第31話 公爵夫人の憂い

 昔々の大昔の小国王家の末裔で、無駄に格が高いと当主の魔術師だけでなく家令のフェリシアンさんも口にするフォート家。

 王国東部の約六割を占めるロタールと呼ばれる地を有する公爵。

 さらに公爵領内で共和国との境である防衛地区バランの指揮行政官の権限を持っている。 

 昨年秋の始め。王の誕生祭の場で突然わたしに求婚し、詐欺のような手口で四十日間の婚約の契約を結ばせて契約期間中に策を弄して人を追い込んだ。

 そうして冬になり、年明けて結婚した銀色の髪と青みがかった灰色の目を持つ胡散臭いまでに見目麗しい魔術師である夫をあらためて紹介すれば。


 ロタール公および防衛地区バラン辺境伯であらせられる古七小国王族末裔、ルイ・メナージュ・ヴァンサン・ラ・フォート。

 人呼んで、“竜を従える最強の魔術師”。

 長い――。

 

盛り・・過ぎ……」

「ん、がどうかしましたか? マリーベル」

「いいえ、別に。随分と雪が少なくなってきましたね」


 昼食と替え馬のために立ち寄った町での時間は滞りなく、あっという間に過ぎて再び馬車で移動中である。

 領内は森が多いけれど、いまは緩やかな勾配をもった台地で自然に出来た道が続いている。

 溶け残りの雪の白と芽吹いた草の緑と土の色が見える。


「もう間も無く春ですからね」


 すぐ耳元で聞こえた声に、どうして向かい側に座らないのとそっと息を吐く。

 彼曰く、長くも退屈なフォート家とその当主のお話は一通り終わったはずなのに。王族向けの馬車くらいにゆったり快適ではあるもののそう広くもない馬車の中、わたしのすぐ右隣に魔術師は腰掛けている。

 どうせなにを言っても無駄に決まっているから、それについては放置している。

 石畳で整えられていない道だけれど、馬車はむしろ道が整えられていた屋敷の敷地を移動していた時よりも揺れが少ない。快適といってもいいくらいに。

 ここからは揺れが強くなるからと、魔術師が馬車を支えて揺れを抑えるバネの部分に魔術を施したためだ。

 馬車の揺れは長時間となれば、結構体に負担がかかる。

 こんなことが出来るのなら、王都からの移動や今日も始めからそうすればいいのにと思いかけて出来ないかあえてしないのかと思い直した。

 そうでないものをそうであるように変える魔術には、魔力と呼ばれる代償を必要とする。

 魔力は体力とか精神力とか生命力とかいったものとほぼ同様で、使えばそれだけ使った本人を消耗させるものだ。

 精霊や魔物とも盟約を結び、魔術師が使える魔力はほとんど無限に近いとはいえ、残念ながら人間の肉体がその負荷についていけない。

 限界がくれば糸が切れたように、前後不覚に眠り落ちて回復するまで目を覚さないといった厄介な副作用付きの無制限使いたい放題な魔力だった。


「あの……この馬車すごくいい馬車だと思うし、わざわざ魔術を施す必要ないのでは?」

 

 そういえば王都から戻ってくる時は、馬車の中でほとんど眠っていた。

 王都を出て王領から一気に東部の森の中に途中の道程を短縮させたあたりから、ほぼ半日近く途中休憩の茶館にも入らずに。

 オドレイさんも“腑抜けているだけ”とか言っていたし。

 本人、「もう徹夜はだめ」とか言っていたけれど、あれはきっと魔術を使い過ぎたに違いない。

 

「トゥルーズに向かう間で、八つの国境沿いの町に立ち寄ります。急ぐ上に道がよいところばかりでもない」

「八つも? トゥルーズは今夜泊まる先なのですよね。いくら挨拶回りを兼ねてといってもあと半日で八つも立ち寄るなんて無茶です。立ち寄れても本当に顔だけ合わせるくらいじゃなきゃ……」

「すでに祝いの返礼の品も手紙も、貴女とフェリシアンとで送り届けています。各地の報告や検分を行うためでもない。それで十分です」

「でも、急に訪ねるといってそれはあまりにも」


 魔術師は領主だ。

 しかも、今回は結婚した妻をつれての最初の領地回り。

 普通はこんな急なことはしない、余裕をもった日程で前もって連絡しておいて向かう。

 迎える側だって準備があるし、広い領地なら尚更、領主としては各地を任せている家臣や役人への労いや領民との交流だって大事だろう。

 護衛だって普通はオドレイさん一人なんてあり得ない。

 突然、訪れて顔見せだけで去るなんて素通りと大差ない、無駄に手を煩わされる分却って迷惑だし失礼だ。ほとんど嫌がらせといってもいいくらいに。

 そんな考えと困惑が、彼を見上げる顔に出てしまっていたのだろう。

 魔術師は、領主としての存在感はあまりないからいいのだと肩をすくめた。


「さっきだって、気易いものだったでしょう?」

「まあ……たしかに……」


 小さな国といってもいいくらいの規模の領地を治める領主がやってくるといったら、小さな町など普通はもっと大騒ぎになるはずだし、わたしだって領主の奥方になるわけだからそれなりの挨拶や気遣いをしなければならないと構えていたけれど、まったくそんな必要がなかった。

 町長夫妻との昼食も、普通に友人宅にいってお昼ご飯を食べてお茶を飲んで寛ぐみたいな具合で……この手の不意打ちは慣れているといった様子だったし、町もとくに領主様がやってくるといったお祭り騒ぎでもなかった。

 

「領主といっても統治は人にほぼ任せきりにしています。おまけに生業が生業ですから要請を受けることも。あまり主従とか家臣といった仰々しい感じではないのですよ」

「はあ」

「むしろ領内を五地域に分けて各々の統括を任せている統括官の方が、領民にとってはずっと馴染みも威信もあるのじゃないですか」

「領主として、いいの……それで?」

「税収だの運営だのといったことは、私よりも優秀な人はいくらでもいますからそういった人に任せておけばいい。もちろん報告には目を通し必要があれば確認なども行いますが」


 街や小集落はその街や集落の長に治めさせるのとは別に、税収の計算や領内における事業や治安維持など広域の管理を行う文官組織のようなものを五箇所置いているらしい。

 国の直属組織である東部騎士団の支援、有事の際の連携などもその業務に含んでいるらしく、実質的に公爵領を運営しているのは彼等で、しかも徹底した実力主義を敷いているとのことだった。

 教育格差があるから、やはり貴族や富裕の家に生まれた人が多いらしいけれど家の序列の影響が少ない組織は珍しい。

 また統括組織とフォート家の間では契約魔術が結ばれているため、統括組織の規約違反を犯したものは契約魔術によって処罰が下るらしい。

 もちろんフォート家が、領主だからといって勝手をすることもできない。


「必要最低限すべきことをし、公爵家の取り分を受け取ってそれで回るならいいじゃないですか。仕事と報酬も与えているわけだし」

「そりゃ、そうですけど」

 

 領主が無尽蔵な魔力を持つ魔術師だからこそ出来ることだ。 

 契約魔術は、様々な条件に対して長期間効力を有する魔術をかけないといけない高度魔術で、内容にもよるけれど、少なくとも領地全体の統治に関するような込み入った広範囲のものならかなり腕利きの魔術師と高度な法務処理を行う人がいなければ扱えない。

 お金も大変かかる。

 

「使えるからって魔術はあまり無闇矢鱈と使っていいものでもないのでは?」

「おや、誰に聞きました?」

「オドレイさんから、あなたの限界の話を聞いた時にそんなことを」


 魔術師がオドレイさんに言った話では、たとえ熟練の術者であっても、魔術というものは本来は人が使う力ではないため、程度の差はあれ蝕まれるものらしい。

 けれどよく考えたら、このあたりはどれくらい影響を及ぼすものなのか他の魔術師と比べて魔術師本人はどうなのかもよくわからない。

 “特に自分のような者には歯止めのようなものはあった方がよいと”、魔術師が言っていたと話していたらしいけれど。

 フォート家やその当主の話は聞いてなんだかすごく知ったような気になってしまったけれど、たしかに多少は知れたかもだけれど。


「やっぱり、まだあなたのことわからないことだらけ……」

「抱きしめたいほど可愛らしいこと言ってくれますねえ」

「茶化さないで。いま思えば王都から戻ってくる時も大半寝てたのって、あれ徹夜がきついじゃないでしょ」

「徹夜がきつい歳なのはたしかですよ。婚姻の儀での加護の術の仕込みや長距離転移といった比較的大掛かりなもの他諸々、複数の魔術を休息なしで立て続けに使用して疲れたというだけで、嘘は言っていません」


 ほらきた、嘘は言っていない。

 でも隠し事は大いにする。


「まあ、貴女の質問に答えるのなら、無闇に使うのはたしかによろしくはないですが。とはいえ得られる効果と代償との兼ね合いです」


 一般的な軽傷や軽い病気を治すような癒しだとか、探し物だとかいった魔術を生業にしている者がよく使う汎用化された程度のものならそれほど気にしなくていいらしい。


「単純なものでも代償が大きいのは要注意ですけどね。魔術師ならその辺りは自分の体調の良し悪しを見るのと同じような感覚でわかるものです」

「そういうものなの?」

「ええ。軍部の者はそのあたり用心深いのを通り越して、臆病なまでに保守的ですがね」


 表情だけはいつも通りに胡散臭いまでににこやかだけど、ちょっと肌寒さを感じるほどに冷ややかな眼差しとその声音はなんなの。


「ぐ、軍部となにか確執でも……?」

「特には。ただ無能と関わるのは煩わしいというだけです」


 世のご婦人方がうっとりするような微笑みでお答えいただきましたが、言葉が表情と真逆なの気がついているのかしらこの人。

 考えてみれば、フォート家の使用人は働き者で未熟なところはあっても年齢や経験年数を考えたら優秀揃いだ。

 

『贅沢とお喋り以外にする事もなさそうな甘ったれた貴族の娘なんぞ一夜限りのねやの戯れならともかく、側において一体私にどんな益が?』 

 

 ふと、婚約期間に身分の釣り合うご令嬢をお勧めした際の彼の言葉が脳裏を過ぎる。

 単に、貴族の家付き合いの面倒が煩わしいことを言っているのかと思っていたけれど、本当の本気で利益のあるなしを言っていたのでは。


『色々とあれな人ではあるけれど、本当に、悪い人ではないのよ』


 王妃様がおっしゃってたのって、もしかしてそういったことでは。

 わたしが見た限り、魔術師が友好的な態度を示したのって王様や王妃様やナタンさんや法務大臣様……全員、とっても有能な人ばかりだし。

 父様だっていかにも暢気な田舎領主に見えて、領地運営に関しては赤字を出さないやり手だ。王都で法科を修めていて契約範囲や罰則の影響が及ぶ範囲の確認も難しい契約魔術も精査できるような人だし。


「急に俯いてどうしました、マリーベル」

「いえ、なんでも」


 もしかしたら案外あっさり離婚できるのでは?

 妻として無能と判断したらばさっと切るのでは?

 “祝福”は選ばせるとか言っていたけれど、そもそもまだ選んでなくて気の迷いってことも有り得ますよね?


「ふ……ふふふ……」

「……なんですか気味の悪い笑いを浮かべて」


 結婚して一ヶ月以上過ぎているけれど、わたし公爵夫人なんて立場に見合うことはこれといってなにも出来てもいなければしてもいないし。

 むしろ、蔓バラ姫に近づいて攫われかけて、魔術師や皆に心配かけたくらいで。


「ルイ」

「はい」

「こうしてあなたと領地に出てみてあらためてなにもしていない……ううん、なにもできないなとわたし思ったのだけど」

「マリーベル?」

「さっきの話、領地に関してはなにもお手伝いすることもできないでしょ。かといって魔術師のあなたのなにか助けができるわけでもない。世継ぎのことも控えたほうがいいわけだし」

「まあ、そうですね」

「家は使用人の皆が切り回してくれているし、夫婦は協力するものって言ったけれどフォート家の難しいことについてわたしはなすすべもない。このままだと贅沢とお喋り以外にする事もなさそうな、無能な公爵夫人まっしぐらじゃない?」

「急になにを言い出したかと思えば」


 よく考えてみて、と魔術師を見上げる。 

 マリーベル……と、言って魔術師がその綺麗な顔をかなり台無しに顔をしかめる。

 あらためてわたしが事実を並べたことで気がついたようだ。

 御者台から、「間も無く次の村に着きます」とオドレイさんの声が聞こえたけれど、それも耳に入っていなさそうな様子だった。

 隣り合って座って、まるでこれからキスでもするように互いに見上げ見下ろし見つめ合う。


「どこをどうしたら、そんな考えになるのですか?」

「え?」

「貴女、私が放置していたこの一ヶ月の間でなにをしていたかわかってます?」

「えっと、蔓バラ姫の件で皆に心配かけたことくらい?」


 そもそもこの領地回り兼里帰りもそれが発端だ、そういった意味では突然領主がやってくるといった迷惑まで各地に引き起こしている。

 自分でもあらためて考えると、本当に穀潰し以外の何者でもない。

 これでもそれなりによく気が回るって王宮では褒められていたはずなのに。

 所詮は王妃様のご威光あって、色々出来ていたってだけのことよね。


「貴女たかだか一ヶ月足らずで、王都及び公爵領と貴女のご実家関係すべてにお祝いの返礼をした上に、蔓バラ姫が仕掛けた各地の騒動先から私が戻ったあとの見舞いまで……。まったく、おかげでこちらは何故こんな村までといった場所でもお祝いだからと歓待の誘いを受る始末だったんですよ」


 私は面倒事を片付けたらさっさと帰りたいというのに。

 屋敷に戻ったら戻ったで、領内や王都から私宛の手紙も溜まっているし……と、ぼやいた魔術師に「はあ」と相槌を打つ。


「王都では、私が結婚してようやく人間としてまともな人付き合いらしきことをするようになったと。早くも夏の社交の招待状が……悪乗りしたロベール王がいくつか名を連ねていて厄介な」


 だからお礼状など適当にと言ったのに、と文句を言われましても。

 そもそも、お礼状は人として最低限ちゃんとしなきゃだめでしょう。


「この挨拶回りもです。本来は例年春になる頃に国境沿いの町に敷いている防衛用魔術の補強だけのはずが、貴女に会いたいから連れてこいいつでもいいから連れてこいといった催促が複数箇所からしつこく届くので……本当にいつでもいいのだなと」

「それでこんな急に!? 大人気なさすぎるでしょうっ」

「もともと貴女のご実家には用件もありました。モンフォール家へ伺う日程の打診も王都の婚儀の際にお父上殿に頼んでやりとりしていたのですよ。繋いでいない地域との連絡は時間がかかりますから。貴女が眠っている間に日時が決まったのでどうせ出かけるのならついでで済ませてやろうと」

 

 信じられない。

 気まぐれかと思ったら、父様とやりとりしていた?

 でもって領内の挨拶回りも魔術師としてのお仕事も、その道行きのついで?

 

「なんて迷惑な領主なの! それにだったら最初っからそう言ってくれればっ」

「伝えたら、貴女は準備万端で対応してしまうじゃないですか。これ以上、付き合いやら招待やらに煩わされるのはご免被りたいですからね」


 ふふん、と。

 冷ややかに言い放った魔術師に、この人……屋敷の事情などではなくて本気で付き合い悪いんだわ、それも貴族どころか人として残念な具合でと目眩を覚える。

 領地に引きこもってる変人って言われるはずだ。

 急すぎてなにも用意が出来ないけれど、突然訪ねるような真似して流石に手ぶらはないと、ロザリーさんに日持ちする焼菓子を大量生産してもらってお手紙に使う美麗な紙で切紙細工を作って包み、手持ちの刺繍糸で飾った気持ち程度のものを多めに用意した。

 その一つを、昼食会で町長夫妻でお渡しした際、一体どうしたのだと魔術師に尋ねられ、夫妻の手前、当たり障りない説明をしたけれどそれも彼にとってはあり得ないことであったらしい。


「いや、用意するでしょう」

「そうですね……少々、貴女をみくびっていたのは反省すべきところです。昨日の今日で、あのような品を用意をするとは。日程に余裕など持たせたらどんな気の利いた準備をするかわからない」


 どうやら魔術師を困らせてはいるようだけれど、なんだかひどく納得がいかない。

 それに聞いてみれば、わたしの実家方面への贈り物は王都にいる間に手配を済ませて準備万端らしい。

 なんなのよ本当にこの人。


「日頃あなたにかわって領地を運営してくださっているわけでしょう?」

「労いならば日頃から十分すぎるほどしています。そもそも今回は向こうが祝ってやる祝ってやると押し付けがましく言ってきて、あまり無下にして貴女に妙な言いがかりをつけられてもですから、仕方なく仕事のついでで多少付き合ってやるだけです。返礼品も送っているのになにをしてやれというのです?」

「……付き合ってやるって」

「まあ、それはいいとして。薬草も無駄なく採取保存していただいているし、屋敷も少しずつ綺麗になっているし、リュシーを教育してくれているようですし、フェリシアンの報告によると目録作りに取り掛かっているとか?」

「どれもほとんど大したことは……やっていないも同じです。それにお屋敷の修繕は当面諦めるにしても、引き継いできたものを粗末に扱うってことはないでしょう。不要ならどこかに譲るなり役立ててもらうなりすればいいのですから」

「ろくに屋敷の案内すらしていない内から、そんなことをやっている貴女のどこがどう、贅沢とお喋り以外にする事もなさそうな無能な公爵夫人なんです? むしろ貴女の場合、それぐらいの気で過ごしてくださるくらいで丁度いい」

 

 また、身分がどうの不釣り合いがどうのなどと考えたのですか?

 あまりご自分を卑下するものではないですよ、と両頬に手を添えられる。

 違うっ、そうじゃないと心の中でわたしは叫んだ。


「それともフォート家の“祝福”についてなにか考えたのなら、これは魔術の領域です。わかっていて自制できなかった私に責任があるのですから、貴女がなにも手が出せないと気に病むことはありません」

「いや……だからそういったわけじゃ」

「大体、私の至らない点を叱りつけ、あらゆる懸念をなんでもないこととするような、貴女のような女性が他にいるとは思えません」


 あれ?

 なんだか雰囲気がおかしくない?


 頬から手が離れたと思ったら、突然抱き寄せられて彼の胸元にやや強く鼻の頭をぶつける。

 つんっ、と目まで届いた軽い衝撃に、うっすら涙目になる。


「そんな泣きそうな頼りなげな表情なさらないでください」

「してませんしっ」

「前にも言ったでしょう? 私はいい妻を持ったと思っているのですよ」


 貴女が眠っている間、リュシーにも随分怒られました。

 初夜が明けたとたん新妻が目を覚ますのも待たずにどこかへ行ったきり。

 屋敷に三日も戻らず、ろくに相手もしないで不在がちなんて王都から旦那様のためにすべてを捨ててこんな辺境のお屋敷に来てくださった奥様にあんまりです。

 

「……どれほど心細いか。挙句に酷い目にも合わせて、と」


 魔術師の言葉を聞きながら、リュシーそれ一体どこの誰の話と思う。

 全然心細くないし、すべてを捨ててってなに?

 それに酷い目に合わせてというの、蔓バラ姫のことならあれは自ら危険に突っ込んでいったようなもので、むしろ魔術師は助けに来てくれた側だし。


「やはりさっさとこんな領内の用件など終わらせて、本来の新婚旅行に落ち着きましょう。それがいい」

「いやいや、お仕事なんでしょう!?」

「各町にある防御陣を仕込んだ敷石に魔力を追加するだけです。さっきの町でも中央広場に鐘楼が建っていたでしょう」

「もしかして。それ、あと八箇所するの?」

「正確にはトゥルーズも含めて九箇所です。バラン辺境の国境に面した全十箇所の町の防御陣が繋がって魔術的な防御壁を形成します」


 魔術師曰く、流石に展開範囲が広すぎて強度が一年位しか保てないものらしいけど、それって詰め込みでさっさと終わらす仕事じゃないですよね。

 めちゃくちゃ重要な仕事じゃないの!

 どう考えてもそれって大きな魔術でしょ。

 あなた限界がくるのでは?

 

「あの、途中で倒れてはいけないのでそんな慌てなくても」

「補強程度で倒れませんよ。それに万一のために薬も調合してきています」

「え?」

「私が不在がちにしている間、貴女が薬草を適切にしてくださっていたおかげで素材が十分あったものですから。強壮やら回復やら色々と質がいいものが作れたもので。“竜の血”程は強力でなくても余程のことでもしなければ倒れるなんて有り得ません」

「そう、なの……」

「ええ。到着したようですからさっさと済ませましょう、マリーベル」


 馬車の扉が開かれて、「奥様?」とオドレイさんが首を傾げるくらい。

 わたしの顔は引きつった奇妙な笑みを浮かべていたらしい。 

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