アプリヴォワゼ②

 フレデリックは部屋で読書をしていた。イギリスからの仕事の便りはまだない。親父はまたリモージュに出かけている。しばらくは夏休み気分を味わえるだろう。


 階下からピアノの音が聴こえる。ヤンが弾いているのだなと思った。ショパンか。相変わらず滑らかな音色だ。ヤンのことを可愛いと思ったことはないがピアノの腕だけは認める。


 別にヤンを憎んでいるわけではない。ただうちに来た時から好きになれないだけだ。今日からお前の弟だよと屋敷に連れて来られた時から、ヤンが自分にないものばかり持っている気がしていた。自分が求めるものをヤンは何でもかっさらってしまう。わざとそうしているわけでもないのに、結果的にあいつが涼しい顔で全て持って行ってしまう。父の愛情も、ピアノの腕も。そんな印象があるだけだ。


 五歳も年下の腹違いの弟に嫉妬しているわけではない。父の仕事を継ぐのは自分だし、ヤンもおのれの立場はわきまえているはずだ。

 ただ、あの理由もなく人を惹きつけるところ、言ってみれば魅力とでもいうのか、それだけは自分にはないものだ。ヤンの生い立ちを知っているオスカーでさえ、彼を見下すような態度を微塵も見せない。一緒に暮らしているうちにあの奔放さや無邪気さに情が移ったのだろう。まるで可愛い甥っ子でも見るような目をする。あの明るさや強さは生まれ持っての武器だ。努力や理屈で得られるものではない。


 今日はいつもより丁寧に弾いているなと思いながら聴くともなしに音色に耳を傾けていると、ピアノの音がふと途切れた。しばらくして、また鍵盤を弾く音がした。フレデリックは本を読む目を上げた。おかしなピアノだ。まるで全て一本の指で鍵盤を押さえているように、ブツ切れの音を繰り返している。


 ド・レ・ミ・ファ・ソ。

 ド・レ・ミ・ファ・ソ。


 フレデリックは本を閉じると机に置き、部屋から出た。足音を立てないように階段を降りて行くと、階下の居間の奥でピアノの前に立っているヤンの背中が見えた。その背中に隠れるように誰かがピアノの前に座っている。フレデリックは二階の吹き抜けの廊下から下を見下ろした。


 ピアノの前に座っているのはジュールだった。

 フレデリックは気づかれないように柱に身を寄せた。相変わらずブツ切れのド・レ・ミ・ファ・ソ。

 笑い声が聞こえた。フレデリックはそっと身を乗り出して窺ってみた。


 ヤンが笑いながら鍵盤に右手を置いてみせる。ヤンが弾く。ジュールが人差し指で鍵盤を叩く。ヤンが弾く。ジュールが叩く。二人はまた笑った。

 ヤンは歯がゆくなったのか、ジュールの右手を鍵盤の上に置き、その上に自分の右手を重ねた。ひとつひとつの指をゆっくりと押さえていく。こうするんだよ。ド・レ・ミ・ファ・ソ。今度はこっちから。ソ・ファ・ミ・レ・ド。ね?


 ジュールが嬉しそうにヤンの方を振り仰いだ。なんという無邪気な笑顔だ。あの子が歯を見せて笑うなんて。


 フレデリックの心にチクリととげが刺さった。またヤンに何か取られるような気がした。


 何を?──あの子を。


 馬鹿馬鹿しい、フレデリックはフッと笑った。あれはまだ子供じゃないか。犬とじゃれ合っているのと同じだ、好きに遊んでいればいいさ。振り切るようにしてフレデリックはまた階段を昇った。



「これ全部君の本なの?」


 ジュールは興奮した様子でヤンの本棚を眺めた。ヤンの部屋は三階にあった。ベッドと勉強机が置いてあるぐらいのこざっぱりとした部屋には、本棚にぎっしりと本が詰まっていた。


「そうだよ、読みたいのがあったら持ってけばいいよ」

「沢山ありすぎて分かんないよ」

「こういうのはどうだ」


 ヤンが一冊の本を取り出した。ジュールは角が擦り切れたその赤い本の表紙を覗き込んだ。


「ジュール・ヴェルヌ」

「『八十日間世界一周』。知らないか?」

 ジュールは首を振った。

「これはきっと気に入るよ。おれも昔夢中で読んだ」


 ヤンは本を広げぺらぺらとページをめくっている。ジュールは本棚に手を伸ばし別の本を取り出した。


「これは何?」

「ああ、それは詩集だよ。ヴェルレーヌだ」

「読んでみてくれる?」

 ジュールが本を差し出した。ああ、いいよ。ヤンは世界一周を置くと詩集を開いた。しばらくページを繰って、それから小さく息をつくと低い声でゆっくりと読み始めた。


『秋の日の

 ヸオロンの 

 ためいきの

 身にしみて 

 ひたぶるに

 うら悲し。

 鐘のおとに

 胸ふたぎ 

 色かへて

 涙ぐむ 

 過ぎし日の

 おもひでや。

 げにわれは

 うらぶれて

 こゝかしこ 

 さだめなく

 とび散らふ

 落葉かな。』※



 ヤンは顔を上げてジュールを見た。

「……どう?」

「……暗いね」

「暗いよ。そこがいいんだ」

 ジュールはよく分からないという風に肩をすくめた。

「これは?」

「それはランボーだ。……もういいよ。君にはこれがちょうどいいだろう」

 ヤンは赤い本をジュールの手に渡した。


「読めない言葉はおれが教えてやるよ。──そうだ。なあ、これから夕方は勉強の時間にしないか。おれが読み書きを教えるから」

「本当に?」

「うん、君がよければだけど」


 ジュールは目を輝かせて頷いた。




※「落葉」ポール・ヴェルレーヌ(上田敏・訳)

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