アプリヴォワゼ③
森番の小屋には一冊、また一冊と本が増えていった。森の仕事を終えて小屋に帰って来ると、ひと息つく間もなくジュールは本を開いた。そしてページの中に無限に広がる喜びにどっぷりと浸った。純粋に物語を楽しむのなんてとても久しぶりのことだ。
アランの家で読んでいたのは童話ばかりだった。あの家でひと冬を過ごしながら、ジュールはアランに借りた子供じみた物語を繰り返し読んでいた。本を読むことで現実から逃れようとしていた。『青ひげ』を読みながらディディエの背中を剣で貫くところを想像してみたりもした。でも全てただの現実逃避でしかなかった。
でも今は違う。読むことは辛いことを忘れるためではない。ページを繰るごとに自分の目がどんどん覚めていくように感じる。新しい世界が花開いて行くように感じる。
ろうそくの光のもとでヘーゼルの瞳がせわしなく左から右へと動いている。もともと微笑んでいるような口もとからたまにフッと笑みが漏れる。本を読んでいる時のジュールは何とも言えず幸せそうだ。学校を休みがちだったと彼は言った。もしかしたら長い間こういう刺激に飢えていたのかも知れない。ヤンは本に熱中するジュールを見ながら微笑み、わずかな時間のうちに進んだページの数に心のうちで驚く。
最初に貸した『八十日間世界一周』はあっという間に読んでしまった。あまりにも早いので本当に理解できているのかと訝ったぐらいだ。しかし訊いてみるとちゃんと理解している。思ったよりずっと言葉も知っている。一度教えたことはすぐに呑み込む。ヤンは予想していなかったその知性に目を丸くし、面白くなってどんどん新しい本を読ませた。
ただし書き方となるとこれは別で、残念なことに字はまずい。同い年の子供に習っていたのでは上手くなりようがない。台所のテーブルに頭を突き合わせて座り、ヤンはジュールに綴り方を教えた。ジュールは丁寧にヤンの字をなぞった。
静かに眠れる夜も増えた。それでもジュールがうなされると、ヤンはそっと寝床から起き上がって彼の枕もとに立つ。大丈夫だよジュール。大丈夫……。髪を撫でながら低い声でそう繰り返しているうちに、その声が沁み込んでいくかのように彼は息を安らげ、また深い眠りに落ちる。ほっと息をつき、月明かりに照らされたその寝顔を見つめながらヤンは考える。
いつか、彼が悪夢を見なくなる日は来るのだろうか。
✽
仕事終わりに二人は東屋で休むことにした。狩りの時によく休憩する場所だ。いつ建てられたのか分からないほど古い東屋の柱には藤の蔓が巻き付いている。ジュールはこの柱が好きだと言った。春には藤が咲くんだろうね。きれいだろうな。そう言って柱に絡まった蔓を撫でた。
「ありがとうね、ヤン」
柱に寄りかかって涼みながらジュールはヤンに微笑んだ。そばにはジュールにすっかり懐いたデュックが控えている。
「読み書きを教えてくれたり、ピアノを聴かせてくれたり。僕を元気づけようとしてくれてるんでしょ」
「いや、別にそんなつもりじゃ、」
「知ってるよ。僕には分かるよ」
ジュールはヤンに背を向けると遠くに目をやった。木々の梢が太陽に照らされて鮮やかに輝いている。
「僕はね、忘れようとしてるんだ。嫌なこと何もかも。忘れて、なかったことにしてしまいたいんだ」
ヤンはジュールの後ろ姿を眺めた。撫で肩で華奢なジュールの背中は強がっていてもなんだか心もとない。風が吹けばぱたりと倒れてしまいそうだ。肩にかかった明るい栗色の髪が風に揺れている。
「でもね、ジュール。……忘れてしまうことは、できないよ」
ヤンの低い声にジュールは不安そうな顔で振り返った。彼はいつになく真剣な顔をしている。
ヤンは自分の胸を指し、静かにこう言った。
「ここにできた傷はね、消すことができないんだ。時が経ってなくなったと思っていても、また蘇ってくることがある。忘れることはできないんだ。なかったことには、できないんだよ……」
ジュールの眉間が曇りはじめた。
「……だから、生きてる限り、そいつと、うまくつき合って行かなければ。傷ができてしまったからには、そいつと、一緒に生きて行くしかないんだ。辛いかも知れないけど、それが……」
「どうしてそんなこと言うの?」
デュックが耳をそばだてた。ヤンはジュールの目を見てすぐに後悔したが遅かった。
ジュールは唇を噛んだ。
「元気づけてくれてると思ったのに……忘れようとしてるのに……。どうしてそんなこと言うんだよ……」
「ジュール、おれは」
「何が分かるって言うの。僕の気持ちが分かるの? ここについた傷が見えるとでも言うの? 一緒に生きろなんてどうしてそんな残酷なことが言えるの? 僕の痛みなんか分かりもしないくせに!」
ジュールは声を荒げて一気に言い放った。
初めて怒りの感情をむき出しにした彼を見てヤンは言葉を失った。
ジュールは自らの言葉の毒に当てられたような顔をして、急いで枯れ枝の束を担ぎ上げると、逃げるようにヤンの横をすり抜けて行ってしまった。
遠ざかる背中を見ながらヤンはため息をついた。
デュックがそばにやってきて小さく鼻を鳴らした。
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