもそも私共の主と人生を共にするなどと、それだけで尊敬に値します」
「ええと……」
「失礼いたしました。この家の者達は私を含め、主に似て口が悪いもので」
「堂々仰るようなことではないかと」
「まったくもってその通りでございます」
にこにことそう言ったフェリシアンさんに、特殊な事情があるだけでなくフォート家の使用人は少々変わっていると思った。
なんとなく顔の印象が平べったいフェリシアンさんは、魚の精霊の血を引いていて、彼の手の指と指の間には小さな水かきのような膜がついている。
「部屋に戻ります。お礼状をまだ沢山書かなければいけないの。昼食は簡単なものを運んでもらえると助かるのですが」
「では、そうしましょう」
「ありがとうございます」
フェリシアンさんにお礼を言って部屋に戻れば、寝台にたっぷりした濃紺の布の塊が見えて反射的に頰が引きつった。
そろりと近づいて中をのぞけば、案の定、魔術師。
しかも目を閉じている。
「いつの間に戻ってきたの?」
フェリシアンさんはなにも言わなかったから、きっと彼が戻ったことに気がついていない。
部屋に飾る花をとり庭にへ出たリュシーはまだ戻っていないらしい。
ということは、帰ってきて間もない。
そこまで考えたら、うつ伏せ加減だった布の塊がこちらに向かってごろりと身動いだ。
「新妻の顔を見たくて大急ぎで戻ったというのに。随分ですね」
「玄関から?」
「窓からです。驚かせようかと。ただいまマリーベル」
「ここは、三階ですけど」
「そうですね。私がいない間、なにをしていました?」
「……お屋敷の中を少しずつ見て回って、あとはひたすらお礼状を書いてます」
「適当でいいですよ、そんなの」
「そういうわけにはいきません」
お礼状は早く。
基本中の基本だ。
追いついていないのが心苦しいくらいだ。
「本当に真面目ですねぇ、貴女は」
「ちょ……っと!?」
突然、魔術師が跳ね起き、私の腕を取って再び寝台に倒れこんだ。
警戒して距離を取っていたのに、魔術師に引っ張られた勢いのまま、彼の体の上に乗ってしまう。
身を起こそうとすれば彼の手が背中に、軽く押さえるように抱かれる。
「私達は新婚で蜜月ですよ。多少遅れたところで、ああそうかとなるだけです」
「それ、絶対いやです」
言いながら、心臓が早鐘を打つのがわかった。
細身に見えて意外に逞しい胸が布越しに。
固く締まった彼の身体に触れて意識しないよう努めても、まだそう日が経っていない初夜のことをどうしても思い出してしまう。
「やはり、後処理はオドレイに任せて戻ってきた甲斐がありました」
「……どこへ、行っていたの?」
意識をそらすために尋ねたはずが、ぎこちない言い方になった。
これじゃあまるで初夜が明けてすぐ出掛け、いま帰ってきた彼を軽く詰って甘えているみたいだ。
「領地の小集落です。魔狼の害があったと知らせがあって……家を壊された人などもいたので少々面倒でしたね」
「魔狼……?」
「狼の魔物です。名前通り、魔力を持つ狼で一匹でも追い払うのは骨ですが三匹も現れて」
「狼って!」
驚いて彼の上で身を起こせば、背中の手は簡単に外れた。
普通の獣の狼だって恐ろしいものなのに。
私の顔を見たいなんて言っていたけど、オドレイさんを置いて先に人知れず戻って横になっているなんて。
怪我などしていないでしょうねと、確かめるように魔術師の腕などに触れ、彼の顔の近くで手を掴まれた。
「怪我などはしてません。勿論、オドレイも」
「本当に?」
「本当です。少々疲れたので横になっただけですよ。信用ないですね」
「だって」
あなた自分のことはなにも言わないじゃない。
子供といっていい歳に当主になって、戦にも出ていた人。
その後も、この広すぎる屋敷にほんのわずかな使用人と長く独り身のまま。
「……やはり、仕立て屋に任せたのは正解でした。よく似合ってます」
「色々と、着る用がなさそうなものまでご用意していただいて……」
「そのために細かく採寸をしてもらいましたからね」
離れようとしたけれど、右手と左の二の腕を掴まれている。
それほど力は入ってなくて添えているようなものだったけど、わたしの顔を眺めるように魔術師が見ているものだから、なんとなく振り払うのは躊躇われた。
「いくら婚礼衣装にしても細か過ぎるって思ったけれど……」
青みがかった灰色の瞳が細められるのを見下ろしながら、ナタンさんの言葉が脳裏に蘇る。
彼に聞けないでいるフォート家の噂。
『フォート家って、少子短命で有名だから。先代も先々代も四十位で亡くなっていて』
『子供も大抵一人なのよね。運良く男の子で代が途絶えてはないけれど』
『あのすかした大貴族様らしくないし、ちらっとそんなこと思っちゃったんだけど、まあお元気そうだし、恋は盲目っていうし』
長く、独り身でいたはずなのに。
どうして急にわたしと強引に結婚したの?
「なにを考えて?」
「別に、いつまで人の手を掴んでいるのかしら、とか?」
「触れていたいんですよ」
頰に、腕を掴んでいたはずのもう一方の手が触れて、少し彼が身動ぎした。
その動きに合わせてわたしは彼の体から滑り降りて、彼のすぐそばに横座りになる。
「またそんなことを言って……」
変だ。
すごく変だ。
だって魔術師の顔が近づいているのに、なんだか動く気になれない。
唇に吐息がかかって目を閉じかけた時。
扉を叩く音がしてはっと我に返った。
慌てて返事をすれば、わたしが頼んだ通りに昼食を持ってきてくれたフェリシアンさんが部屋に入ってきて、「おや、お帰りになっていらしたのですか旦那様」とさして驚いた様子もなく言った。
「フェリシアン」
「はい、旦那様」
「間が悪い」
低い声で呟いた魔術師に、フエリシアンさんは早々に退室いたしますのでと彼をあしらうように答える。
その様は、さすがに先代から仕えている家令だけれど。
「私室の机の上でよろしいですか?」
「え……ええ」
気まずい、大変に気まずい。
絶対誤解されてる。
なんていうの、その、仲睦まじいお二人でって感じに。
「お茶はこちらのテーブルに置いておきます」
お皿に蓋をかぶせてある昼食を続き間の私室に置いて、寝室に戻って茶器をチェス盤のような柄のテーブルに配置し、フェリシアンさんはわたしの顔を見てにっこりと微笑んだ。
「あのっ、違うの、部屋に戻ったらこの人が窓から入ったとか言って寝ていて……」
「リュシーには、しばらく部屋の外の用事を申しつけておきましょう」
「や、だから……あのっ」
「失礼いたします、旦那様、
「そうじゃなくて」
だから、違うの――っ!
寝台から、もうとっくに去ったフェリシアンさんの後ろ姿を引き止めるように、もうすでに閉じている扉に向かって手を伸ばす。
そんなわたしを、再び寝そべって眺めていた魔術師がなにが違うんですかと意地悪く尋ねてくるのに、うっと言葉に詰まる。
「ふむ、リュシーはしばらく来ませんか」
「あの、よからぬことは考えないで……」
「
「よいことも考えないでっ」
「まあ、少し落ち着いてお茶でも飲みませんか」
えっ、と振り返ったわたしに、魔術師は喉を鳴らすように笑いながら起き上がった。
からかわれた。
「本当にかわいらしいですね、貴女は。マリーベル」
「だからっ、そうやって人をからか――」
唇に、もう違和感を失ってしまった温もりが触れる。
触れただけ。
触れているだけ。
「……ぁ」
どさっと頭の後ろで音がして、魔術師とわたしの位置が交代していた。
銀色の髪がさらりと落ちてきて、わたしの鼻先を擽る。
「おかえりと、言ってくれないのですか? マリーベル」
「お……かえり、なさい……」
「結構」
すっと彼が身を引いて優雅な所作で移動してテーブルの椅子に腰掛け、お茶を入れ始めたのに呆気にとられる。
「昼食もこちらにしませんか?」
問われてこくりと頷いた。
隣の部屋に魔術師の姿が消えたのを見て、そっと自分の唇に指先で触れる。
変だ。
絶対、変だ。
もう少しだけ、なんて……。
「思ってない、絶対思ってないっ」
ぶんぶんと首を横に振って、わたしは寝台をおりた。
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