アプリヴォワゼ④

 早足で歩いて来るとジュールは小川の前で立ち止まった。声を荒げたあとのなんとも言えない後味の悪さだけが胸に残っていた。重たい荷物を下ろし、帽子を投げ捨てると小屋の裏へまわった。夏の太陽に照らされた川面がキラキラと光っている。


 ジュールは吸い込まれるように水を見つめ、汗で濡れたシャツのボタンに手をかけた。ボタンを外し始めた時、ふと人の気配を感じ、ジュールはびくりと後ろを振り返った。が、そこにはただ小屋の石壁があるだけだった。


 ゆっくりと向き直りながら、ジュールは小さくため息をついた。


 そうだ、もう体に染みついている。忘れようとしても、きっともう、体に染み込んでしまっている。夜中に物音がすると心臓が縮み上がることも。後ろに人が立つと背筋が凍りつくことも。こうやって服を脱ごうとするとそばに誰かいるような気がして必ず振り返ってしまうことも。


「忘れることはできない、か」


 小さく呟くと、振り切るように思い切りよく服を脱ぎ、ジュールは川の中へ入った。日に温められた水が生ぬるく足を濡らす。水の中にひざを抱えて座り、ジュールは顔を突っ伏した。


 分かっている。ヤンは本当のことを言っただけだ。きれいごとを言って慰める代わりに、強くならなきゃだめだと言って励ましてくれたのだ。そんなことを言ってくれる人がいるだろうか。たかが下男にそんな言葉をかけてくれる人がいるだろうか。それなのに僕は……。

 後悔と苛立ちとやり切れなさがごちゃ混ぜになって胸に押し寄せる。ジュールは川の水をすくって何度も顔を濡らした。



 ヤンが小屋に戻って来ると、ジュールはベッドに座ってぼんやりと床を見つめていた。髪が濡れている。


「ジュール、悪かった。謝るよ」

 ヤンはゆっくり近づくと隣に腰をかけた。

「余計なことを言ってごめん。傷つけるつもりじゃなかったんだ」


 ううん。ジュールはうつむいたまま首を振った。


「ヤンの言ってることは正しいもの。僕だってきっと本当は分かってたんだ。……ただね、ここに来てから色んなことがあんまり嬉しかったものだから、もしかしたら嫌なことも忘れられるんじゃないかって、そう思ってみたくなったんだ。単純だね、僕は」


 ジュールは淋しそうに自嘲した。ヤンは胸の奥を針でつつかれたように切なくなった。


「君の気持ちに水を差すようなことをして。ごめん」

「謝らないで。謝らなきゃいけないのは、僕なんだから」

 ジュールは真剣な顔でヤンを見つめた。

「ごめんなさい。怒鳴ったりして」

「ジュール……」

「一番怒鳴っちゃいけない人に怒鳴ったりして。ごめんなさい。僕はひどいことを言った。自分が恥ずかしい」


 ジュールの瞳がみるみる潤んでいく。ヤンはそっとその頭を抱いた。

「泣かなくていいんだよ。馬鹿だな」

 濡れた髪の下から温かい体温が指に伝わる。


「どうしたんだこの髪」 

「川に入ったんだ。裸になって。気持ちよかった」

「大胆なことするね」

「小屋の裏には死角があるでしょ。あそこなら誰にも見えないから」


 ジュールは顔を上げ、濡れた目で悪戯っぽく笑って見せた。ヤンの目を見るとまた涙が出てきた。


「……何もかも洗い流したくて……。何もかも全て、川の中で、洗い流せてしまえたらいいのに……。こんな手の跡、全部、消してしまえたらいいのに……。僕は……僕は汚いから……吐き気がするほど……汚いから……」


 声を詰まらせながらそう言うと、ジュールは両手で顔を覆い、肩を震わせてしゃくり上げた。


 ヤンの胸にいいようのない悲しみがこみ上げてきた。無数の手の跡は彼の体の上にではなく、心の中にこびりついている。


「汚くなんかない。君は絶対に汚くなんかない」


 思わずジュールを胸に抱くと、慰めのセリフも思いつかないうちにただ同じ言葉ばかりが口をついて出ていた。


「汚くなんかない……!絶対に……汚くなんかない……!」


 繰り返すうちに涙で声が震えてきた。ジュールは驚いてその顔を見上げた。


 ヤンが泣いている。

 自分のために泣いている。


 新しい涙が湧いてきた。ジュールはヤンの胸に顔をうずめ、ぎゅっと目を閉じた。着替えてきたばかりのシャツがジュールの髪と涙で濡れていくのもお構いなく、ヤンはその細い体を抱きしめ、涙をこぼし続けた。


 

 このことがきっかけになって二人の距離はさらに縮まった。まるで仲の良い兄弟のように、二人は朝から森に入っては手入れに勤しんだ。昼になると東屋でヤンが屋敷から持って来たパンやソーセージを分けて食べた。ジュールは森の中に生息している動物を頭に叩き込んだ。数週間前に同じ場所で迷っていたとは思えないほど、この森に慣れ始めていた。


 ある日ジュールが危なっかしい手つきで自分の髪を切ろうとしているのを見て、ヤンが代わりにハサミを持った。首でも切ったら大変じゃないか。そう言いながら小屋の外に椅子を出して座らせた。ジュールは背を向けて座りヤンのするに任せた。切られた髪がヤンの手から風に飛ばされて辺りに舞う。


 昔は父さんが切ってくれてたんだよ、とジュールが言った。でも一度床屋さんに行ってみたくて、こっそりお金を握って隣り町の床屋に行ったんだ。そしたら僕の髪、半分しか切ってくれないのさ。お金が足りないから残りを持ってきたらもう半分切ってやるって。ひどいよね。父さんに見つかって散々叱られたよ。結局父さんが残りを切ってくれた。でも怒りながら乱暴に切るもんだから、出来損ないのハリネズミみたいになっちゃった。アランに笑われたなあ。


 珍しく昔話をして懐かしそうに笑うジュールを見て、ヤンは心の中がじんわりと温かくなるのを感じた。森から心地よい風が吹き、すっきりと軽くなったジュールの首筋を通り過ぎていった。ジュールは短くなった髪に手を当て、照れくさそうにありがとうと微笑んだ。

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