第30話 夫婦の義務

 神と精霊の祝福を受けられる場所で婚姻の契約を結ぶこと。

 古き婚姻の儀に従って婚姻の晩は一睡もせず悪きものを避けて無事に過ごすこと。

 婚姻の儀を終えた次の晩、つまり初夜は所縁ゆかりの地で契りを結ぶこと――と、数え上げるように魔術師は言った。

 なんだか、どこかで聞いたことがあるような……たしか。


『この国中の神と精霊の祝福の下での婚姻の契約、祝いの夜を無事に越えた次の夜に彼の所縁の地で夫婦の契り……』


 蔓バラ姫が言っていたことだ。


「他にも細かいことがあるのですが。たとえば、迎え入れる際はその地を踏ませないなどといった……マリーベル?」

「蔓バラ姫もそんなことを」

「ふむ。長い付き合いですからね。特に“ヴァンサンの子の嫁”には思うところがあるようで」

「思うところ?」

「昔からやたら接触を試みるそうで。とはいえ厄介な守護精霊を妻に近づけさせたいとは私も含めて歴代当主は思いませんからなにかと対策を。仮にそれを避けて接触しても、貴女のような好奇心溢れる勇気ある女性は珍しいですから、交流の記録はほぼ皆無に等しいですが」

「迂闊で申し訳ありません!」


 だって、最初に見たのは後ろ姿だけだったし。

 人を変わり者みたいに言わないで欲しい。

 

「それはそれとして。最初の、神と精霊の祝福を受けられる場所ですが、現在において古の神殿の一部を残す場所は王都の大聖堂くらいしかない」


 王都の大聖堂。

 代々王家の方々の婚姻の儀を執り行ってきた由緒正しき聖堂。

 そこでの婚姻の儀は、王族かいまの王家と余程縁のある貴族のみ……わたし達が婚姻の儀を大聖堂で行ったのは、身分差を釣り合わせるためにわたしが王妃様のご一族の養女になったからだ。

 いくら元七小国王の末裔の公爵家で、無駄に格の高いフォート家といっても、いまの王家とはまったくの無関係。

 そもそもそんな彼に鎖をつけるため、わたしを王妃様のご一族の養女にと魔術師が持ちかけた相談に王様は乗ったくらいの無関係さだもの。

 仮に身分差など気にしないと言った魔術師の言葉通りにわたしがすんなり彼の求婚を受けていたら、婚姻の儀を大聖堂で挙げることにはならなかっただろう。

 

「ん?」


 あれ?

 なにかおかしい……もしかして、わたし。

 そっと、魔術師の顔を見上げれば、いつだったか魔術など使うまでもないと言われた時に見た魔王の笑みがあった。

 もしかしなくても、わたしこの人に乗せられた!?

 

「貴女が意志の固い自立心旺盛な人で助かりましたよ、マリーベル」

「いま考えたら……身分差の話で反発心を煽られたような気も」

「考え過ぎです。ですが王と王妃のお気に入りの第一侍女、それも貴族の娘ではなくしかしご令嬢と認められる立場」

「……」

「貴女なら私という餌をちらつかせれば、必ず王は要求に応じてくれる。あまりに都合が良過ぎて流石の私も運命を感じましたね。大聖堂さえなんとかなれば問題はない。長距離転移の魔術は戦争中に父がすでに確立させていましたから」


 もっとも父自身は戦争に駆り出されたため、それを母のためには利用できませんでしたがと言い添えた魔術師に、それってとわたしは胸の内で呟く。

 魔術師のお父様より前は、たとえ大聖堂で婚姻の儀を挙げられても加護を得るための儀式は不可能だったってこと?

 大聖堂で婚儀を行い、その翌日の晩にはフォート家で初夜を迎える必要がある。

 馬車の馬を変え続け、昼夜を問わず走り続けても十日はかかる距離。

 王都から東方の端のフォート家へ一日で移動するなんて、絶対に無理だ。

 それを可能にするための術を編み出した彼のお父様は、共和国との戦争に駆り出されて手順を踏むことができなかった。


「それって、もしかして手順を踏んでいるのわたしだけってこと?」

「……貴女の質問にまだ答えていませんでしたね」

「え?」

「歴代当主の妻が、夫より早く亡くなっている理由です。古い時代は推測ですが出産時や産後が悪いことがほとんどでしょう。ただの出産でも危険が伴うというのに、対抗策がまだ十分ではなく生まれる時も生まれた後も大変です」


 そばで世話するものが一番災難を被りやすい。

 ある者は直接被害を受けて、ある者は犠牲になった使用人に心を痛めて、ある者は我が子に怯えて……いずれにしても心身のどちらかあるいは両方が傷つき、産んだと同時に犠牲になるか、そうでなくても疲弊していく。

 それまで魔術に関する説明みたいに話す魔術師に、どうしてそんな平然としていられるのと胸の内で問いかける。


『十二で当主となって、戦地に出向きましたからね』


 王宮の図書室で見た、家名録。

 魔術師のお父様は戦死。お母様はその少し前の日付で病死となっていた。

 フェリシアンさんから病弱な方だったと聞いていたから、いままでそれほど気に留めていなかったけれど。


「概ねそんなところです。対応策が確立されて以降は、出産や産後で弱ってでなければ精神を病んだためが多いですね」


 蔓バラ姫のあの言葉。


『だってあの屋敷で“ヴァンサンの子”の嫁はみんな悲しそうにするもの、なのに“ヴァンサンの子”は離さない。そうなる前になんとかしてあげたいって……』


 そもそもの発端を考えたら理不尽極まりない理屈だけれど、本当に悪気はなかったんだ。

 むしろわたしを、蔓バラ姫なりに助けようとしていた。

 魔術師の説明は続いている。

 そういえば、初夜は譲れないとかなんとか言って謝ってたけど、あれはわたしのためでもあって……でも、わたしが初めて儀式の手順を踏んでいるのならそれが成功するかどうかもわからない。

 それを考えない魔術師じゃない。

 

「夫もさして間をおかず戦死やらするでしょう、フォート家の当主は祝福のために必ず恋に落ちる。どうあっても悲劇とわかりきっているのに止められず守れもしない自分が許せない。死因不明と系図にあるのは……」


 自死だと、魔術師の声が耳に届く。

 これは話したくなかっただろう、彼としては。

 わたしが同情したり気遣ったり怯えそうなことは一切。

 魔術のことだって、限界がくればしばらく前後不覚に陥ることを仄かしはしてもはっきりとは言わなかった。

 蔓バラ姫が、わたしのためにわたしを攫おうとしたのが大きい。

 このことが動機となっているならまた来る可能性がある。

 蔓バラ姫は力の強い古精霊。

 彼が丹念にわたしに施した魔術でも、その場の危機を凌ぐことしかできない。


「ルイ」


 わたしは彼を見上げた。彼はわたしを見下ろしながらも見ていなかった。

 正直、いまわたしはちょっと、いや、かなり怒っている。

 でも怒るのはもう少し後だ。

 

「……私の母は、元々虚弱な人でした。優しい人で、私に大丈夫と言いながら私への怯えを消すことができない罪悪感で参ってしまって、私が物心がついた頃にはどうしても私を見ることが出来なくなった」


 そういえば、フォート家には肖像画がない。

 どんな人達だったのだろう、魔術師のご両親は。

 お母様は、あの屋敷の荒れ具合は“なかったこと”にしていたらしいから、なんとなく茶目っ気のある方のような気がする。

 そんな人でも我が子への怯えは消せなかった。


「誤解しないでください。別に厭われたわけじゃない。手紙が部屋に差し込まれるんです」

 

 フェリシアンから私の様子を聞いて書くのでしょうね。

 “夜更かししないできちんと寝なさい”とか“魔術の実験はあなたにはまだ早いわ”とか“お父様は必ず無事に帰ってくるから”とか。


 魔術師が愛されないで育ったわけではないらしいのは、よかったと思った。

 まあ多少捻くれてはいるけれど、彼は悪い人ではないし、フォート家の使用人達が彼を慕っているのは伝わってくる。

 主人に対してそれはどうかと思う言葉も聞くけれど、皆、魔術師のことが好きなのは間違いないし、彼等にフォート家という居場所を作っているのは間違いなく彼だ。


「父とはあまり仲睦まじいとは言えなかったのですが。彼女の境遇の半分は父のせいですから」

「手紙にお父様についての言葉があるのなら、そんなことはないのでは?」

「どうでしょうね。父が母を溺愛していたのはたしかですけれど……しかし、貴女は」

「なんですか?」

「いえ……十二になり冬も近い頃に手紙が途絶えた。途絶えて七日後に風邪をこじらせて亡くなった。その三日後に父の戦死の報が入って子供らしく泣く暇もなく、手続きして当主と認められてからは戦地に赴くことになったわけです」

「そう」

「王と王妃に出会ったのは翌年でしたかね、まだその頃は王太子とその婚約者でしたが」

 

 そして現在に至る、と。

 随分と途中を端折って、魔術師は話を切り上げた。

 ひどく長い上にひどくつまらない退屈な話だったでしょう、と薄く苦笑して。

 馬車の窓へ目を向ければ、景色は木が少ない野になっていた。

 道が伸びている遠い先に、小さな町らしきものが見える。


「たしかに……フォート家と蔓バラ姫の祝福についてはうんざりするような話ではあるかも。それにあの紋章の意味もわかったわ」

「紋章?」

「蔓バラの輪を切り裂く二本の剣、フォート家の紋章でしょう? あれは祝福を断ち切りたいのね」

「そんなところでしょうが、とはいえ精霊に悪気はない。ですからヴァンサン王の子、ひいてはフォート家に授けられた祝福は紛れもなく祝福なのです」


 さて。

 お話も終わったことだし。

 今度は、わたしがこの怒りを魔術師に聞かせてあげる番だ。

 まったくこんな話、冗談じゃない!

 わたしは魔術師を睨みながら彼から離れて、嘘つきとぼやいた。

 話すだけ話して、いつも通りな魔術師の様子に本当にこの人はと思う。


「心外ですね。嘘など吐いていませんよ」

「ああっ~~っ、もうーっ」


 ……やられた。

 本当に。

 こんな話を聞いてしまったら、もう――。


「卑怯者、詐欺師、悪徳……大悪徳魔術師っ」

「誰が悪徳ですか……まあ、卑怯者の詐欺師は当たらずとも遠からずでしょうが」

「認めないで」

 

 何度目だろう。

 この人の口車に乗せられて、あれよあれよという間にこの人と関わる前とはまったく違っている世界に放り出されるのは。

 こんな魔術大国の根幹を揺るがす機密事項を含む話を聞いてしまったら、余計に離婚なんて絶望的じゃないの。

 本当にどうしてこうなるの……。


「とにかくっ」


 魔術師との間にできたソファの隙間に、バフっと音を立てて膝の上で握り締めていた両手をつくと、わたしは彼に迫るように身を乗り出した。


「マリーベル?」


 なにが一目惚れよ、妻よ……。

 人を巻き込んでおいて。

 

「わたしは諦めませんので! 考えようによってはあなたも協力してくれてるってことじゃない。祝福が回避できるのはわたしが離婚するにあたっては都合がいいもの」

「まあ、そう言えなくもないですが……」

「だったら、もっと、きちんと、色々教えてくれないと困ります。大体、わたしのためにあなたが苦心している儀式とやらの手順にうっかり逆らってたらどうしてくれるの!?」

「マリー……ベル?」


 まったく。

 いいこと? とわたしは彼の鼻先を指さして告げた。


「夫婦は互いに協力する義務があるって知らないの? 署名した結婚誓約書に書かれている内容きちんと読んでます? 人を巻き込んでおいて一人で勝手にあれこれ画策してるんじゃないわっ」

「……その言葉、貴女の考えとの矛盾に満ちていませんか」

「どこが」

「全部です」

「そうかしら」


 祝福の回避は魔術師も望んでいる。

 そしてそれは、彼と離婚するにあたっても都合がいい。彼自身もそう言ったのに。

 それになにやら夫婦の夜の義務においても気を配ってくださっているようだし……なんとなくどう編み出したのかは深く考えたくはないけれど。


「何故、顔を顰めているんです」

「……別に」

「貴女という人はわかりやすいのによくわかりませんね、マリーベル」


 そう言って、彼の曲げた指の背がわたしの額を撫でるように滑って、彼はわたしから身を引くように馬車のソファに寛いだ。

 窓の外へちらりと目を向けて、もうそろそろ着きますねと呟く。


「そういえば離婚を望んでいるくせに、貴女は私の妻であることは否定しませんよね」

「だって実際そうだもの」

「私を受け入れてもいるし」

「あ、怪しげなものを飲まされて半ば強引にでしょっ」

「ですが、唇も許してくれるではないですか」

「それは……っ」 

「なんとなく慣れでとか言わないですよね?」

「……違います」


 わたしは魔術師ではないので、小さな嘘くらいは吐く。

 嘘はつかないけど隠し事は大いにする悪徳魔術師よりは、正直ましだとも思う。

 そんなことを考えながら魔術師から顔をそむけていたら、御者台から旦那様とオドレイさんの声が小さく聞こえた。


「まもなく到着です」

「正直、挨拶回りとかどうでもいいような気分ですが、支度しましょう」

「支度って、降りるだけでは?」

「馬車の中は屋敷同然の守りをかけていますが、外に出ればそうではありません」

「はあ」


 にっこりと微笑んだ魔術師に、なにか嫌な予感がする。

 そして嫌な予感というものは外れない。


「あーお約束まであんま時間ないんで。お迎えの使者もきてますし、お取り込みも程々にしてくださいねー」


 別の馬車で荷物を運ぶ従僕のシモンの外からの呼びかけに、違うっと心の中で返す。

 目立つ場所に色々施すのは逆に目をつけられやすいらしい。

 そんな魔術師の説明を聞かされながら、口の中を彼の指に弄られて……。


「ん、ん~っ」

「呻ると舌が動いて正確に文字を刻めませんので、黙ってください」


 屋敷の守りを、わたしの身にも及ぼす仕掛けを施すのはいいとして。

 長い話とかするより先にしてよ、こんなこと――。

 一ヶ月前に結婚し、その妻を連れての領地回り……ええ、シモンの言葉で人は大いに誤解しそう思ってしまうでしょうとも。

 馬車のそばできっと困惑しているに違いないだろう使者の方にどんな顔して会って言葉をかければいいのかわからない。

 それに小規模な町というのは大抵、あっという間に噂話が広がる。


「どうして……こうなるの……」

「慌しかったので、外出時のお守りを作っておくのをすっかり失念していました」

「失念……?」

「ええ、急に決めたことでもありましたし」


 では参りましょうかと、魔術師が言い。

 オドレイさんの手で馬車の扉が開いた。

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