第56話 家族会議
「おかえりなさい、マリーベル」
ユニ家に戻って、ルイの手を借りて馬車を降りようとしていた時だった。
屋敷から出てきた砂色のドレスを着た年配女性の、背筋が伸びるような厳粛でやや低い声音にわたしは驚いて目を見開いた。
白い髪をきっちりと結い上げ、黒レースの扇を持つその人は――。
「お祖母様!?」
わたしが驚きの声を上げれば、なんですかはしたないとお祖母様は言って、ルイを見るように少し顔を傾ける。
静かな動作で彼に向き直り、お祖母様は膝を軽く曲げてすぐまた姿勢を正した。
「クロディーヌ・ド・パンテエーヴルです」
「マリーベルの母方、ドルー家にいらっしゃるお祖母様ですね?」
「その通りです」
お祖母様、お変わりない。
むやみに愛想を振りまくようなことをしない、モンフォール家の遠戚であり母様の実家ドルー家を仕切る女主人。
モンフォールの家系だけど、ドルー家は爵位を持たない。
お祖母様はドルー家に嫁ぐ前は、北部にある平民に毛が生えた程度の男爵令嬢だったらしいけれど、威厳に満ちた佇まいと歯に衣着せぬ物言いはとてもそう思えない。若い頃は、“鉄の令嬢”なんて呼ばれていたらしい。
それはどうやら公爵であるルイを前にしても揺らがないようだ。
「こちらからジュリアン殿を通してお伺いしようと思っていたところ、いらしてくださるとは恐縮です」
これまで挨拶を受ける一方だったルイだけれど、驚いたことにそれはそれは優雅な動作で胸に片手を当てて片足を後ろに引き、彼はお祖母様に礼の形を取って微笑んだ。
「ルイ・メナージュ・ヴァンサン・ラ・フォートです。どうぞルイとお呼びください、マリーベルのお祖母様なら、私にとっても敬愛すべき義祖母です」
麗しいとしか形容できない彼の微笑みであったけれど、どうやらそれすらもお祖母様には通用しないらしく若干鼻白んだ様子で、礼節をお持ちの公爵様のようねと言った。
「恐れ入ります」
「では、私のことも名前でお呼びいただいて構いません。貴方のような方に敬称付きで呼ばれるなど却って心配です」
「では、クロディーヌ。こんなところで立ち話もですから中へ入りましょう」
「まるで貴方の家のような言い方ね」
「お、お祖母様っ……日が暮れて冷えてきますから入りましょうっ」
「マリーベル!?」
慌ててわたしが近寄ってお祖母様の体の向きを強引に変えさせて、その背中を押すように屋敷へ押し込むと、まったく貴女は嫁いだというのにいつまでも娘気分で……一体王宮どんな行儀を学んできたのとお祖母様が次から次へとお小言を繰り出すのに、背後でルイがくすりと笑む声が聞こえた。
たぶん、ルイを嫌っているわけではなくて、こういった人だとわかってくれたかなと少しだけほっとする。
「お祖母様、どうしてこちらに?」
「貴女の父親に呼ばれました。それにしても貴女なんてドレスを着ているの」
「え?」
「情も、込め過ぎははしたないものですよ」
「はい?」
ご自分の持つ色に染めさせた糸で織られた布に、さらに自身の持つ色の糸で全面に刺繍させた生地で全身包むような服だなんて。
おまけに威嚇するかの如く、権威的な装飾としてのリボンを胸にあしらい、まるで雁字搦めに溺愛する自分の妻に触れれば敵と見做すとでも主張しているよう。
お祖母様の眉を顰めての言葉に、さあっと血の気が引いてすぐまた沸騰するような、自分の顔が青くなったり赤くなったりするのを感じる。
わたしは絶句したままそろりとルイを振り返った。
「どうしました?」
「なっ……な、なっ……ぁっ」
まさかそんな意味まで含んでいたものだったなんて。
トゥルーズで寝台の中から聞こえたムルト様の言葉や、父様やモンフォールの当主様が妙な様子だった訳を理解した羞恥と憤りに振り返ったものの、動揺でルイへの言葉が出ない。
「まったく情けないこと」
そんなわたしを横目に眺めてのお祖母様の言葉に、がっくりと項垂れて前を向く。文句を言ったところで、散々、各々それなりに立派な方々の前で披露した後。いまさら遅い。
こうなってはもう、じたばたせずに堂々と気にせずいるのがきっと最善だ。
「誰も貴女に教えないのは問題です」
「そういえば父様が、公爵様はわたしが思うより重いって……」
「妙なところで尻込みをして、これだから男親はだめね」
お祖母様それは……たぶん相手がルイだからかと。
「彼が何者かなど関係ありません。貴女の父親はともかく、教える者を貴女が周囲に作れていない証拠ですよ」
正論過ぎる正論に、はい……と返事をして、廊下をとぼとぼと歩き、お祖母様に誘導されるように書斎に到着した。
書斎といっても庶民に毛が生えたようなユニ家なので、貴族のお屋敷のように立派な書架が並び、集めたお気に入りの絵や蒐集品がそこかしこに置かれているような部屋ではない。
書棚のある落ち着いた雰囲気の一家団欒の部屋といったものだった。
「父様、ただいま戻りま……」
「マリーベルっ!」
なに……?
「すべて穏便に片付きました。これでまだなにかというのなら、よほど愚かと言わざるを得ません」
「ルイ?」
わたしの後ろからそう言ったルイに首だけを回せば、彼はわたしに軽く微笑んで父様とお祖母様に視線を移す。
「私をお認めいただけますね?」
公爵様……と、わたしの頭の上で少し戸惑っているような父様の呟きが聞こえた。
「いいでしょう」
お祖母様の厳格な声が書斎に響いた。
「どのようになさったか話してくださいますね、ルイ殿」
「お祖母様……」
「クロディーヌ様」
「貴方達も、いつまでもくっついていないでそちらにお掛けなさい。ルイ殿も」
まったくいやらしい顔だこと……と、ルイを見ていち早くローテーブルを囲むソファへ向かうお祖母様の姿に苦笑しながら、そうしましょうとルイは後に続いた。
「貴女が私の容貌にまるで興味がないのは、どうやらお祖母様譲りのようですね」
お祖母様の仰った、いやらしいとは……ルイの顔のことらしい。
たしかにどこか妖艶さもある無駄に麗しいお顔だから、お祖母様がそう言いたくなるのもわからないでもないと思いながら、わたしは父様をソファへ促した。
*****
そろそろ夕食の時間だったけれど、とてもそんな気分でも雰囲気でもなかった。
そう思っていたら、ファビアンとオルガが銀色の大盆に軽食と飲み物を載せてやってくる。
全粒粉のパンにパテを塗って炙った腸詰を切ったもの、果物と肉を詰めてオーブン焼きにしたタルトと手だけで食べられて、きちんとした食事と比べたら簡単だけれど空腹は満たせられるものだった。
手をつけないまま時間が経っても、後からいただくこともできる。
ワインと果実酒のどちらにするかオルガに尋ねられて、わたしは果実酒を薄めたものにしてもらう。
わたし以外は皆ワインだったけれど、わたしも含めて誰も用意されたものに手をつける気はなさそうだった。
しばらくの間、誰も話さず動かずにいた。
自分がそうしないと永遠にそのままになりそうだとでも考えたのか、わたしの向かい側の
「トゥルーズを出て、再び森に入るあたりが危ないとは考えていました。他の集落からも距離があり、結婚して間もなく不運に見舞われた女性を作りあげるのに都合のいい場所です」
「結婚して間もなく不運に見舞われた女性……?」
優雅な動作でゴブレットを口に運びながら、淡々とそう切り出したルイにわたしが首を傾げれば、貴方のことですと彼は静かに言った。
「わたし……?」
「場所だけでいえば目の付けどころはいい。道は狭く、闇雲に逃げても獣など他の危険がある場所。まあ、あくまで場所だけの話ですが」
護衛がただの護衛ならそれも有りでしょうが、私のような魔術師や元傭兵のオドレイのような者がいるとなれば話は別ですと、面白くもなさそうな調子でルイは話続ける。
「数で囲めば仕留められるとでも思ったならあまりに愚かで無謀だ。中級以上の魔術を操る魔術師がどういうものか……共和国との戦の記憶も随分と遠のいたものです」
もっとも王都よりも西や北にいて、中枢に関わりもなければ話に聞くくらいでしょうから仕方ないかもしれませんがねと、口元から離したゴブレットをルイは軽く掲げる。
ガラスに刻まれた文様を眺めるように目を細めたルイに、わたしはゴブレットの中で揺れる赤い液体が色がワインとは別のものに見えた気がした。
わたしの隣にいる父様や、ルイの隣に座るお祖母様も同じだったのかもしれない。二人が少しばかり眉を
父様は大きく胸を動かして息を吸って吐き出すと、気を取り直したように具を乗せたパンに手を伸ばした。
「万一くらいのつもりでオドレイを視察に向かわせましたが、想定以上に短慮だったようで」
「それって……ルイを狙って襲おうとした賊が、オドレイさんを向かわせた先にいたということですよね? どっちが無謀よ」
ルイがオドレイさんに命じていた用事というのは、トゥルーズを出た先に危険がないか確認することだったのか。
そんな賊が何人もいるかもしれないところへ、オドレイさん一人を向かわせるなんてと非難を込めてそう言えば、半分不正解だとルイはわたしに言った。
「狙いは貴女で、私はただ排除したい対象です」
「わたし!?」
「それに、ただ腕っ節が強いだけの荒くれ共が何十人集まろうがオドレイの敵ではありません」
「それは。マリーベルを公爵家から引き剥がすための企みなのかしら」
ぱしっと、音を立ててお祖母様は手に持っていた閉じた扇の先でもう一方の掌を打って掴む。
お祖母様の言葉に、ルイは弄んでいたゴブレットを再び口元に戻し頷くように軽く顔を俯け、中身を一口飲むとテーブルへと置いた。
わたしの隣で父様が、一度は手にしたパンを口にはせずに元の場所に戻し、ゴブレットを持ち上げて中身を一息に干す。
とてもじゃないが話が終わるまで食事など取れたものじゃないとでも言っているようだった。
「あの、お祖母様……?」
「自分の立場を考えてみなさい、マリーベル。貴女は王妃の一族の養女の公爵夫人です。それが人の気のない森の中、移動中に不幸にも賊に襲われ夫や使用人も殺されたとあっては、実際がどうであれ助かった後は外聞的に大変な不名誉を負うのですよ」
外聞的に大変な不名誉――それが意味するところは明白だ。
やや遠回しな説明だったけれど、わたしの身になにが起きるかもしれなかったか、お祖母様の言葉にぞっとして指先から血の気が引いた。
「そのようなことになってごらんなさい。公爵家の結婚のために取り計らわれただけの名目上の養女と誰もが知っている、公爵家の威光も失った娘をその先一体誰が庇い立てするというの」
少しばかり語気は強まっても冷静さを失っていないお祖母様の言葉だったけれど、扇を握り閉める手が震えていた。
なによりもそれが、ルイを失ったあとのわたし自身を実感させて一瞬目の前が暗くなって父様の腕に手をかけて寄りかかる。
「大丈夫か……」
「父様」
父様の大きく乾いた手に肩を支えられて、ええと応える。
「クロディーヌの仰る通りです。王宮勤めで、王妃の元侍女として中途半端に顔だけ知られているだけにある意味では好奇の目で見られている。まだなんの実績も人脈もないうちに万が一もそのようなことになっては……かなり厳しい立場になるでしょうね」
厳しい立場だなんて随分と優しい表現だ。
間違いなく、醜聞は貴族社会を駆け巡り王妃様にも養父母にも、もしかすると王様にも迷惑をかけるかもしれない。
「かといって貴女は簡単に平民には戻れません。それはすなわち醜聞を全面的に認めたことになる。貴女の性格ではご実家に身を寄せることもよしとはしないでしょう」
父様に支えられ俯いたまま口元を手で覆って、実際はそうではないのだから大丈夫とぎゅっと目をきつく閉じて、ルイの言葉をそうかもしれないと考える。
「モンフォールからしてみたら遠戚だから世話を引き受けると、弱った貴女に甘い言葉を囁いてたやすく手に入れられる状況になる。しかも王に醜聞隠しの恩を売りつけ、確執ある南部系貴族を牽制できる材料も握れるわけですから」
「なんで? どうして? そんな……わたしを手に入れて……」
ルイのような人に害を成そうとしてまで。
そんな利はなに一つ、モンフォールの当主様にはない。
「貴女の疑問は、そっくりそのまま私の疑問でもあります」
「え?」
「ジュリアン殿」
不服そうな声音でそう言ったルイに、わたしは顔を上げて彼を見る。
ルイはわたしを見て苦い微笑みを見せて、父様へと視線を向けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます