第16話 初夜は媚薬の惑い
フォート家に到着し、玄関ホールにずらりと並んだ使用人達に迎え入れられ、一通り紹介を終えればすっかり夜になっていた。
王城のような屋敷、百人や二百人の使用人がいても全然おかしくないというのに、紹介された使用人達はお屋敷の規模に対してあまりにも少な過ぎた。
「本当に……これで全員?」
「ええ、全員です」
先代から仕えているという、家令のフェリシアンさん。
王都から一緒に来た、魔術師の従者兼護衛のオドレイさんは、魔術師が出かけたり指示を受けて外に出ている時以外は、屋敷の中で執事に近いこともしフェリシアンさんを補佐しているらしい。
従僕は、わたしより年下のシモン。
小間使は昼番と夜番の二人で、リュシーとヴェルレーヌ、リュシーは公爵夫人となるわたし付きの侍女になるらしい。
呆れるほど広い敷地なのに、庭師もエンゾという名の青年が一人。
厨房も、女料理長のロザリーさんと調理助手のアンの二人で切り回しているらしい。しかも、アンは床からふわふわと足元が浮いていて、人外の存在であることは明らかであった。
たったの八名。内一人は数にいれていいかもわからない謎の存在。
「どうやって維持しているの!?」
「維持などできるはずないでしょう。使っていない場所は放置です」
「は?」
「今日はもう遅いですから。オドレイ、マリーベルを頼みます」
「え、ちょっと……っ」
「後ほど」
わたしをオドレイさんに任せて、魔術師は屋敷の階段を登ってどこかへ姿を消してしまった。
オドレイさんの案内で、食堂らしい部屋で疲れた体に染み渡るような夕食を彼女と従僕のシモンにお給仕されて一人でとり、その後、寝室に案内される。
それ程多くない荷物はすでに部屋に運び込まれ、お湯の支度も出来ていた。
寝室に浴室が付いているなんて流石は公爵家。
長時間の馬車の移動は疲れる。手足が伸ばせる浴槽のお湯に浸かってようやく人心地ついたと思ったら、入浴の世話の声をかけてきたオドレイさんにちょっと待ってとわたしは彼女を止めた。
「申し訳ありません。本来はリュシーですが遅くなりましたので私が」
「そうじゃなくて、あなたも疲れているでしょう?」
なにせ馬車の御者をしていたのは彼女だ。
「その必要があれば、補給無し不眠不休で三日保ちますのでお気遣いなく。着いたばかりで勝手もおわかりにならないでしょうから」
真顔できっぱり言われてしまってはなにも言えない。
「では……お言葉に、甘えて……」
元傭兵とは聞いているけれど、補給無し不眠不休で三日は保つなんて一体……。
入浴を終えて、寝るための支度も済み、すっかり寛げる状態になって寝室のソファに腰掛けた頃、姿を見せた魔術師に彼女のことを尋ねてみる。
「やはり気になりますか」
「屋敷のことは妻の役目ですから、差し支えなければ教えてくださると」
「馬車の中でも思いましたが、あなたの口から妻と聞くのはいいですねえ」
「おふざけはいいから」
わたしの斜め右向かいの一人掛けの椅子に座っている魔術師を軽くにらめば、彼は軽く肩をすくめた。
「オドレイの過去は、フォート家の使用人の中でも特異かつ苛酷です。教えるのは差し支えないですが、いまこの夜にすべて話して聞かせるのは色々な意味で
「そう」
「事前にお伝えし、貴女も見た通り、この屋敷の使用人は少々特殊な事情を持つ者が多い。人外の血を引いておりその特性が現れた先祖返り、あるいは人外との関わりを深く持ってしまった者など……ま、その他の事情を持つ者もいますが」
たしかに、フォート家の使用人達は訳ありな者達ばかりではあるようで、この屋敷でなければ、受け入れられるのは難しいかもしれないと思われた。
「人は条件さえ揃えば、まるでそうすることが正しい行いであるかのように人に対し残酷なことが出来る」
膝に指を組み合わせた手を置いて淡々と話す魔術師の言葉に、それ以上の追求は控えることにする。
まだこの屋敷に着いたばかり、それに彼と離婚する気でいる私がすべてを聞いてよいものかとも思う。いまこの夜にすべてを聞く必要はない。
そう考えながら、オドレイさんがテーブルに用意してくれたハーブのお茶をいれる。
「オドレイさんが幼い頃は、まだこの国は隣国と戦争中だったのよね……」
人外の力を宿し、明らかに異大陸の血を引いているとわかる容姿で、共和国で暮らしていたという彼女。天涯孤独とも聞いている。
一人で放り出された幼い少女が生きていくには、きっと筆舌に尽くしがたい苦労があったに違いない。想像もつかないけれどそれくらいはわかる。
「貴女、こういったことは聞き分けがいいですよね」
「それくらいの分別はあります」
拒絶はしないがやんわり制止を掛けるような、この人の物言いはそれに従うのがよいだろうと妙に人を納得させるものがある。
魔術師は捻くれた人だけれど、思慮深く、自分に都合よく人を動かすこともする。他人の事情や心理に無頓着なんてことあり得ない。
まだわたしに伝えるべきことではないということだ。
どうぞ、と入れたお茶を一応彼の前にも置く。
「おや、どうも」
「自分だけっていうのも、ですから」
それに、間が持たない。
パチパチと暖炉で薪が爆ぜる音を聞きながらカップを口元に運ぶ。
どうしよう、会話が一区切りついてしまった。
今夜は婚儀を終えてお屋敷にも落ち着いた、その……初めての夜であって。
お、落ち着かない――。
寝る支度は済んでいる。
寒いから厚手のガウンを羽織っているけれど、ガウンの下は寝間着で下着同然の薄着だ。こんな格好でこの人と一所に……いえ、結婚してしまったからには、これは夫婦として当然のことではあるけれど。
昼間、魔術師のからかい半分の言葉通りに初夜だもの……と、ぐるぐると頭の中を巡る考えを落ち着かせようとお茶を口元に運んでいたら、あっという間にカップは空になってしまってお代わりを注ぐ。
「静かですね」
「の、喉が渇いておりまして」
魔術師はといえば、昼間と同じローブ姿のまま憎たらしいほど普段と変わりない様子で平然としている。
ちょっと雑談して、王都の邸宅にいた時そうだったように、すぐまた魔術研究に勤しむためご自分の部屋に戻りそうなくらいの様子で。
むしろそうであって欲しい。
「あ、あなたは飲まないの?」
「そうですね……まあ、いまはいいです」
「そう」
わたしが貴族の娘であったなら、幼い頃から決められていた顔も知らない相手と結婚なんて当たり前かもしれないけれど、爵位などない田舎の領主の娘。
母を早くに亡くして、そんな心構えは誰にも教えてもらっていないし、覚悟も勿論決まっていない!
「ええっと……あ、そうだっ、この結晶も魔術なのよね?」
テーブルやマントルピースの上に、きらきらと橙色の光を放つ結晶が入ったランプが置いてある。
陽の光を集めた結晶。軽く衝撃を与えると光と熱を放つ固形燃料のようなものだそうで、照明として使えばとても明るい。
蝋燭と同じで、時間が経つにつれ結晶は小さくなり、夜更けになる頃には消えるらしいけれど。
部屋が明るいのがまだ救いだ。蝋燭の揺らめく光だけなんて……雰囲気に耐えられる気がしない。
「正確には、魔術的な手順を踏んで作る魔術具です」
「そ、そう。灯りもだけどお風呂のお湯を沸かす燃料にもなるし便利よね、これ。王都の邸宅でも使えばいいのに」
「便利ですが、このように純度が高いものは領地屋敷専用です。この家では蝋燭くらいのものでも、それ以上の価値を見出す者は外にはいくらでもいる」
たしかに燃料としてこんな優秀なもの、手に入れた者とそうでない者との間で大きな格差を生み出しかねない。
武器などに転用し、悪用でもされたらとても危険だ。
「この家が広過ぎるので使っていますが。この部屋というよりこの棟は、かつて小国だった頃の王妃の為のものであったらしい。使い勝手が良いため、いまは生活する所としています」
使っていない場所は放置の言葉通り。
元王城な屋敷の中は、使われずに放置されている場所も多く、明らかに寂れた建物や崩れそうに老朽化した塔なんかも廊下の窓から見えた。
おそらく修繕するのも、壊すのも大変なのだろう。
「その頃から魔術の家系?」
「らしいですね。王国前身の七小国の中でも一番小さな国で魔術に親しみ、人外のものと共存するお伽話に出てくるような国だったとか」
「お伽話……」
「本当のところはわかりません。もうそんな古くから続く領民も数少ない。ごく普通の王国民です。伝承のレリーフだけが屋敷に残っているというだけです」
テーブルに置いた杯の中のお茶の水面を見るように、僅かに目を伏せた魔術師の瞳の色がランプの光を受けて揺らいで、銀色の髪の一筋が色の白い頬の輪郭に仄かな光を滲ませる。
本当に、この人は綺麗な男の人だ。
ごく平凡な田舎領主の娘のわたしが、この人とあんな王族のような婚儀をしたこと自体がお伽話の中の夢でもあるかのような現実感のなさ。
本当は、王宮にあてがわれている自室でわたしは仕事に疲れてただ眠っているだけじゃないかしらと思いながら、自分の左手の薬指の付け根にそっと触れる。
表面だけが少し冷たい、けれど触れればすぐに体温と馴染む指輪がある。まだ慣れない金属の違和感が現実であると告げてくる。
「マリーベル」
「は、はい。なにっ」
「そろそろ休みましょうか。眠いかどうかはともかく疲れているはずです」
カップの底に薄く残ったお茶を飲み干そうとして、魔術師の言葉にむせて咳き込む。
いまのは普通の言葉なのに、なにを反応して……わたしの馬鹿っ。
俯いて思い切り咳き込んで頭に血が上ったせいか、なんだか顔が熱い。
「大丈夫ですか?」
「だ、だいじょ……けほっ、だい……っ……」
「落ち着いて、下手に呼吸しようとしてもむせるだけです」
気がつけば、立ち上がって後ろに回った魔術師に前のめりになった背筋をさすられ介抱されている。気管が落ち着いたのを見計らって、椅子から立つよう左手を取られて彼を仰ぐ。
間近に。
首を傾けてわたしの顔を覗き込む彼の顔があり、目が合った。
静かに凪いだ、青みがかった灰色の瞳になんとなく引き込まれて、まるでダンスの相手でも所望されたかのように向かい合って見つめ合う。
長いような、それほどでもないような奇妙な時間。
頬が熱い。なんだか動悸がする。
「――灯りももうすぐ消えるでしょうから」
気がつけば、結晶の光が弱まり蝋燭を灯した程度の光に揺れていた。
ほんの数歩で寝台がある。
彼から目をそらすように俯いて、その側をすり抜け寝台の側の椅子に羽織っていたガウンを置いて床に入った。
心臓の音が……うるさい。近付いたらきっと聞こえてしまう。
「一応、端に寄ってくださるんですね」
くすりと苦笑と共に上から降ってきた魔術師の声に、掛布で顔半分隠して寝台の側に立つ彼を見上げた。
「だって……そのっ、わかっては……いるから」
「夜の営みは、夫婦の義務とでも?」
ぎし、と寝台が揺れる。
寝台に腰掛けた魔術師の、紺色の絹の塊のような後ろ姿が腕を伸ばせば届く近さにある。
「そういえば、妻の役目は果たすと言ってましたしねぇ」
「そういった意味では……っ、面白がってる」
振り返った魔術師がにこにこと笑みを浮かべていたのに、むっとして彼を睨みつける。
「初々しさがかわいらしいと思っているだけですよ。こうもぎこちなく距離をとる女性はいませんでしたし」
「……」
いま、さらっと、なんだか腹の立つことを言ったような。
四十近い男性なわけだし、いくら妻も愛妾も持たずにきたといってもまったくなにもないなんてことはないだろうけど。
この顔に地位と名誉と財力が揃っていて、性格は捻くれてるけど外面……人当たりは良い人だし、所作は貴族らしく洗練されているし。
わたしとの婚約期間中も、淑女どころか紳士も少々混じった熱い視線を送られていた人だし。
「なに砂糖と塩を間違えて舐めたような顔してるんです?」
「これは怒っていいことではないかと」
「怒る……?」
首を傾げてしばし考える様子を見せ、ああ成程と魔術師は呟いた。
ふと、チェスの手を間違えて進めてしまったような不安に駆られたと同時に、身を乗り出すように近づいてきた魔術師の手が頬に触れる。
「たしかに失言でした。ですが屋敷を逢引場所にしたことはありません。屋敷に迎え入れたのは貴女だけです」
「それっていま話すこと?」
「おや、少しは妬……」
「断じて、違いますっ!」
魔術師の言葉は、最初の夜に閨で聞くにはあんまりだ。
別にこの人のことを好きなわけじゃないし、どこのどなたとどんな事をなさっていたかなんてどうでも……ええどうでもいいし、だからこれは嫉妬なんかではないけれど。
人をあんな強引なやり方で妻にしておいて、礼儀ってものがあるでしょうっ!
「……貴女だって、その歳までまったくなにもはないでしょう? あの故郷の、貴女を望んでいた幼馴染とかいう伯爵家三男もいたことだし」
「馬鹿言わないでっ! 殴られたいのっ!?」
思わず跳ね起きて魔術師へと拳に手を握って腕を振り上げれば、わたしの頬から離れた手がわたしの腕を掴んで引き寄せられる。
ローブの絹地に包まれて、再び頬に手を添えられ、それ以上の文句は言えなくさせられていた。
「ん……っ……」
だからって、大人しく黙って……唇を噛んでやると思ったけれど叶わなかった。体が震えて、知らず魔術師の袖を掴んでしまう。
滑らかな絹のローブ、微かに甘く温かみのある香りが
抗いたいのに。頭の芯まで逆上せたようにぼうっとする。
なんだか、熱い。心臓の音がうるさくて苦しい。
閉じてしまっていた目を薄く開けば、魔術師の目が自分を見ていたのに驚いた。反射的に袖を掴んでいた手で突き飛ばそうとしたけれど、彼の腕の中に捕らわれて、今度はわずかな吐息も奪われる。
や……なんだか、力……抜け――。
彼の袖を掴んだまま、崩れかけたわたしの後頭部を彼の手が支える。
もう一方の手で触れられている頬が灼けるように熱い。
「頬が、随分熱い」
解放されて息を乱したまま、魔術師を睨みつける。
この大悪徳好色魔術師!
「怒ってます?」
当たり前、と言いたかったけれど、魔術師を睨み上げたまま乱れた呼吸をすることしか出来ない。逃れようと腕を伸ばし押し退けようとしても、小刻みに震えてまともに力が入らない。
下手な美女より綺麗な人のくせに、体格や力の差だけじゃない。布越しに触れる肩や腕や胸の硬さもこんなにも違う。
すらりとした姿でも、この人は男の人だ。
捕まったら、そう簡単には逃げられない。
魔術師の体温か、自分の羞恥の熱かわからない、どれもなような気もする。
熱さと酸欠気味で、お酒に酔ってしまったように頭がくらくらする。
「瞳が、潤んでますね。マリーベル」
どさりと音と振動に、気づけば、横たわって魔術師に組み伏せられていた。
乱れ落ちてくる銀色の髪が額や頬、鎖骨のくぼみに触れてくすぐる。
魔術師の顔が、近い。
ゆっくりとわたしの下唇をなぞるすらりとした指。
じわりといままで感じたことのない痺れが、触れられた唇から喉の奥へ流れ込むように滲む感覚にわたしは
「わたし……なんだか、おかしい」
唇に触れていた指が、遊ぶように頬の輪郭を撫でて顎先から首筋へと降りる。
それなのに抵抗らしい抵抗もできず、頭がふわふわしている。
「おかしくなってくれないと困ります、オドレイが仕込んでくれた甲斐がない」
「え……?」
仕込む?
オドレイさんが、なに?
「まさか、昔の彼女の知識を借りることになろうとは……どんな高潔な騎士も聖職者も貞淑な貴婦人も抗うことはできないものらしい」
「ぁっ、の……お茶……っ」
「流石に察しがいいですね、マリーベル」
なにか……盛られた!!
にっこりと、実に美しい微笑みを見せた魔術師に頭の中が真っ白になる。
「離婚要件にはなりませんよ。花嫁の緊張を和らげる目的でその手のものを少量使うのはよくあることです」
にこにこと、わたしの両頬を包んで悪びれもしない魔術師の瞳の色をゆらりとランプの中の結晶の光が揺らす。
ふと、青みがかった灰色がわずかに
「私が謝るべきは、貴女を待つことができないことです。初夜は譲れない。大丈夫、貴女の心は貴女のものです。なにも変わりはしません……少しくらいは変わって欲しい気もしますけどね」
ひどく身勝手で最低なことを言っているはずなのに。
低く囁く声。美しい光が揺れる瞳。薄暗い室内に浮かぶわたしと魔術師を閉じ込める、檻の柵のような幾筋も垂れ下がる銀色の髪。
すごい……まるでこちらがなんだかひどく苦しい選択をこの人にさせてしまっていると錯覚しそうになる。その美貌と美声の威力が、狡い。
「マリーベル……」
熱を帯びた声をきっかけにしたように、ふっと室内が暗くなる。
ランプの光が消えた……そう思うと同時にシーツの上に乱れた髪を撫でられてびくっと体が震えた。
だめ、だってこんなの――わたしを見下ろす彼に首を横に振る。
「なんだか、不道徳……」
「不道徳? 何故?」
「何故って……」
だってわたし、あなたのこと愛してない。
細く震える声でそう伝えれば、魔術師はなにを今更と苦笑してわたしの耳元に顔を近づけた。
「私達は、王を後ろ盾に、大聖堂で神と精霊の加護の下、正式に結婚を認められているのですよ。周囲の人々からも祝福されている。魔術的にも完璧に成立した契約です。これ以上、常識的で正しい夫婦がありますか?」
「そう……だけど……」
「祝いの一夜を互いに無事に過ごして、この夜です。不道徳なことはなにもない。それにもっとずっと隔たりのある夫婦はいくらでもいる」
「けど……」
「貴女の心ほど、貴女の目も唇も……私を拒んではいないのに?」
耳打ちされた言葉にぞわりと背筋が粟立つ。
しっとりと耳に心地いい声がどこか淫靡な冷たさを伴って、追い討ちをかけるように密やかに囁きかけてくる。
「私にどうされると意識していました?」
問い詰めるのじゃない。甘く囁くような魔術師の問いかけ。
ぞくぞくと甘い痺れが波のように広がって肩が震える……怖い。
怖い。
――マリーベル。
彼の声がわたしの名前を囁き、知らぬ間に固く閉じていた瞼を慰めるようにその唇がそっと触れる。
「ま、じゅつ……し……」
「こういう時くらい名前で呼んでくれませんか」
「え……」
「私の妻で、いてくれるのでしょう?」
飲まされたもののせい?
こんな、流されるみたいな……なのに、唇にかかる魔術師の熱い吐息に逆らえず私は目を閉じる。
「……本当に……心もこれくらい私に寄り添ってくれたらいいのですが……」
しっとりした囁き声と共に魔術師が身動ぐ。
離れきっていない近さで、囁く魔術師の唇の動きを感じる。
「違う……、こんなの、わたしじゃ……」
うまく言葉にできないわたしの戸惑いを、伏せた頭を持ち上げて「いいえ」とひどく悩まし気な吐息と共に彼は否定した。
「強情で、聡くて、それなのに私の企みにまんまと嵌まって、怒りながらそれでも許して私に付き合ってくれる……」
「ル……」
「いつだって貴女は貴女でしかないでしょう、マリーベル」
わたしの唇を人差し指で押さえて微笑む。なんだが苦い笑みだった。
名前を呼べって、口にしようとしたら出来ないようにしてるじゃないと反発しながら、魔術師の熱いため息の声に再び彼の口付けに応じた。
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