挿話 フォート家の従僕・後編

 本当、いまや何者なのか知ってはいるけど、半端ない。

 出会った時と同様、地面にキスするのももう何回目やら。

 しかも、出会った時とは違い、たったの指一本。

 正確には逆手にした手刀で首元一撃、しかしオレに触れるのは約束通りに指一本だけだ。  


「相変わらず、弱いですね。あなたは」

「いや、ネェさんが強すぎなんで……まじで」

「体幹からしてなっていません。そんなことでは旦那様の従者などとても務まりません」

「くっそ~……」


 格好悪ぃことになるのは最初はなから承知の上とはいえ、あまりに差が有りすぎる。

 フォート家に雇われて四年目の年明けに、肚を決めていずれ従者になりたいと主張し、彼女が屋敷にいる時にこうして体術の訓練の相手をしてもらい……もう夏が過ぎようとしている。

 これでも貧民街で子供ながらに、そこそこ年上な相手も負かせるくらいには、喧嘩強かったんですがね。

 まあオレの昔の境遇なんて、柔らかいふかふかベッドでうたた寝していたくらいに感じられる程、ヤバ過ぎる環境で生き延びてきたネェさんだから仕方ないけど。


 ネェさんは共和国生まれ、オレが路地裏でちんけなスリをやっていた年頃にはもう、傭兵とは名ばかりな荒くれ連中の手下だった。

 貴族や危ない連中相手に殺しと娼婦紛いなことをやりながら、”竜の血“を受け継いだ先祖返りの力が暴走しかけては鎖に繋がれ、内臓から引きちぎられるような苦しみが過ぎるのを耐えていたそうで。


「ところで。あなたが私を“姉”と呼ぶのは、やはりおかしい気がしますが」

「いいじゃないっすか。実際、この屋敷にきてオレに仕事仕込んでくれたのはネェさんなわけだし」

「当初はオドレイと呼び捨てていました。若干反抗心が感じられる響きで」

「いーじゃないっすかっ、そんな生意気なガキンチョだった頃の話はっ!」


 同僚とはいえ、あの胡散臭いまでに無駄に顔のいい旦那様と並んで見劣りしない美女。

 色々あって、すっかり憧れの十以上年上の女、そんな簡単に気軽に呼べるか。

 十六の少年の自意識なめんな、くっそ。


「オレなりの敬意ですよ、敬意」


 具体的にどんなことをしていたのかまでは知らない。

 けれど本当に、オレの境遇なんて鼻くそみたいで、こうして力の差を嘆くのも馬鹿らしく思える。

 酷いなんて言葉では片付かない環境で育ったネェさんだったが、彼女は綺麗で、仕事ぶりや作法も完璧で……なんていうか、貴族の旦那様とはまた違った感じの気品というか。

 実はどこか遠い国の王族なのだと言われても、なんとなく納得してしまうような。 

 高潔。

 そう、そんな言葉が似合う。

 ネェさんに破滅させられた奴らからしたら、ふざけるなの一言だろうが、そんなことはオレの知ったことか。

 とにかく誰がなんて言おうが、この屋敷に来る前のオレの周りにいた、だらしなくて汚らしくて醜い、どうしようもない女や男どもと彼女はまったく別物だ。

 

「まずなにがあってもただ真直ぐに立っていられるだけの筋力と平衡感覚。そこからですね」

「無理っす」

「従者になりたいのでは?」

「そうですけど、ネェさんの従者要件が高すぎなんですよ」

「旦那様をお守りするなら最低限必要です」

「体術より、武器とかで補えないもんですか?」

「せめて指一本の私から、勝ちを取れなければ難しいでしょう」


 銃もナイフも、相手を仕留められる腕前で扱うにはそれなりに鍛えられていないとだめらしい。

 さんざん仕留めてきただろう人が、ぞくっとくるほど綺麗な顔で真顔で言うから怖い。

 憧れの女性を守る、なんて夢はオレには遥かかなた遠くにあるものだ。

 守りたい女性は元傭兵で暗殺者だなんて洒落にならねえ。

 まったくもって、オレは不運だ。

 せめて、“人ではないなにか”だった頃にしていたことから遠ざけられないかと思っても、このていたらく。


「あー、なんか掴めてきた気もするのに、ネェさんが王都へ行くんじゃまた振り出しですよ」

「簡単によろけるあなたが、一体なにを掴んだのですか?」

「結構傷つくんで、真顔で聞かないでください。あ、旦那様の荷物まとめました。公爵の礼装無しでいいんですかね?」

「不要とのことです。王宮、それも王の誕生祭ですから面倒を避けたいのでしょう。旦那様は人妻かどなたかの愛妾専門な趣味で四十近いというのに、お若いお嬢様方に大層人気がありますから」

「その……人の女でないとダメって下種な性癖。結婚相手として相当やばい危険物件だと思いますよ。地位も名誉も財産も揃ってるんじゃ、どうでもいいのかもですが」

「仕留めるための技ならわかりますが、政略や色恋となれば私にはわかりかねます」

「健全純情な青少年の前で、そういったこと言わないでもらえます?」


 ちらちら細切れに耳にするところによれば、老若男女問わず骨抜きにする技を持つとか持たないとか。

 本当に。

 眉一つ動かさない無表情でさらっと言うのがなあ……。

 男心に複雑というか、欲望滾る青少年に無駄に毒というか。

 ネェさんことオドレイ・ジュブワという、“人ではないなにか”だった女性の苛烈なまでの業にため息が出る。



*****


 

 あれはたしか、オレがこの屋敷に雇われて二年が過ぎる頃だった。

 フォート家の環境にも慣れ、旦那様やネェさんへの反発心も薄れた頃。

 時折彼女が見せる、奇妙な様子に気がついた。

 窓や鏡に写った自分の顔をぼんやり眺め、そんな自分の姿に手を伸ばしてしばらくじっとして、また何事もなかったように屋敷の仕事に戻る。

 容姿に自信のある女が自惚れているのとは違う。

 それこそ人形みたいな、感情がなんにもないようなその様子。

 竜の血の力が暴走して、普段は黒い瞳が赤く光っているわけでもないのに不思議に思い、どうしたのかと尋ねたことがある。

 彼女は、声をかけたオレに驚くでもなく、振り返ることもなく呟くように言った。


 いまの私はどれくらい人間・・に戻れているかと思いまして――と。


 その言葉が頭から離れず、ぼんやりと旦那様に命じられて彼と共に私室の資料の整理をしていたら、手が度々止まっていると注意された。

 本来、資料の整理なんてものは使用人だけで行う仕事だ。

 けれど旦那様の私室にある資料や蒐集品は、魔術師が扱わないと危険なものもあるらしい。

 そのため、ごく普通の書物を中心に指示された分類で書棚に並べ直していた。

 たしかにあるじがせっせと手を動かしている側で、使用人のオレが手を止めてぼんやりしているのでは態度としてもよろしくない。


「すみません」

「仕事だけは勤勉な君が珍しい」

「仕事だけはって、それ若干棘ないですか」

「反抗心がなくなったのは結構ですが、いつまでも不良少年が抜けませんからね」

「っ、そう申されましても」

「まあいいですよ。フォート家の使用人として毅然と働いてくだされば。それ以外求めることもないので」


 少し休憩です、と彼は手近な椅子に腰掛けた。

 君も掛けるといいと勧められて、踏み台がわりの丸椅子に腰掛ける。


「で、どうしました?」

「どうって、べつに……ただちょっと……」

「ん?」


 オレは、時折見るネェさんの様子と妙に耳に残る彼女の奇妙な言葉について話した。

 一体あれはどういう意味なのかと気になって、と漏らせば、旦那様はその言葉通りだと静かに言った。


「そういえば君は、オドレイの過去を知っていましたね」

「まあ、なんとなくは」

「それがなにを意味するかも、貧民街出身の君なら察しもつくでしょうね」

「はい。ネェさ……オドレイさんがかなりやばいってことは……」


 ねえさん、ですか。

 苦笑した旦那様に、いやっ、姉貴じゃなく姐御ってやつですって、と慌てて説明したが、来た頃はオドレイと呼び捨てていたではないですか、と人の悪そうな顔で笑い続けている。


「来た頃は人一倍反発していましたけれど、君、なんだかんだでオドレイを慕ってますからねえ」


 完全に人をおちょくって楽しんでいる。

 自分のあるじに対していうのもなんだが、この変人貴族様は、悪人ではなくむしろかなり善人に近いと思うものの、若干根性がひん曲がっている。


「最初が最初なんで、無理ないでしょう」

「ふむ……まあでもそうですね。最初から彼女の過去をある程度察していて、こうして彼女を気にかけているのならなかなか見込みがある」

「は?」

「ただの人間にも、もう一歩踏み込んでもらわないとですけどね」

「まあオレ、ちょっと風を起こせるって程度っすからね」


 なにしろこの屋敷の使用人は、どこでどうやって集めてきたんだと思うくらい訳ありな奴ばかり。


 まず、庭師は犬だ。

 正確にはエンゾという名の獣人。

 顔は人間だが、犬みたいな耳が頭に、尻にはふさふさした尻尾がある。

 なんでも森を守護する狼犬おおかみいぬと人間が交わったその子孫で先祖返りらしい。


 でもって、庭師に懐いている小間使いのちび。

 リュシーという名の少女は、髪と目の色が人にはない様々な色合いに移ろう茜色をしている。

 こいつは人間らしいのだが、赤ん坊の頃に精霊に攫われてしばらく育てられたとかで、人間から半分精霊になってしまった奴らしい。

 どちらの世界にも適応できない肉体は、屋敷の外では数年しか生きられない。

 見かけによらず、ネェさんに次いで重いもんを背負っているが、赤ん坊の頃でまったく覚えていないとかで無駄に騒がしく元気な小うるさいちびだ。


 もう一人いる小間使いのヴェルレーヌは、陰気で滅多に人前に姿を現さない。

 オレも一度ちらっとしか見たことがない。

 金髪で青白い肌をした小間使いは、陽の光に弱く、血の滴る肉しか食えない妙な体質だそうで、ここに来る前は魔物扱いされていたらしい。

 夜、人が寝ている時間帯に縫い物仕事などをやっている。


 そして使用人の頂点。

 先代から仕える初老の家令フェリシアン。

 左頬に鱗のような痣を持ち、よく見ると手の指と指の間に小さなヒレがある。

 こいつも庭師同様に魚の精霊と交わった人間の子孫で、先祖返りだ。


 厨房のヌシの女料理人ロザリーは人間だが……奇抜っていうか、とりあえず口にしたことがないものはとりあえず口にしないとおさまらないらしく、台所女中によく止められている。

 一度味わったものの味は絶対忘れず、大抵の料理を口にすれば材料からその作り方どころか使った器具までわかるらしい。

 たしかにこの屋敷の飯は使用人の賄いでもありえないくらい旨いし、旦那様も彼女は芸術家だというが、他にもなにかと奇行が多い。

 才能が人外じみている。


 芸術家のロザリーを手伝う台所女中は、ロザリーが以前いた古い屋敷の厨房に憑いていたなにかが、ロザリーに惚れ込んで実体化し彼女につきまとっているといった、もっと意味不明な赤毛の少女だ。

 アンといった愛称で呼ばれているが、こいつは人間ですらない。

 

「……どう考えても、オレが一番無難で普通に人間っすもんね」

「常識的な人格といった意味では、庭師のエンゾだと思うのですけどね」

「エンゾさん、見た目、一番わかりやすく人じゃないですもんねえ」

「フォート家の使用人の一風変わったところは、オドレイにとっては屋敷に馴染むのに役立ったのですが。なにしろこの屋敷で暮らし始めた頃の彼女にとって人間は、殺すか殺さないかで区別されていたものでしたので」


 唐突にさらっと重いこと言ってきたな、この人……。

 最初に主として与えた命令は「殺すことは禁じる」だったって、ヤバ過ぎる。


「とはいえ規格外揃いでしたから、彼女の中では判断しがたい曖昧さがあったようで、殺す殺さないで区別しないことを学ぶのにはちょうどよかったようですよ」

「えっ……と……」


 くっくっくと、微笑ましくも愉快な思い出みたいな雰囲気出して口元に手を当てて肩震わせてますけど、全然そんな話じゃないっすよね。

 むしろ血の気も引く話だろうがっ、この変人貴族!

 

「――と、まあ。そんなオドレイと今後も付き合ってくださるのなら、ここまで詳しく知る者は私以外にはフェリシアンしかいない彼女の話を少ししてあげましょう。無理だと思うなら仕事を再開です」


 仕えているあるじにして一応恩人でもあるけれど、やっぱこの人にはついていけない。

 本当にこの人の言う通り労働条件めちゃくちゃいい屋敷だし、貧民街で面倒みてたちび共も立派な孤児院で楽しそうに暮らしているけど。

 なにかこう、根本的に理解できない歪みみたいなもんを感じる。

 この男もこの家も、なにか訳ありめいたものがありそうではあるけれど。

 それはオレには関係のないことだ。


「最初の時、あれ、返答次第じゃオレを殺る気満々でしたよ。いまさら」

「私が命じない限りはしませんよ。自力では動けない体にくらいはしたかもですが」

「それも止めろ」

 

 冗談ですと旦那様は言ったが、絶対信用できねえ。

 あーこの人、本気で怒らせるようなことはしないでおこう。

 そもそも単独で敵の大部隊とやらを壊滅したらしい噂もある魔術師。

 護衛も、偉い貴族で魔術師だから、そう簡単に自ら手出し出来ないからだろうけど。


 旦那様がネェさんと出会ったのは、共和国との境で竜が五体も暴れていたのを鎮めるために彼が出向いた時だったそうだ。

 戦争は終わっても、国境では時折小さな争いが起きる。

 現れた竜はその場にいた人々をあっという間に皆殺しにし、文字通り血の雨を降らせた。

 ネェさんは数少ない生存者の一人だった。


「私が瀕死の彼女を拾って保護した際、彼女は自分を“人ではないなにか”だと言いました。事実そうでした」

「は?」

「共和国の傭兵団の中にいましたからね。十三歳の少女といえど、私も保護した立場上、王国貴族として取り調べないわけにはいきません」


 ネェさんは、旦那様の質問に対し口をつぐむこともなく、素直に淀みなく答えたらしい。

 保護された当時十三歳だった少女が、まったく顔色一つも変えずに。


「彼女は、人ではなく道具として生きてきた。倫理も常識もない。ただ指示されるまま人を殺める。目的のため必要なら色欲を煽り、同時に良家の子女のように振舞うことも仕込まれ、自身の行いへの葛藤もなく心が壊れることもない。最高級の道具にして美しい化物」

「は……」


 なにを言っているのかわからなかった。

 最高級の道具にして美しい化物?


「彼女を仕込んだ男は、荒くれ者の頭領とはいえ騎士崩れのなかなか教養ある男だったようで、複数の言語に算術まで教えていた。おかげでいまや従者だけでなく執事に近いことまでしてくれてフェリシアンが随分と助かっている」

「えっ、と……」

「話が脇道にそれました。オドレイは、拾った時はまだ十三歳でしたが、奇妙に艶めかしくも触れ難いような美少女でしたね」

「まあ、でしょうね」

「そして自分がしてきたすべてを淡々と話した。人にとって酷いことなのだろうと思っていたそうです。彼女はその“人”の中に自分のことを含めてはいなかった」

「……」

「傭兵とは名ばかりな賊の頭領に拾われる前は、赤く目を光らす化物として人に追われ虐げられ、一人山に隠れて獣同然に生きていたらしい。人々の営む社会から離れ、ほとんど人扱いもされず育ったのですから無理もない」


 ネェさんは、命じられて入り込んだ貴族の屋敷、街や村で見かける自分と同世代の子供は自分とはまるで別の生き物だと考えていたらしい。

 その子供が成長した大人もまた然り。


「……ん、だよ……それっ!」

「腹立たしい話だと私も思います。だからといって君が理不尽を覚えるのはお門違いです」

「っ……!」

「そもそも物心つくかどうかで野に放り出されたも同然。竜の血も抱えた彼女が私に保護されるまで生きていられたのは、皮肉にも“道具”として見出され扱われてきたからなのもまた事実」


 共和国という階級差別や貧富の格差が厳しい国で、一目で異大陸の血を引くとわかる身寄りのない浮浪児、それも女児、殺されいたぶられることはあっても保護されることはないと旦那様は言った。

 彼女は、生存といった意味では、自身の手で掴み取れる最上の選択をしてきたといえるのだとも。


「最上……? 最高級の道具とやらが?」

「そうです」


 彼女は、オドレイ・ジュブワは。

 フォート家に来るまで、“人ではないなにか”だった。

 最高級の道具にして美しい化物。


「オドレイが、君は変わり者だと言っていました」

「は?」

「私もそう思います」


 にこにこと、ネェさんの壮絶な過去と、ネェさんの言葉をどう受け止めていいものか困惑しているオレを見て旦那様は目を細める。

 この男は、言葉や物腰こそ貴族らしく丁寧ではあるものの、普段は結構無愛想だ。

 愛想のいい時は人を揶揄からかっているか、なにか腹黒いこと考えているか大抵どちらか。


「それ、お二人にだけは言われたくないっすね」

「まあそう言わず、褒め言葉ですよたぶん」

「そうですかねぇ?」

「君のことは彼女なりに可愛がっているというか。ここに来てから十七年程経ちますが随分と人間らしく柔らかくなったというか」

「あれで柔らかい……いやちょっと待て、十七年っ!?」


 ネェさんはどう多めに見ても、二十二、三のオレより数歳年上って感じの女性だ。

 十三で拾われて十七年なら三十だろっ! そんな年増じゃない。


「君が私に感謝はすれど敬意の欠片もないことがよくわかりますねえ。ああ、彼女は老いるのが遅いので」


 なんでも長命な竜の血の力の影響らしい。

 魔物というものは概して寿命が長い。

 その頂点に立つといって過言ではない竜の寿命も長い。

 ましてや彼女が受け継いでいるのは人語も解する古い竜の血で、そのへんの竜とは格が違うのだそうな。

 竜の格の違いなんて、よくわからないけど。

 

「ちなみにフェリシアンも、魚は神の使いともされる神聖な古精霊ですから、先祖返りのただの人とはいえやはり影響はあるようで同様です。あれで八十越えてます」

「まじか……」


 初老の家令っていっても、せいぜい五十半ばくらいにしか。

 本当にこの屋敷の連中は。

 

「なんか……オレ聞いちゃってよかったんですかね、その話」

「後悔ですか?」

「や、なんかそういうんじゃなくて……うまく言えないですけど」

「君は、必ずしもここに縛られる必要はない人ですから。いい訓練になる」

「訓練?」

「人ではないなにかから人に戻る、それが彼女にとって果たして良いことか、促した私自身も少々自信がないのですが。君のような存在がいてくれるのなら彼女のために心強い」

「お役に立てるんなら、まあ」


 その後、夕方近くまで旦那様の私室の蔵書整理をして、食堂へ向かう途中の廊下でこちらに向かってくるネェさんに出くわした。

 オレの姿を認めて、足を止めた彼女におやと首を傾げれば、一体どこにいたのかと尋ねられた。


「旦那様に呼ばれて、そのまま私室の本棚整理を手伝わされて」

「そうですか」

「なにか用でした?」

「いえ、銀器の磨きが甘かったので一度探しましたが、姿が見えないのでこちらでやりました」

「あ……すんません」


 言いながらオレと入れ替わりに旦那様の私室へ向かうらしいネェさんの横顔をすれ違いざまに見る。

 すっと通った鼻筋に細い輪郭。

 長く濃い睫毛に縁取られた真っ直ぐに正面を見ている眼差し。

 さらっと音を立てるように揺れる真っ直ぐな黒髪の筋。


 なんか……ちょっと怒ってる、よな?

 磨きが甘いと言われたのは、実はもう両手の指を五回は使って数えないといけないくらいだったりする。


ネェさんっ」


 振り返って呼び止めれば、なんですと返した彼女への言葉に迷って軽く頬を人差し指で掻く。


「シモン?」

「あー……いえ、なんでも」

「間もなく夕食です。あなたは食堂へ」

「へーい」

 

 一瞬だけ、不審そうに目を細めてオレを見て、テーブルの支度をしろと指示して呼び止めたオレを振り返った彼女は再び背中を見せる。

 姿勢良くすたすたと歩いていくネェさんをしばし眺めて、軽く頭を振ってオレも食堂へと歩き出した。



*****



「オレ行ったことないんすよねえ、王都。オレも連れてってくださいよぉ」

「トゥルーズの規模を大きくして栄えているだけで、大して変わりはありませんよ」

「すっごい変わるでしょうが、それ。そもそも王宮ある時点で全然違うでしょうが」

「そのようなものですか」

ネェさんも、ドレスの一枚でも持ってたらどうです? せっかく美人なのにもったいない」

「あのような動きづらい服では護衛になりません」

「旦那様の同伴者として、オレと組めばいいじゃないですか」

「多くの貴婦人方にどうやら私は激しく疎まれているようなので、男装で目立たないようしているのがよいかと」

「あ……やっぱ、お伴で王都はいいです。そのうち休み取って遊びに行きます」


 他人の女専門な趣味のあるじの修羅場に巻き込まれたくはない。

 あーたしかに、いくら男装してるとはいえネェさんが側にいるのはかなり相手の女は嫌だろう。

 なにせ着飾っていなくても、十六の少年を悩殺するに余りある人だ。

 それにこの人のことだから、誤解を量産しそうだしなあ。

 ネェさんはオレとの出会いもそうだったけれど、妙に馬鹿正直というか、人の機微に対して抜けているところがある。


「そういや、ネェさんの、“人に戻る訓練”は順調なんですか?」

「暗殺術などとは違って、自分では成果がよくわかりません」

「うーん、その物騒な返しは人として止めておきましょう」

「そうですか」


 気がつけば、オレとネェさんは、いつの間にか交換教授のような間柄になっている。オレの体術と同じくらいに彼女の“人に戻る訓練”というのも、牛や亀の歩みの如くであった。

 とはいえ、随分表情豊かにはなってきたとは思う。

 小間使いのリュシーは、「全然わからないです」というけれど。


「どれくらい王都あっちにいる予定なんです?」

「旦那様は、短ければ十日、長ければ百日近くと」

「幅あり過ぎでしょう」


 荷物は指示通り、移動に加えて数日分で用意している。

 どう考えても足りない。

 王都であるし、足りないものは買えばいいと考えていそうだけど。


「王宮には旦那様のお部屋もありますから、足りないものは王都で調達すればいいとお考えなのでは?」

「やっぱそうだよな。ま、こっちの留守はオレに任せて、気をつけていってきてくださいよ」

「フェリシアンさんがいらっしゃるので、こちらの心配は特にありません。基礎訓練は怠らないように」

「へーい」


 おそらくは旦那様のところへ行くのだろう。

 オレに背を向けて庭から去っていくネェさんをしばらく眺めて、やれやれとオレは青さも褪せてきた芝生に仰向けに寝転ぶ。


「オレは結構、ネェさん、人間ぽいと思いますけどねえ」


 夏の終わりに王都へ出かけたネェさんが、戻ってきてその変化に大いにオレが驚くことになるのは、冬を迎え、年も明けた後になる。

 戻る少し前に屋敷を揺るがした、あるじである変人貴族な旦那様が突然娶ったまさかの若妻。

 その彼女の存在と共に。

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