第20話 来訪者
我らが王国ことエクサ王国は、東西に長く伸びる大陸のほぼ中央にある。
元々七つの小国に分かれていた王国だったけれど、ある時、三賢者と呼ばれる指導者が現れて七つの小国を束ねた。
そして賢者の中で一番長生きした一人が王となった。
「それが、いまの王家の始まり……」
「伝承の建国話ですね」
フォート家の図書室。
フェリシアンさんにフォート家について教えてもらっているのだけれど、なにせこの家の歴史は古く、王国前の時代まで遡る。
そのため、図らずも歴史の勉強のようになっていた。
「そんな王家もいま現在はいくつかの家に分かれ、継承時はなかなか大変だそうですが」
「王様……あ、現国王のロベール陛下も王太子時代は苦労されていたと王妃殿下からお聞きしたことがありますね」
「王宮には様々な派閥がございますからね」
いまの王様、ロベール陛下は諸侯からも民からも支持を集めているけれど王太子であった頃は王宮の勢力争いをうまく均すのに苦労していたらしい。
そしてそんな王家にとって、とても微妙な存在なのがフォート家だった。
かつての七小国の王の血族。
王家の血縁で公爵ではなく、かつての小国王の一人であったための公爵。
現在、その血筋は三つあるものの内二つは男系が廃れ、ただ古のやんごとなき家と縁ある下級貴族や平民となっているらしい。
フォート家だけが唯一公爵位を保ち、そして王国を王国たらしめている魔術の家系――。
「それは……本来なら、王家の目の敵にされておかしくないのでは?」
「フォート家と争ってこの国が得することは一つもありませんよ。マリーベル様」
フェリシアンさんの言葉に首を傾げれば、魔術は他国への抑止力なのですからと彼は言った。
「まあ、主には共和国に対してではございますが」
「西の連合王国は友好国ですものね」
「敵国ではごさいませんね」
引っかかりを覚えるフェリシアンさんの言葉だけれど、たしかにそうだ。
西のハイラック連合王国は、王国貴族と血縁関係の貴族が多い。
両国間でなにかあったら複数の貴族を巻き込んでとっても面倒なことになるから、お互い干渉しないようにしましょうといった間柄。
仲が良いわけでも悪いわけでもない親戚みたいな国だ。
だから争いごとが起きても武力行使ではなく、とにかく交渉や利害調整など話し合いで解決を図る。西部は連合王国との境を含み、実際に親戚関係だったり複数の家が大昔に約定を結んでたりして、諍いが起きることがある。
王都の法科院を出た父様は、西部筆頭のモンフォール家の当主様に頼まれてそんな厄介ごとの解決を時折手助けしていた。
労多く益が少ないとぼやいていたけれど。
「それに地理的に見れば、王国は連合王国にとって厚い防壁のようなもの」
「たしかに共和国が連合王国にまで手を伸ばそうとしたら、王国を飲み込んだ後になりますもんね」
わたしが生まれる前、二十余年前に大きな争いが共和国との間で起きた。
東西に伸びる大陸の中央に位置する王国があるうちは、連合王国に攻め込むことはできない。また、王国が連合王国へ侵攻して共和国に背を見せるなんてことも出来ない。
連合王国側も、下手に突けば血族絡みの面子争いで内政が揺らぐことにもなりかねない厄介な親戚である王国相手にあえて争いを仕掛ける理由はない。
「王国にとって警戒すべきは共和国、何十年かおきに大小の争いが起きており、その国境の地の守りを強固にしているのがフォート家の魔術です。辺境伯位も持っているのはそのためと前の旦那様よりお聞きしております」
「なるほど」
歴史から、さらに大陸における王国を含む主要三国の関係も追加で学ぶことになってしまった。
それだけ、この国の成り立ちと関わりが深い家だということだ。
離婚するまでは、奥方としての勤めは果たしますなんて言ってしまったしそのつもりでいるけれど、そんな由緒ある大領地持ちの公爵家でうまくできるかしら。
「さて、マリーベル様。フォート家が持つ公爵領ロタールは国境から王都のある北に向かって東部の約六割を占めます」
「つまり、共和国の侵攻から王国を守る位置付け……」
「そのような家を目の敵に出来ますでしょうか」
「……難しいと思います。ですが同時にとても厄介でもあるかと」
「何故でしょう」
「もう一つの古の王家として担ぎ上げかねられません。それに王宮でのあの人の態度をみる限り、国王陛下の臣下のように振る舞いながらも、ほぼ対等だとでも言わんばかりで……ああでも、派閥は作ってませんよね」
魔術師は派閥どころか王宮の公式行事にもろくに顔を見せず、長年領地に引きこもっていたはずだ。王妃様も変人と言っていたからつまりは貴族社会でそういった扱いなのだろう。
「もしかして……王家と軋轢を生まないために孤高の貴族ぶっています?」
ぶふっ、とフェリシアンさんが吹き出すように笑い、マリーベル様はなかなか政の感覚がおありになると、褒められたのか、からかうのかどちらともつかない調子で言われた。たぶん後者だろう。
「からかわないでください。とにかく大変な家であることは理解しました……」
元小国王家でいまは公爵、東部の筆頭の大領地貴族で、共和国からの護りの要である辺境伯で、おまけに王国の魔術の礎でもある家系。
王様の友人の伝説的魔術師でなくても、王の誕生祭の出席者リストで序列一番目にもなる。
「ここ二十年程は平穏で、あまりに魔術師としての名声が高いためそれ以外は人から忘れられがちではございますよ」
彼から求婚を受けた際に感じた、お集まりの皆様が固唾を飲んで成り行きを見守るようだったあの重く張り詰めた雰囲気。
『私は身分というなら大抵の貴族より上です』
『あなたの仰る身分の差を気にしていたら、私の相手は誰もいません』
あれは、そういう事――と、ようやく本当の意味を知って、頭を抱えてたくなる。そんな人が爵位もない田舎領主の娘と正式に結婚したなんてあり得ない!
「本当に、無駄に格の高いフォート家なもので。しかし、王妃様の第一侍女であったマリーベル様ともあろう方がそのご様子、余程、上手く誤魔化していたのでしょうな」
言われてみれば……仕事で忙しい時以外はあの人に毎日のように付きまとわれていて、他の貴族の方から話しかけられるようなこともなかった。
それにわざわざ自分の噂話を聞くのも嫌で、質問ぜめにもあいたくないからそういったお喋りに入ることも避けていた。
「色々おかしいな、とは思っていたのよ」
友人の望みを叶えるために王様自らが後押しして、わたしを王妃様のご一族の養女にするよう取り計らった、だなんてそんな暢気で美しい話ではない。
魔術師は、あまりに特異すぎる。
王様はその立場上、魔術師との主従関係において優位と認められるものを持てるのなら持ちたかったはず。
わたしとの身分差をなんとかしましょうと言った魔術師は、きっとそこにつけ込んだ提案を王様に持ちかけたに違いない。
王妃様の一族の養女にするよう指定したのだって、きっと魔術師だ。
名目上の養女だろうが王家と関わりのある、彼が妻にと望む娘を、嫁がせることに意味がある。それに聡明でお優しい王妃様ならそんな工作があることを、一族の外に漏らすことを防ぐはず。
『おそらく魔術すら、きっと使うまでもないことですよ』
「魔王みたいな顔をしていたはずよ。あの、大悪徳魔術師っ」
「悪徳……」
自分の立場や交友関係をこんなことに利用するなんて。
母様の縁者である、モンフォール伯が一切干渉してこなかったのも不思議だったけれど頷ける。まともで思慮深い人ならこんな面倒に自ら巻き込まれにいくわけがない。
婚約中に、市場で偶然出会った伯爵家の三男、故郷でわたしが迷惑がるのを面白がって悪ふざけで求婚していた幼馴染の坊っちゃまが魔術師と決闘騒ぎを起こしたことも、魔術師がうやむやにしてしまったみたいだし。
きっと父様も。法務大臣様からわたしの状況を知らされて、本当にわたしを心配してあの時王都に駆けつけてくれたのだと思うと涙ぐみそうになる。
「フェリシアンさん。もしかしなくてもわたし貴族社会ですごい立ち位置に?」
「フォート公爵夫人でございますから、それはもう。マリーベル様にはお気の毒ですが、離婚要件など見つかってもはたして成立しますかどうか」
ええ、そのようですね……と、図書室の机に突っ伏して思わず遠い目になってしまった。離婚を成立させるには絶望的な状況だ。
対外的にわたしは王妃様のご一族であるド・トゥール家の養女。国のため魔術師を押さえておくための王家の駒の一つ。
たとえ父様が申し立ててくれたとしても、爵位無しの領主の申し立てなど一蹴されてしまうに違いない。
「旦那様のことですから、各方面への根回しも理由も辻褄合わせも完璧かと思いますよ。なにせあの旦那様ですから」
「フェ……フェリシアンさん……」
「強引に押し切られてだとしても、私共の
『ルイはこうと決めたらどんな手段を使ってでも、自分の思う通りにする人よ』
ああ、王妃様。
尋ねなかったわたしが迂闊であったとはいえ、そこのところもっと詳しく教えていただきたかったです。
そういえば、娘が人質同然だというのに父様は魔術師に好意的だ。
あの大悪徳魔術師はどんな話術で、娘を心配して王都にまで来た父親に、特に嫌う理由もないなら結婚しろと言わせるような考えにさせたのだろう。
「それにしても、マリーベル様」
フェリシアンさんが彼の左頬にある鱗のような痣を軽く撫でて、机に突っ伏し涙ぐんでいるわたしの様子を眺めながら不思議そうに呟いたのに、なんでしょうと返事をすれば貴女様も少々変わっておいでですと彼は言った。
「それは彼と結婚したから?」
「いえ、強引に結婚を進められたのに腹を立て白紙撤回なさろうとしているマリーベル様のお気持ちはオドレイを通じて知っております。旦那様の性格も存じ上げているためむしろマリーベル様に同情しておりますが、しっかり奥方としての務めを果たそうとなさっているのがなんとも不可解でして」
「だって結婚してしまったし、妻だもの」
「それがどうにもよくわかりません」
「いくら別れるつもりであるからといって、課せられている務めを疎かにして迷惑をかけるわけにはいきません」
「はあ……左様ですか。それはまた」
くすりと笑ったフェリシアンさんに、なにかおかしなことを言ったかしらと首を傾げれば何故かフェリシアンさんはまるでわたしに敬意を示すように腕を胸元におじぎをした。
「え、なに!?」
「私共は皆、マリーベル様の味方です。勿論、旦那様にお仕えしておりますがたまには少々痛い目を見るくらいで丁度いいのですよ、あの方は」
「それはどうも。あの参考までに……ルイって、魔術の世界ではどういった人なの?」
「一言で表わすならば、怪物。空想上の珍獣、それこそ魔王といって過言ではありません」
全然、一言じゃない――。
*****
「あ、奥様っ! 今日のお勉強は終わられたのですか?」
庭園に降りてすぐ、バラ園に侍女のリュシーがこちらですっと、声を張り上げてお辞儀をし、そのすぐ隣にいた庭師のエンゾさんも会釈した。
「エンゾ! 奥様に失礼っ」
「いいのよ、庭仕事の途中だったんだから」
リュシーの注意に、エンゾさんの焦茶色の頭にあるふわふわの冬毛に覆われた三角の耳が少し折れ曲がる。
彼は獣人。ほとんど人間の姿と変わらないけれど、獣の耳と尻尾を持つ、屈強な体格でちょっと犬っぽい顔つきをした、たぶんフォート家の使用人の中では一番の常識人。
フォート家に雇われたのは、幼い頃から引き取られているリュシーより少しだけ後だそうで、リュシーより十年上の二十五歳、リュシーより後に入ったのは彼だけではないのに彼女は彼にだけ先輩風を吹かす。
小さな頃、自分の遊び相手にもなってくれていたエンゾが大好きなのだ。
二人が一緒にいる様子を見るのは、なんだかとても微笑ましくて、和む。
「その生温かい眼差し止めてくださいませんかね、奥様」
「リュシーが可愛くて、つい」
「は? このちっこい小姑みたいなののどこがです!?」
「ゔゔ〜〜エンゾぉッ!!」
ちょっと自分が大きいからって人を馬鹿にしてっ、とリュシーがまくしたてるのにはいはい先輩と
たぶん、エンゾさんはリュシーのことを大切に思っている。
彼女を妹みたいに思っているのか、もう少し違うものなのかはわからないけれど。
「まーあっちの世界でも有名らしいですから、うちの旦那様は」
「あっち?」
「人外の。俺は見てくれ以外は殆ど人間ですが、この耳にちらっとそんな噂声が一度だけ聞こえたことがありますよ」
「そんなの初耳!」
「言ったことないからな。屋敷に来たばかりの頃で、オドレイさんとかフェリシアンさんとか、こいつにもびっくりしていた頃で空耳かもしれませんし」
「リュシーはただの人間ですっ!」
「ああ、精霊の国育ちのな。俺よりあっちの世界に縁がありそうなんだがなあ」
「生まれたばかりの頃だから覚えていないし、それにそんな声聞いたことないです」
首を傾げたリュシーの
ほんの短期間、精霊の国で精霊に養育された名残に、エンゾさんが目をわずかに細める。たぶん空耳ではないだろうなあと思いながらバラの苗を土に埋める。
「奥様が庭仕事なさらなくても」
「好きなの」
「リュシーより、ずっと手際がいいです」
「農地を治める領主の娘だったもの。王宮では王妃様の鉢植えのお世話もしていたし」
冬はバラの植え付けの季節だ。
そして病気や害虫の勢いが衰える季節、植えてあるバラの木の根元の土にもしっかり病虫害対策しておく時期でもある。そうしておくことで、春の病虫害の勢いを削ぐことにもつながる。
それに剪定や蔓バラアーチの誘引もこの頃にしておく仕事。
「バラの手入れ始めの時期だし、リュシーも手伝っているとはいえエンゾさん一人では大変でしょう」
「近くの村から通いの手伝いもいるんですが、ちょっと前に家畜が暴れて小屋の修理やらなんやら大変らしくて。申し訳ありません」
「知ってる。精霊の悪戯で、ルイが収めたって」
冬枯れの庭でも、屋敷の庭園が素晴らしいことは見ればわかる。中庭を通り抜けた先にある薬草園も兼ねた
彼はいい庭師だ。春の庭園を見るのが少し楽しみだった。
「本当、ここのところ精霊絡みのいざこざが続き過ぎですよね。こんなことはじめてで……おかげで奥様もお一人が続いているし。お二人は新婚なのに」
憤慨しているリュシーの言葉に、バラ苗の根に傷みがないか確認しながら、あれと思う。
「はじめて? リュシー、それ本当に?」
「え? あ、はい。昔はどうかしりませんけど、リュシーがここにいる間でこんなことは一度もありません」
「一度も」
おかしい。
お祭りみたいなものって、魔術師は言っていたはず。
毎年のことではないの? それとも何十年に一度とかいった事なのかしら?
リュシーは小さな頃から、少なくとも十年以上はフォート家で暮らしている。
「あの、奥様?」
バラ苗を植える手を止めて、考え込んだわたしの様子にリュシーが気遣わしげに呟いたのに、なんでもないの、こんなことがずっと続いたら困るなって思っていたからちょっと安心したと答えれば、本当になんなんでしょうねとリュシーは頷いた。
「……リュシー、温室の水遣りに行ってくれ」
「え、でもまだ終わって」
「この一画はあらかた終わった。奥様もそれを植えたらリュシーと温室を見ていただけませんか。こいつ一人じゃ水加減が心配で」
「んん、それくらい出来ますっ」
「馬鹿、このままずっとこっちを手伝ってもらっていたら奥様が体を冷やすだろう。ほら温室の鍵」
なんとなくエンゾさんの物言いたげな気配を感じて、リュシーに先に行っててと指示をすれば、でも行くならご一緒にと渋ったリュシーに手元の苗を見てこれだけ済ませてすぐに行くからと促す。
彼女は、はいと手の土を払って立ち上がると、エンゾさんから鍵を受け取って中庭へと向かっていく。
温室の薬草には毒草もあるから、温室の中には鍵のかかる部屋もあった。
庭を区切る綺麗に刈り込まれた冬でも緑を保つ低木の壁の向こうへと、小柄な姿が消えてからわたしは花壇のそばでかがみこんだまま、しゃがんでもずっと高い位置に頭がある大柄な彼を仰ぎ見た。
「俺の気のせいだと思いますが、ここ一ヶ月ほど妙に屋敷の外がざわついてるような気がする時がありまして」
「ざわついた?」
「本当に気のせいみたいなもんなんですけど……あの旦那様が万が一にも屋敷になにか起きるような気の抜けたことを許すわけがないだろうし」
彼も自分にとってはこの屋敷が一番安全だと言っていたから、たぶんそうなのだろう。
魔術師は嘘はつかない。
精霊や人外のものとと契約の上で成り立っている彼の魔術において言葉はとても重要なものらしいから。けれど。
「リュシーは心配性だから、こんな事を耳にしたら気を張るだろうと黙ってましたが。さっき、あいつの言ったことに引っ掛かりを覚えていたでしょう?」
「少し。けれど彼があなた達になにも指示していないのなら、きっと大丈夫よ」
「ですよね、妙なことを言い出して申し訳ありません」
ううん、と首を横に振ってエンゾさんにお礼を言い、手の土を払って立ち上がって蔓だけが伸びているバラのアーチが小さなトンネルとなっている中庭の入口へと歩く。
ここ一ヶ月って、わたしがフォート家に来た頃からだ。
たしかに魔術師は嘘は吐かない。
けれど。隠しごとは大いにする――!
「春はきっととても綺麗ね、これ」
アーチを見上げながら呟き、そういえばフォート家に着いた時に見た紋章も蔓バラをあしらっていたものだったなと思い出す。
そういえばバラ園だけでなく庭のそこかしこにバラの木が多い、フェリシアンさんは特になにも言ってなかったけれどフォート家にとってなにか意味を持つものなのかしら。
「ちょっと変わった紋章だった……」
盾の色は緑、その中央の上下垂直に銀の帯を通し、真ん中に絡む蔓バラの輪、それを切り裂くように切っ先を上向きに斜めに交差させた剣の図柄を置いている。
魔術の家系なのにどうして剣なんだろ……昔は王様だったから?
でも王様なら鷲とか獅子とか百合とかそういった、王国に吸収された際に変えたのかしら、いやでもそれにしては……などと考えながら、水汲み場で手を洗って、温室に入ればほっとするような温かさで思わずため息が漏れた。
奥様、と声がしてリュシーの鮮やかな色の頭が植物の葉隙間に見えて近づき、温室の植物の様子を一緒に見て回り、土の乾きを確かめてはリュシーに水遣りを指示し、気になったものは手当を施す。
「奥様、まるでエンゾみたい」
「彼には敵わないわ。庭園の春が楽しみ」
「春のお庭はすごく綺麗ですよ。エンゾは花作りの天才ですから」
「それはリュシーがお部屋に飾ってくれているのを見ればわかるわ」
「ついでですから、お部屋の花も少しもらっていきましょう」
白いマーガレットが満開になっている、
床に置いて花びらが落ちてもだからリュシーに声をかけて花を受け取っていたら、ふっとガラス越しになにか動いた気がしてリュシーに向かって前かがみになっていた姿勢を起こし、枯れ色の目立つ外へと目を向ける。
誰もいない、中庭の風景。
気のせいかと瞬きした時、目の端にひらりとまるでバラの花弁のように鮮やかに濃い紅色が一瞬ちらついて、やっぱり気のせいじゃないと蔓だけのアーチがある中庭の入口へ首を回す。
小さなトンネルを出た向こう側に、さっき視界の端に映った色のドレスのスカートが見えた。遠目にも使用人が着る服の色でも布地でもないとわかる。
誰? お客様?
でもそんな予定は聞いていない、屋敷の主人である魔術師は不在だ。
「リュシー、どなたかいらしたみたい」
「え?」
「中庭の前の、蔓バラのトンネルの向こうに人が」
「ええ、そんなはず……って、誰もいませんよ?」
わたしに言われて慌てて立ち上がってトンネルを見て首を傾げたリュシーに、振り返ってみればたしかに誰の姿もない。
「旦那様がいない時に来客なんて……お庭までいらっしゃるなら、その前にフェリシアンさんかシモンさんが奥様を呼びにこないなんて有り得ません。たとえお客様でもそんな勝手なこと」
「たしかに、そうね」
でも、たしかにさっきドレスを着た女性が……女性。
花を片腕に、右手を口元に考える。
そういえば魔術師って、結婚前はなにやら複数の女性とお付き合いしていたような口ぶりだったような。
ここに入れたのは妻であるわたしだけとか調子のいいこと言っていたけれど。
あの魔術師の言葉だ。
ここにはの“ここ”が寝室やあの棟を指していても、屋敷全体は指してないなんてこと大いに考えられる。
大体この屋敷は庭も建物も広すぎるし、部屋なら有り余っているし。
わたしとの結婚話は、婚約時から王宮に知れ渡っていて、正式に婚姻の儀を執り行って一ヶ月も経っている。とっくに地方にも広まっているはず。
妻や愛妾は持たなかったとしても、四十真近の男の人だ、恋人なり愛人なりはいたはず。
「奥様、なんだか難しいお顔をなさってますけどどうかしました?」
「なんでもない。よく考えたら最高に不愉快なことを思い出してしまっただけ」
いえ、いいのよ別に。
わたしと会う前にそりゃ恋人や愛人の一人や二人や三人四人五人……きっともっといたでしょうとも、あの顔で、地位も名誉も財も持ってる、新妻に強力な媚薬盛るようなあの大悪徳好色魔術師だもの。
これあれじゃないの、結婚前にお付き合いしていた精算しきれていない方が想い募ってやってきてしまいましたといったやつではないの?
だってあんな薔薇色のドレス、どう考えても貴族の女性。
それもそれなりに目鼻立ちの整った方でしょう、でないと着こなせない。
「別にいいけど……筋は通してもらわないと困るわ」
魔術師の立場を把握したならなおさら。
気持ちの上はともかくとして、わたしは魔術師の正式な妻。
どういったご関係かはしらないけれど、もしも恋人や愛人でいまも続いているというのなら、少なくともわたしに話を通してからよ、妻が夫の女性関係も把握できない間抜けで後継ぎ問題なんて起きたら目も当てられない醜聞になる。
「あの、なにが困るんですか?」
「やっぱり気になるから、少し見てくるわ」
切った花を渡しながら尋ねてきたリュシーに、この子に話すのはまだ少し早いわよねと騒ぎ立てたくもないしと、にっこり花を受け取って、温室を出る。
温室の扉を閉めれば、えっでも奥様っ、とわたしを呼び止める彼女の声が遠ざかる。
だから聞こえていなかった。
「この“お屋敷”は、お約束のない来客は
魔術師がそう聞かせていたに違いない、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます