第25話 腑抜け

 ――歴代当主の妻が、夫より早く亡くなっているのはどうして?


 魔術師の部屋でそう彼に尋ねたわたしに、魔術師は青みがかった灰色の眼差しが僅かに細めた。

 まるでいつ尋ねてくるか待っていたともいうように。

 彼の手がわたしの頬を撫ぜ、彼の唇が動く。


「それは――」


 次に続く言葉を、わたしは黙って待っていたのに……。 

 どさり、と人の上に覆いかぶさるように倒れ伏してきた魔術師にわたしは慌てて声を上げる。


「へっ、は!? な、なにっ……こんな誤魔化し方……って」


 すーっ、と。

 聞こえてきた静かな吐息の音に、えっ、と覆いかぶさってきた彼を押しのけようと動かしていた手足を止めた。


 なに?

 これ?

 もしかして、寝てる?


「ちょっと!」


 えいやっと両腕を伸ばして、足で軽く押すようにして彼をすぐ横の空いている場所に転がし、はあっと額を手の甲でぬぐいながら身を起こす。

 いくら眠いからって、人が真剣に尋ねている時に答えかけて突然寝るんじゃないわよっと、転がしても眠っている彼を揺さぶる。

 本当に、まったく、ふざけてる。

 結構、怒り任せに揺さぶったのに一向に目を覚まさない。

 寝息はかすかに聞こえるけれど、静かで、本当にただ眠っているだけなのかだんだん心配になってくる。


「ルイ……? あの……」


 いくら寝不足に耐えかねて熟睡したといっても流石におかしい。

 白い、赤みの少ない頬に指先で触れた時、「無駄です」と背後からオドレイさんのきっぱりとした声が聞こえて、何故か見られてはいけないところを見られたみたいにびくっと一瞬体を強張らせてしまった。


「あ、えっと……無駄って?」


 半ば横になったまま後ろを振り返れば、お茶の用意を乗せたトレーを持って、衝立の斜め後ろに控えるオドレイさんの姿があった。


「もしや、お取り込み中でしたか?」

「えっ? いやいやいや違うっ、違うからっ……これはっ!」


 お茶の時間をあらかじめ魔術師に指示されていたのだろう。

 突然、現れたオドレイさんに慌てて説明する。


「か、彼がわたしに仕込んだ魔術の具合をたしかめるためにって、ここに寝かされて。そしたらこの人が眠いから昼寝すると言い出しただけで……っ」

「ご夫婦なのですから、なにをしていたところで慌てる必要はないのでは」

「あー……そうかも、だけど……」


 また、衝立の向こうへと引っ込み、姿が見えなくなったオドレイさんにわたしは呟く。

 おそらくは、雑多なものが並ぶ大きなテーブルのような台にトレーを置いてきたのだろう。

 少し間を置いて手ぶらで戻ってきたオドレイさんはわたしに近づくと、失礼致しますと律儀に断って、魔術師の様子を検分するようにしばらく眺めた。


「やはり腑抜けてますね」

「腑抜け?」

「こうなっては、目が覚めるまではなにをしても目を覚ましません。ここから蹴落としてもたぶん起きませんよ」


 目が覚めるまではなにをしても目を覚まさない。

 なんだか妙な言い回しだけれど、たしかにあれほど揺さぶったのにちっとも目を覚ます気配も見せなかった。

 それにしても寝台から蹴落としてもって……魔術師の従者なのに。


「以前、思い切り踏みつけてみたことがありますが、それでも起きませんでした」

「え、ええっ!?」 


 踏みつけたって、オドレイさんはこの人の従者じゃっ……と、あまりに常識外れな彼女の発言に驚いて振り仰げば、オドレイさんは麗人といった形容がぴったりなしかし表情に乏しい顔に掛かる髪を耳の後ろへかけるように払って、ええ、と答えた。


「山に棲みついた妖の者と対峙し、野犬に囲まれている最中でしたの止むを得ず。旦那様が私のような者を従者に都合がいいと仰った意味を、まだよくわかっていなかった頃の話です」

「はあ」


 そういえば。

 男性の主人には普通、男性の使用人が従う。

 この屋敷の使用人は彼女だけではないし、従者ができそうな男性使用人もいるのに。

 わたしの疑問を察したのだろう。

 オドレイさんは少しだけわたしに笑むように口元を吊り上げて見せた。


「シモンですか? あれはダメです。器用で機転はききますがつむじ風を操れる他はてんで弱くて話になりませんから」

「はあ……」

「そもそも体幹からしてなっていません。いまだに指一本しか使わないわたしに勝てないのではとても旦那様をお護りするなどとても。貧民街にいたと聞いておりますが、旦那様と出会うまでよくやってこられたものです」

「はあ」

「王国は最低辺といっても施しなどもあり、彼やその子分の子供を縛っていた親方なる人物は食事なども与えていたようです。共和国だったら死んでいたのではないでしょうか」

「……はあ」


 あの魔術師が、オドレイさんの過去は苛酷で話して聞かせるのは憚られると言っていたけれど、特に文句でも愚痴でもなく淡々と話すその言葉は、淡々としているだけに真実味がある。

 共和国だったら死んでいたのではないでしょうかって……一体、彼女はフォート家に来るまではどんな生活を。

 共和国は身分の差が大きいらしいけれど、少なくとも王国では最下層とされる貧民街が生温く感じられるくらいには立場の弱い人たちのいる環境は酷いもののようであるらしい。

 初夜の時、魔術師のためにお茶に混ぜたようないかがわしい薬も用意できるし、元傭兵とは聞いているけれどただの傭兵ではなさそうなのは彼女を見ていればわかる。 

 フォート家の使用人はフォート家に来る前は恵まれない境遇にいた人がほとんど、オドレイさんはその最たるものであることは聞いている。


「私の過去が気になりますか? 奥様」

「少し。でも、きっと知らない方がお互いにいいってこともあると思うから」

「私は構いません。旦那様があえて人に話すことはないと。なにしろ過去に尋ねられてお話しした方は話を聞くやまるで鼠の死骸でも見るような目で見たり、その場で泣き崩れたりと随分と起伏の激しい反応をされる方ばかりで……」

「……そう」


 それは、相当重い過去だ。

 そもそもあの魔術師が本人に口止めするくらいなのだから、好奇心で踏み込んでいいはずがない。


「奥様も聞いてしまえば、おそらくいまのように接してはくださらなくなるかもしれません」


 そう言ったオドレイさんが少し寂しそうだったりしたのなら、でも少しくらいならと思ったかもしれない。

 けれどまったく変わらない表情と抑揚のない言葉に、やはりその必要がないうちは控えておこうと決めた。

 オドレイさん自身は本当に構わないのかもしれないけれど、構わないでいられること自体がおかしいのかもしれない。

 魔術師の護衛も兼ねた従者として、彼女はなんだかまるで自分が道具であるとでも思っているのではないかしらと思えるような様子の時があるからだ。

 それほどの過去を聞いて受け止められるかどうかもわからないうちは、聞くべきじゃない。


「そうなるかも」

「奥様?」

「わからないけれど……。でも、わたしはいまのオドレイさんしか知らないし、いまのオドレイさん好きよ。元王家の使用人だった身としてはその仕事ぶりには惚れ惚れするわ。それにオドレイさんが魔術師の従者であるのは過去があってのことでしょう、きっと」

「……奥様は、少し変わっていらっしゃいます」

「まあ本来なら、この人に嫁ぐような貴族のご令嬢とかではないから」

「そういったことではないような気もしますが」

「それはいいとして、この人のこれはなんなの? ベッドから蹴落としても起きないって……」


 ベッドから下りて、魔術師を見下ろしながら改めて尋ねれば、私も詳しくは知りませんただ魔術を使うにも限界があるようでとオドレイさんは答えた。

 たぶん木の杭などを打ち込まれてもそのままだと思いますと、さらっと恐ろしすぎることをオドレイさんは口にする。

 どうも魔術師に対して、フォート家の使用人達は彼をとても慕っているわりには容赦がない。

 たしかに王妃様のお言葉を借りるなら、本当に悪い人ではないけれど色々とあれな人だから仕方がないのかもしれない。

 本当に。

 悪い人ではないとわたしも思うのだけれど。

 すやすやと眠っている彼に小さく息を吐いて、風邪を引かれても困るから掛け布をかけてあげて、折角お茶の用意を持ってきてくれたのだから一緒に飲みましょうとオドレイさんを誘った。

 当然、彼女は断ったけれど、あんな気がかりな人と同じ部屋にいて一人でお茶飲むのは気詰まりだから付き合ってこれは命令と言って席につかせた。

 それは私がと言うのも制して、彼女の分と自分のお茶をカップに注ぐ。

 たまにはこういったこともしないと、感覚が鈍る。


「公爵家の奥様が、感覚が鈍るもなにもないと思いますが」

「あら、今後お茶会など催せばお客様をもてなすのは女主人の務めなのよ」

「はあ……もしやこれは尋問ですか」

「尋問?」

「たしかにフォート家の人間としては古参の部類に入るとは思いますが、旦那様のことで大した情報は持っておりません。従者として必要な知識以外に私も詳しくは知らないのです」

「……本気で捕まった人みたいにならなくていいから」

「はい。多少の薬物や拷問の耐性なら身につけておりますが、流石にそこまでは元王家の使用人といえど奥様もなさらないと私も思っております」


 オドレイさん、本当に一体、何者なのあなた……。

 そして王家の使用人を一体どんな人間だと思っているの。

 

 わたしが呆れているのがわかっているのかいないのか、表情が乏しいので推し測りにくいオドレイさんだったけれど。

 彼女の話によれば、どうやら魔術師は精霊や領地に棲まう竜などの盟約相手のお陰でほとんど無限に使える魔力はあるものの、人の身の哀しさ、使う側の肉体に限界があるらしく、限界を超えるだけの魔術を使うとまるで糸が切れた操り人形みたいに倒れ、動けるようになるまで眠りこんでしまうとのことだった。

 蔓バラ姫が、「人間は私達ほど力を振るい続けることはできない」と言っていたのはそういった事だったのねとようやく理解する。

 どうやら彼女が“腑抜け”と称していた魔術師の状態はこのことであるらしい。


「本人は“安全装置”などと仰っていますが」

「安全装置」

「たとえ熟練の術者であっても、魔術というものは本来は人が使う力ではないため、程度の差はあれ蝕まれる。特に自分のような者には歯止めのようなものはあった方がよいと」


 程度の差はあれ蝕まれる。

 魔術ってそんな危険なものだったんだ……と、カップを傾ける。

 そういったものなら彼が過剰なまでにわたしを心配したのも頷ける。

 だったら、そう言えばいいのに。

 無駄に饒舌で詐欺師のごとく話術を弄する人のくせに、肝心なところでは言葉が足りないしわかりにくい。


『魔術というのは研究するのも使うのも、なかなか消耗するものなんですよ』


 父様が王宮に会いにやってきて一緒に昼食をとった時に、魔術師と交わした他の人には聞こえない会話の言葉を思い出す。

 たとえ話してくれていても、何気ない会話の中に織り込まれてさらりと流すようにするから言われた時はわからない。

 蔓バラ姫の一件でも思ったけれど。


「面倒くさい人」


 カップを持ったままぼやいてしまう。

 研究するのもということは、使わなくてもなにかしら負荷がかかるものなのだろう。それなのにいつも時間が空けば魔術研究に勤しんでいる。

 おまけにここ何日か、わたしに施した、彼曰く長時間の発動は危険なほどの強力な魔術をわたしが眠っている間に修復し調整していた。

 ほとんど寝ていないとも言っていたし。

 なんなの、本当に。


「たしかにあの方は平気でない状態でも平然としていることが多くて、奥様も仰る通りお護りするには厄介な方です。先日の奥様の指摘で少しは改めてくださるといいのですが……私の血の力は所詮は一時凌ぎなものですから」

「そういえば、緊急措置とか」

「はい。竜の血は本来であれば力が強すぎて人には猛毒。しかし私自身はその遠い血族といっただけの先祖返りです。時折の発作程度で済む位に薄まった力は少量であればある種の強心薬とか強壮薬のような効果を持つようで眠り落ちるまでの時間を少し延ばせます。ですが知らぬ間に怪我を負っていることもあり、本当に困った方なのです」

「……よく言っておきます」

「お願い致します」


 本気で迷惑な領主様だわ。

 誰よ“最強の魔術師”なんて言ったの、穴だらけじゃないの。

 たしかにオドレイさんのような人は必要だ。

 彼女なら彼を護る強さだけじゃなく、倒れる前なら緊急措置的に逃げるだけの時間を彼に与えることができる。

 都合がいいって……もっと感謝してしかるべきでしょう、オドレイさんに。 


「わたしの倍も年上の人ですけど、子供同然なところがあるってよくわかりました」


 それ以上は、彼女もあまり詳しいことは知らないそうで、あとはお茶を飲みながら、わたしが眠っていた間の屋敷内のことを聞かせてもらうなど事務連絡的な話に徹して、オドレイさんは魔術師の部屋を出て仕事に戻っていった。

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