第59話 ジャンお爺さん
ユニ領の村外れ、山の麓の傾斜に沿った段々畑の奥にジャンお爺さんの家はある。
家というより小屋だけれど、そこにジャンお爺さんが住んでいるのはユニ領の村の者なら誰もが知っていることだった。
ただ、赤い帽子を被った姿は時折見かけるけれど、村の人間とろくに顔を合わせず、交流もなく、いつからそこに住んでいるのか誰も知らないしわからない。
とにかく人間嫌いで偏屈者のお爺さんであるということだけは、わたしも村の皆も共通の認識だった。
「それはまた……。そのようなご老人と、どうしてまた貴女が懇意に?」
「えっと、子供の頃にちょっと。それより歩きにくくはない?」
「これでもロタールの領地を方々回り、こちらよりずっと辺鄙な場所にも出向いて魔物退治やらなんやらとやっています。お気遣いは無用です」
ユニ家の敷地を出て、だらだらと続く畦道を並んで歩きながら、ユニ家から比較的近い村外れのジャンお爺さんのところへとルイとわたしは向かっていた。
ジャンお爺さんを訪ねた後、村にも立ち寄る予定だ。
ユニ領は北部寄りの山の麓にある小領地で、西部に流れる大河マレーヌ河の支流の川へ向かって高低差がある土地だった。
村は川に近い平地に、さまざまな作物を育てている畑は平地から山へ向かって傾斜している土地を有効に活用するべく、段々畑となっている。
畑のある場所によって、気温差や発生する霧の濃さなど違いがあるため、場所により作っているものが異なる。
ユニ家は一応領主家なので、高台から畑や村を見渡せる位置にあった。その方が収穫した作物を商人との取引所となっているユニ家に運ぶにも都合がいい。
ジャンお爺さんの家はユニ家と畑を挟んで山に入るすれすれの場所にあった。
「でも、馬車が通れる道もあったのに……」
まあ、収穫した野菜とかを積んだ荷馬車ではありますけど。
「ユニ領に住む方々をむやみに驚かせたくはないのですから。モンフォール家の遠戚とはいえ静かな場所のようですから」
「たしかにそれはそうですね」
およそ煌びやかなものとは無縁の小さな農村に、いかにもお貴族様仕様な立派すぎる馬車で行けば悪目立ちどころの話ではない。
それこそ、田舎に突然王様がやってきたくらいの衝撃と違和感を村の皆にもたらすだろうし、たぶん皆、恐縮して家の中に隠れて出てこなくなるだろう。
ルイの配慮はありがたい。
彼の格好も、まるでお忍びで狩りにでも行くような軽装だ。
だけど、なにぶんご容貌がご容貌なのよね……。
「よい天気で、気持ちの良い日ですね」
そう言って、春めいた青空を仰ぎ、農地の緑と吹く風に目を細めるルイの姿は……絵だ。
王宮の
ローブの魔術師姿じゃないこの人の、この無駄に歩く美術品な感じは本当になんなのかしら。きっと古着なんかも着せてみたところで、なにか含意を持った絵や像、あるいは芝居の一幕みたいに見えてしまうに違いない。
「……」
「どうしました?」
「いえ、ルイには申し訳ないけれど、領地を案内するのに徒歩で正解と思って」
「ええ、たしかに。この風景だけでもユニ領が素晴らしく豊かな地であることはわかりますね。手入れが行き届いている。馬車では勿体ない。本当にそのようなお気遣いは無用です。これでも一応、軍属の身分もありますし」
たしかに。
防衛地区バランの指揮行政官、バラン辺境伯でもいらっしゃる。
「そうじゃなくて、皆が腰を抜かしちゃうといった意味で」
「そんなものですか」
「そんなものです」
はっきりいってロタール公爵領が大らか過ぎるのだ。
おそらく統括組織が徹底した実力主義であることや、彼が領民にわけへだてなくて意外と儀礼に無頓着だからだろう。
尊敬も英雄視もされているけれど、領民から親しげに声をかけられるのを道中で何度か見かけた。
「ドルー家のお祖母様が村にいらっしゃっても、クロディーヌ様がお出ましになったとひと賑わいになるくらいだもの」
小さな頃から畑で泥んこになっている、爵位なしな領主の娘のわたしですら、お嬢様と一定の敬意を払ってもらえるくらいだもの。
あの大領地の領主然とした格好や一目で上等の絹をたっぷり使っているとわかるローブをまとったお偉い魔術師様の姿な彼を見たら、冗談ではなく皆腰を抜かす。
「本当に貴女という人は、王宮でそつなくお勤めしていたというのに、私が持っているあの場所で持てはやされるようなものには、まったく興味なしですよねえ」
「それを自惚れなしで仰るの、本当にすごいと思います」
「しかし……王宮の廊下で私といる際、どこかの子爵相手に場所を尋ねられて恥じらっていたことはありましたね。どうして私にはないんです? やはり歳の釣り合いは重要ですか?」
「歳は関係ありません。それに中途半端に凛々しい人の方が、現実味があってどきどきしちゃうじゃない」
「そんなものですか」
「そんなものです。美貌も行き過ぎると面倒くさいです」
「貴女のほめ言葉は大変独創的ですね」
ほめてないけどと思いながら農地を歩く。
午前中は農作業で忙しく、午後も農作業はあるけれど昼下がりの午後で、人の姿は遠目にまばらだった。たぶん休憩かもう今日の畑仕事は終わってしまって、家で別の仕事をしている人もいるのだろう。
本当は。
ちょっとだけ、どきっとすることもあるのだけれど。
だって……まあその、所謂夫婦の交流というかそういったことも、少ないながらにあるにはあるわけだし、それに。
――貴女を守り切るためだったと、せいぜい貴女に開き直るくらいです。
――貴女はしっかりした人ですが、そこまで強い人ではありません。
――小さな子供みたいに泣きじゃくる貴女も可愛らしいですが、少々痛ましくもある顔ですね。
あああ、もう一昨晩のことだけれど、恥ずかしくて葉野菜の畑に埋めてほしい。
あんな子供みたいに泣きじゃくって、八つ当たりにも等しかったのに……普段の胡散臭くも甘ったるいのより却って……却って……。
でもって、あの。
――ゆっくりお休みなさい。マリーベル。
「――マリーベル」
「はっ、は、はいっ!!」
「……どうしました?」
回想のルイの声と、現実に呼びかけられた声が重なって聞こえて、飛び上がりそうなほどびっくりして返事をした。
そんなわたしを怪訝そうに見るルイに、ちょっとぼんやりしていて……と誤魔化す。
「つまり聞いていなかったと」
「あ、えっと。ごめんなさい」
「話が横道に入ってしまったので。人間嫌いとまで言われているジャンお爺さんという人と貴女が親しくなった経緯をもう一度お尋ねしました。子供の頃にちょっとというのはどういったことでしょう」
「ああそれは。子供の頃にお庭の花壇の水やりを忘れてしまって……」
あれもたしか、モンフォールの坊っちゃまのせいだった。
父様が朝、御用で呼ばれて一緒に連れていかれ、城館のお庭で持っていたわたしの大事なお人形を坊っちゃまに誘拐されて……その日は返してもらえなかった。
悲しくてお部屋でしくしく泣いているうちに眠ってしまい、丸一日すっかり花壇の世話を忘れてしまったのだ。
季節は夏で、翌日、水やりをしょうとしたら育てていた花はすっかり萎れてしまっていた。
お人形は取られたままだし、育てていた花は萎れてしまったし、わたしは持っていたじょうろを取り落として、その場にしゃがみ込んで……。
「泣いていたら、たぶん収穫した野菜の取引かなにかでユニ家に来ていたジャンお爺さんに後ろから声をかけられたの。何故泣いているって」
そう。
たしかそんなだった。
「わたしが水やりを忘れたからお花が萎れてって言ったら、土の水は涸れてはいない触ってみなさいって」
「ふむ」
「それで、お花もまだ生きているからいつもどおりに世話をしなさいって。そしたら夕方には元気になっていたの。父様にそのことを話したけれど、ジャンお爺さんは父様とは会っていなかったみたい。でも次に会ったらお礼をいいなさいって、坊っちゃまに攫われていたお人形を渡してくれて、大事なものがいっぺんに戻ってきてうれしかったの覚えてます」
それがきっかけで、見かけるたびに駆け寄っているうちになんとなく相手をしてくれるようになったといいますか……わたしが話し終えると、成程とルイは呟いた。
「あの三男はちょっとやそっとで泣くような女じゃないと言って、私もそう思っていましたが……貴女、結構泣き虫だったんですね」
ひとにジャンお爺さんのことを尋ねておいて、話を聞いた感想はそこ!?
「こ、子供の頃の話ですっ! それに男の子の前で泣くのってなんだか負けたみたいじゃないですか」
「なら私には負けたということですね」
「あ、あれはっ、あなたが勝手に入ってきたからでしょうっ!!」
ついさっきまで恥入っていたことをいま口にするのはやめてほしい。
そんな真っ赤になってむきならずとも……と呟いただけで、あの夜のことをルイは特に気にもとめていないようだけれど。
翌朝起きた寝台の中で、一連のやりとりを思い返したわたしがどれだけ死にたい気分になったと思っているの、この人。
あの癒しの魔術とその後の……完全に大人の男の人に甘やかされた小さな子供じゃない。そりゃあ、ルイはわたしの歳の二倍近い年上だし、父様と三つしか違わないから、わたしなんて本当は子供みたいなものだろうけど。
昨日もなんだか一緒に寝るのは気まずくて、結局、自分の部屋で寝ていた。
ルイはどうやら、モンフォールの当主様の思惑のことを気遣ってくれているようで、あれからむやみに絡んだり構うようなことをしてこなければ、夫として妻のエスコートでも無遠慮には触れてこない。
たしかに少しばかり抵抗を覚えるので有り難くはあるのだけれど、でもなくなるとなくなるでなんだか調子が狂うような……慣らされてしまったみたいでそれもまたなんだか癪に障る。
それに彼が、わたしのために手を尽くしてわたしを守ってくれたのだし。
なんとなく彼の横顔を見上げれば、こちらに気がついて首を回した彼の顔を見詰める形になってしまってどきりと心臓が跳ねる。
「時々、ちょっといじめるのも悪くないと思うくらいには可愛らしかったですよ」
「みっ……妙なご趣味を持たないでくださいっ」
なんだか変に気があせって彼より先に歩を進めようと歩幅を大きくとれば、ぐらりと軸足がふらついて体のバランスを崩した。
「マリーベル!」
「え、わ……っ!?」
ほとんど反射的にすぐ側にいたルイに取り縋って、彼もよろけたわたしを抱えるように支える。
「まったく、なにをやっているのですか」
「あ、ありが……と……あ……えっと」
「マリーベル?」
「だ、大丈夫。ちょっとよろけただけですから」
軽くルイの腕を引き離すように押すと、気をつけてくださいとぼやきながら彼はわたしを離した。
「それにしても、淑女の上げる声ではありませんね」
「……とっさのことでしたので、あの畑の奥です」
すぐ目の前にまで迫った傾斜地の葡萄畑の奥を指して歩き出す。
どきどきする。
わかってる、どんなにそうじゃないと思っても否定しきれない。
「マリーベル」
すぐ横から突き出すように差し出された肘を曲げたルイの腕に、なにと彼を見上げる。
「勾配がきつそうですので」
「腕組んで歩く方が怖いです」
「別に組まなくていいですよ。杖がわりで、案内人にひやひやさせられたくありません」
「杖……」
それなら、まあ……と彼の腕に手を少しばかりかける。
こういうの本当に。
モンフォールの件もそうだけれど、蔓バラ姫の時も、トゥルーズでも。
一昨晩でも。
いつでもどんなものからでも、わたしを守ってくれているみたいなの……困る。
この人になら甘えてもいいって思ってしまいそうで。
本当に好きになってしまいそうで、困る。
*****
「ジャンお爺さーん」
彼の世話する傾斜面も畑に、彼の姿はなかったからてっきり小屋にいると思ったのに、呼びかけても返事がなかった。
「お留守かしら?」
片手間の趣味らしい様々な花や、他の畑では見かけない苗が細かく植わった小さな庭を見回して首を傾げた。
ジャンお爺さんはお年を召しているからか、いつも他の人達より早めに農作業を切り上げて、小屋に戻っているからこの時間帯なら絶対にいると思ったのだけれど。
「裏の納屋でまだ植えていない、苗の世話でもしているのかしら」
「人がいそうかだけ見てきますよ」
そうルイが言って小屋の裏へと回っていった。
たぶん狭くて、草が繁っていたから普段着とはいえドレスのわたしを気遣ったのだろう。
別にいいのにと思いながら、庭の隅にいつも植えられている豆の蔓が伸びているのを見つけて近づいた。
数えたら十本植わっていたけれど、場所が悪いのかあまり丈夫に育っている感じではなかった。
「そういえば、子供の頃に母様からおつかい頼まれたな」
「戻ってきたか」
「きゃっ」
突然、背後から聞こえたしゃがれ声に驚いて小さく声を上げて振り返ったら、見覚えのある赤い帽子を被ったご老人、ジャンお爺さんがいた。
「驚いた。どこにいたの? さっき小屋に声をかけたのに」
「すぐ近くにいた……ふん、連れてきたのか」
納屋の方向へ軽く顔を向けてそう言ったジャンお爺さんに、ルイのことかなと思った。
王都から父様が一旦ユニ領に戻った後、わたしが東部の大領地を治める公爵様と結婚が決まったと、それはそれはもう村中お祭り騒ぎの勢いだったらしいので人嫌いのジャンお爺さんも流石に知っているようだ。
「ええ、ジャンお爺さんがわたしに教えてくれたことに興味があるみたいで、ぜひお会いしてお話ししてみたいって」
「会わん」
「……言うと思った。一応、公爵様よ?」
「はっ、人間にかわりなかろう」
「相変わらずね」
ルイには悪いけれど、やっぱり話すのは無理かと豆の蔓へとまた向き直って、細い蔓に触れる。
「あまりよく育っていないみたい」
「地がよくないからな」
「場所が悪いのにどうしていつも植えてるの? 休ませるなり、土を肥やすなりしたらいいのに」
「これからする」
「もう育っちゃってるのに?」
「ああ、次の年には間に合うだろうからな」
「今年のはいいの?」
「まだ
なにか新しく肥料でも作っているのかしらと首を傾げる。
むかしからジャンお爺さんは言葉数が少なくて、時々なんのことか意味がよくわからないことがある。
「その時がくれば、よくなる」
わたしの頭にぽんと後ろからジャンお爺さんの手が置かれてすぐ離れた。
「かなり解けている、もう間も無くだろう」
「ふうん。上手く出来るといいわね」
豆の蔓を眺めながら、さっきちょっと懐かしいことを思い出したのをジャンお爺さんに言おうとわたしは振り返った。
「そういえば子供の頃、母様のおつかいで……あれ?」
いない。
かわりに小屋の裏から戻ってきたルイが姿を現す。
「納屋だけでなく、小屋の裏手全体見ましが誰もいないようでした」
「あー……ルイが裏に回ってすぐにジャンお爺さんここにひょっこりやってきて、えっとついさっきまでいて少し話してたのだけど」
「ん?」
「わたしが豆の苗をちょっと眺めているうちに、どこかへ行っちゃった……たぶんルイが裏から戻ってくるのに気がついたんだと思う」
「なんですかそれは」
「だから言ったじゃない人間嫌いだって。たぶん森に入っちゃたのかも」
ジャンお爺さんの小屋は、ほとんど山の森の入り口にあって特に裏の草の茂ったところなんかはほとんど山の中だった。
「ルイと一緒に来たことと、ルイがジャンお爺さんがわたしに教えてくれたことに興味を持っているからお話ししたいってことは伝えたけど……」
「断られたわけですね」
はい。と、頷けば、仕方がありませんとルイは肩をすくめた。
「無理にお会いするというのもですからね」
「ごめんなさい」
「謝ることではないですよ、なら村へ参りましょうか」
「ええ」
まあこうなるって、ほぼわかっていたのだけどね。
なにしろ村の人達だって、ほとんどジャンお爺さんとはまともに顔をあわせないもの。
ここに小屋を建てて住んでいることは皆知っているし、畑や庭に植えているものが育っているから苗や土しか相手をしない、変わり者の偏屈爺さん扱いだ。
仕方ないと軽くため息をついて、わたしはルイの腕に再び手をかけた。
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