ヤンの話②

 ある週末の夜、おれはまた彼の部屋にいた。もうすっかり自分の部屋のように寛いでベッドに寝転がっていた。


 コンスタンはいつになく口数が少なく、少し疲れている様子だった。理由を尋ねると大事な試験を終えたばかりなのだと言った。彼は窓辺に立って外を眺めていたが、ふと低い声でこんな詩を暗唱した。


『何事にも屈従した

 無駄だった青春よ

 繊細さのために

 私は生涯をそこなったのだ、

 おお! 心という心の

 陶酔する時の来らんことを!』※


「なんだい、それ?」

「アルチュール・ランボーさ。悪くないだろう」

 コンスタンは本棚から一冊の本を取ってよこした。

「君もちょっとは詩を読むといい、少しは内省的になるだろう」

「言ったな」

 おれが睨みつけるとコンスタンは少しだけ笑ってみせて、それからまた窓際に立った。おれも本を片手に立ち上がって隣に並んだ。


 五階から見下ろす中庭は暗くて静かで、暗闇に呑み込まれそうな妙な迫力があった。コンスタンの横顔に目を向けたら、彼は何かを思い詰めるような目で暗闇を見つめていた。彼の金色の髪はいつもきれいに整えられている。それは一分の隙も見せない彼自身みたいだった。だからたまにおれはその髪をぐしゃぐしゃにしてやりたいと思うことがあったよ。そしたらどんな顔をするだろうなんてさ。まあ、本当にしたことはないんだけどね。


 コンスタンは暗闇を見つめたまま低い声でこう呟いた。

「……世の中には、いっそ出会わなければよかったと思う人がいるものだね。出会ったことを後悔するような人間が」

「そうだね。本当に憎たらしい奴っているからね」

「そういう意味じゃないよ」

 彼は苦笑するとため息をついた。

「僕が言ってるのは、その反対だ」

「え?」

 コンスタンは少し沈黙して、それから小さく言った。

 

「二十六にもなるとね、人生ってのはつくづく思い通りにならないものだと思い知らされる」

「ふん、弱気だね。人生ってのは思い通りにするようにできてるんだよ」


 おれがそう言うとコンスタンはかすかに笑って、また暗闇に目を向けた。

「……そうとも限らない……」


 何かをあきらめたような弱々しい声だった。おれは彼の顔を覗き込んだ。

「一体どうしたんだよ。今日はおかしいぜ。目も赤いし。三日ぐらい泣きはらしたような目をしてる。ほんとは何かあったんだろう?」


 するとコンスタンは眼鏡を外し、片手で目頭を押さえた。そしてそのまま黙っておれの顔を見返した。


 その目を見た途端、心臓が大きく波打った。

 眼鏡を外した彼の青い目はまるで子どものように純粋で透明な瞳だった。引き込まれそうなぐらい深くてきれいだった。そしてその目は今にも泣き出しそうに潤んでいた。


「コンスタン……」

 何でもないという風に小さく首を振った彼の瞳から、一滴の涙がこぼれた。おれは思わず手を伸ばしてその目尻にそっと指で触れた。

「何があったか知らないけど、泣くなよ、いい大人が……」


 動揺を隠すために、からかい半分、がらになく慰めようと思っただけだった。なのに何故かおれは彼のまぶたに唇を寄せていた。温かくて湿っぽい感触がした。おれの唇はコンスタンの鼻から頬を撫で、そして小さく彼の唇に触れた。


 その瞬間、コンスタンの腕がおれの背中を掴んだ。

 

 普段の彼からは想像もつかないほど強い力だった。彼の熱い吐息を感じた時にはおれはもう我を忘れていた。ほとんど衝動的におれたちは唇を重ね合っていた。まるで今まで蓋をしていた何かが溢れ出すような心地だった。

 彼は眼鏡を手にしたまま、おれは詩集を手にしたまま、不格好にお互いを強く抱きしめ、その溢れ出した何かに駆られるように夢中で口づけを交わしていた。


 突然、中庭に明かりがついて辺りがざわめき出した。学生たちが帰って来たんだ。


 コンスタンはハッとしてすぐにおれを離し、顔を背けた。眼鏡をかけ直すと、背中を向けたまま言った。


「もう遅い……帰ってくれないか」


 さっきとは打って変わった冷たい口調だった。

 おれは何も言えず、ただ呆然と彼の部屋を後にした。




※「最も高い塔の歌」アルチュール・ランボー(中原中也・訳)

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