第44話 三度目の朝
“……”
“――”
話し声が……聞こえる……。
暗い、なにも見えない。
ううん足下だけが見える。
青黒くて、吸い込まれそうに暗い床を裸足で歩く。
木でも石でもない、なんだろうこの床。この場所は。
そう思いながらもどんどん歩いていく、まるで足だけは行くべきところを知っているみたいに動いている。
なにか操り糸のようなもので、動かされている人形になったような気分だ。
どうしてわたし……裸足なんかで……どこへ……?
階段。
ああ、階段だ。
とても長い螺旋階段をのぼるとそこはまるで小さな桟敷席。
お人形が座る様な小さな椅子に、小さな箱のような劇場を上から覗く。
小さな寝台に小さな女の子の影が眠っている。
そのそばで、女の子を見守る母親のような女の人の影。
影絵だ。小さな時に広場で一度見たことがある。幻燈装置の影絵。
なんだか……頭がぼうっとする。
ゆらりと女の子を見守る女の人の周りに、新しい影が揺らめいて彼女に話しかける。
“……どうして泣く……愛し子よ……”
“……そうですよ……愛し子よ……”
ゆらりゆらりと影は姿を声に合わせて形を変える。
男の声と、女の声。
愛し子?
“貴方には人のことなどわからない……私を愛しているというのならどうか……”
哀しい声。
けれどなんだか懐かしいような……。
ぐらりと目眩がして影絵の箱の側でわたしはよろけた。
あっと思う間に、青黒い天井が床が……視界一杯に広がる。
まるで暗い闇の底に吸い込まれていくよう――。
“……”
“――”
話し声が……聞こえる……。
暗い、なにも見えない。
“――いいだろう”
男の人の声がした。
“其方の望む通りに……”
今度は、女の人の声。
“どうか……その時がくるまで……”
“……その時が来るまで――”
その時が……来るまで……?
ぐらぐらする。
自分が立っているのか倒れているのか逆さに落ちているのかわからない。
暗闇がわたしを覆い隠す……遠くでカーン、と鐘の音が聞こえた。
鐘の音……。
カーン……カーン――。
間を開けて鳴る、ああ夜明けの鐘だ。
「――ん、……そのときが……くるま、で……」
わたしがいたはずの夢はすっと波が遠くに引くように、わたしから去っていった。
*****
――って、えっ!?
開いた目に最初に映った、銀色の髪と薄い唇にはっとわたしは目を覚ます。
近いっ!
ど、どうして……こんな、っ……か、体がっ。
動かせない――!!
カーンと窓の外から聞こえてくる夜明けの鐘の音を聞きながら、わたしを抱き込むようにして、完全にわたしの背中の後ろまで回っている意外にがっしりと固い腕がどうなってるのか確認しようと、首を無理矢理後ろへ捻り、
朝日の光が差して徐々に明るくなっていく部屋の明るさに、きらきらと輝きを取り戻していく銀色の髪に半ば隠れた、象牙色の顔。
少し陰った閉じている目のまつ毛が長い。
やっぱり、近いっ!
この前もそうだったけれど、その時よりももっとぎゅっと腕の中に閉じ込められてて動けない上に距離が近い。
なに人を思いっきり抱き締めて寝てるのこの人。
子供のぬいぐるみじゃないのですけど、わたしは。
「……なんなのよ、もう」
はあっ、と目が覚めてすぐからため息を吐いて一度寝具に顔だけ伏せた。
「心臓に、悪い……」
もそもそと呟いて、うつ伏せは苦しいのでルイの顔が目に入らない程度に少しだけ顔を傾けながら、けれどそうかこの人はと思う。
ぬいぐるみなんかを抱きしめて眠るような、子供の夜はなかったかも。
まだよく眠っているらしい。
オドレイさん曰く、“腑抜け”の状態でなければ、眠りが浅くてすぐ起きてしまう人のようになんとなく思っていたから、わたしが動いても目を覚さないのが少し珍しいと思った。
疲れているのかもしれない。わたしのこと一つとっても、いくつものことをいっぺんに盛り込んでいるようだし。
そもそも、この人は一体いつそんなことを考えて、手を回すようなことしているのだろ。
全然、そんな様子が見えない。
屋敷にいた時、ほとんど顔を合わせていなかったからその間だろうけれど、そんな頃では追いつかないこともある。
例えば、あのドレス。
ドレス自体はどうやらナタンさんとリュシーで大急ぎで用意したものみたいだけれど、ローブの服地までは流石にひと月やそこらではとても無理だ。
少なくとも王都にいた頃じゃないと間に合わない。
ナタンさんが急ぎでやったってことは、布地を頼んだ時はまだきっとそこまで考えていなかったってことよね……って、いえ別にだからどうってわけではないけれど。
「順番が後になるけど布贈りなんてことは……いやっ、ないない。この人にそんな情緒は絶対にない」
それにしても。
とても静かに眠っているから、ちょっと心配になってくる。
整っている上になんだか妙な艶かしさもあって落ち着かない気分になるから、あまり間近で眺めたい顔ではないけれどと思いながら、少しだけ目線を上げる。
ルイの口元にかかる髪の先が微かに揺れている、息はしているようだ。
顔全体に髪が乱れかかっていて、眠っていても鬱陶しさがあるのか眉間にうっすら皺を寄せている。
彼に抱きしめられているけれど手は動かせそうだ。
払うくらいならしてあげられそうだけど起きてしまうかな。
そういえば、眠っている間に変な夢を見ていた気がする……この人に拘束されて窮屈にしてたのが原因じゃないの?
でもどんな夢だっけ……なにか呟いて起きたような気もするのだけれど。
ルイの寝顔を眺めながらとりとめのなく考えていたら、室内も結構明るくなってきた。
まだ少し早いけど、起きてしまったら起きてしまってでいいか。
眠り足りないなら寝るでしょうし、わたしもこの状態から解放されたい。
そう考えて、ルイの顔に手を伸ばし髪に触れる。
真っ直ぐでさらさらな髪を額の向こうへ払ってあげて、軽く後ろへ撫でつけるようにしていたら、急に背中に回っている腕の力が強まり一瞬息が詰まった。
どうして、そうなるのっ!?
「あの、ルイ……っ」
完全に、彼の肩先に顔を押しつけるような格好になって、流石にこれは色々と苦しい。よく眠っているところを起こすのは気が引けるけれど、起きてもらわないと困る。
髪を直していた途中の手がちょうど彼の頬の位置だったので、ぺしぺしと軽く叩けば、思ったより簡単に彼は目を覚ました。
「……どうしました?」
「どうしたも、こうしたも」
苦しいの……と小声で訴えれば、ようやくご自分の状態に気がついたようで、ああすみませんと目が覚めたばかりの低くくぐもった声でルイは言って腕を緩めた。
緩めたけれど、まだ若干寝惚けているのか離してはもらえていない。
仕方ない、離れられる分だけ彼と距離をとって深呼吸する。
「おはようございます。マリーベル」
「おはようございます。朝から締め殺されるかと……」
「まさか」
「いや、わりと本気で苦しかったからっ」
寝ている間のこととはいえ、人をぬいぐるみかなにかみたいに抱き寄せるのはやめてほしい。
なにか抱えずにいられないのなら、間にクッションでも置きましょうかと提案すれば、朝から元気がいいですねえと気怠そうにルイは言って、ようやくわたしを解放した。
上半身を軽く起こしたわたしのすぐ隣で仰向けになって、横になったまま髪をかきあげている。
「大抵、夜明けと共に目を覚ますようですね」
「習い性なので仕方ありません。農地も王宮のお勤めも朝は早いもの」
「まあ、こういうのも悪くはないですが……水飲みますか?」
吐息まじりのさらに気怠そうな口調で、身を起こしながらそう尋ねてきた彼に、ほとんど反射的にはいと答える。
うっかり国でも傾けそうに、大変に……悩ましい様子だ。
この人を巡って、血で血を争うような諍いが起きそうな……普通、諍いを引き起こすのは美しい姫と決まっているのに、四十間近の殿方にどうしてそんな危機を覚えるのか、明らかになにかがおかしい。
わたしが、あなたのその麗しいお姿にほとんど関心が持てない人間でよかったですねと言いたい。
横着に寝台から身を乗り出し、サイドテーブルの水差しを手に取るルイを眺めながら、わたしは枕元に重ねたクッションに背を預けて座る。
「はいどうぞ、水です」
「どうも」
水の入った
口の中もさっぱりして、満足のため息が出る。
「そういえば魔術って、結構身近なところで色々使われてますよね」
「なんですか急に」
先に
「飲み水に、他国は結構苦労するって聞いたことがあって」
「たしかにそういった面での魔術の貢献は大きいですね」
王国の水事情は魔術のおかげでとても良い。
元々綺麗な水が豊富な所なら必要ないけれど、人が集まる場所や遠くから水を引かないといけないような所では井戸にも水道にも、浄化の魔術具を設置しているか、定期的に浄化の魔術を行う人がいる。
生活排水や汚物の処理も同様だ。少なくとも中流市民以上の生活で不衛生に悩まされることは少ない。
「公衆衛生は国や各領地に所属または契約を結んでいる魔術師の仕事の一つですから。通常の水の浄化程度なら汎用魔術で事足りますし」
「簡単に出来る魔術らしいってことは知っているけれど、たまに聞くその汎用魔術ってなんなの?」
「術の組み方がほぼ決まっている難度の低い魔術を、さらに簡単に扱えるよう定型式化したものです。幅広い用途に使え、一般的に魔術師と呼べるかどうかはこれが扱えるかで判断されます」
なんでもルイが見せるようなものとは違い、いちいち考えて魔術を組む必要がない。どういった類の魔術か理解し、必要な魔力さえあれば扱える初歩の魔術であるらしい。
驚いたことに、王国の魔術師の八割方はこの汎用魔術の扱いの範疇に留まるのだという。
「厳密に考えたり、研究しだすとなかなか奥深いものがありますがね。そもそも用途が幅広いといったこと自体、特定の命令が肝要である魔術において不可解といいますか……、マリーベル」
「なに?」
「起き抜けの語らいでする話ですか、これ」
「あなたの話のなかでは結構上位に好きですけど、魔術の話」
面白いし、魔術のことを話すルイには絡まれることはないから、一番平常心を保っていられる。
それになんといっても、ルイはこの国で最強の魔術師。
たとえるなら王立の高等教育機関にいらっしゃるようなとても偉い先生から、個人講義をタダで受けているようなもの。
ルイは素人のわたしにも、きちんとわかるように話をしてくれるし。
「それ」
「ん?」
わたしの目の前にルイの手が伸びてきて、なんだろうと隣に座る彼を見上げる。何故かじっと睨むように飲み終えたのですよねと言った彼に、ああ
「私に魔術の話をせがむなど、貴女くらいなものです」
「そうなの? 公爵で最強の魔術師様への遠慮では? 人付き合いの悪い引き篭りのすかした大貴族様では、なおさら声を掛けづらいだろうし」
「自分の夫に対してその言い草……近頃、本当に容赦がない。たしかにそんな評もあることは認めますが、本人に向かって胸が痛まないんですか?」
「全然。そりゃ根拠のない中傷ならわたしだって多少胸も痛めるってものですよ。でも、身内の立場で見てもまるきり事実じゃない」
流石に日頃の自分の態度を考えると反論できないのか、わたしに手を差し出したままもう一方の手でルイは眉間を摘んで小さく唸りながら息を吐く。
「本当に、貴女という人は……妙な人ですね」
わたしが持っていた
「妙な人だなんて、あなたにだけは言われたくない」
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