アプリヴォワゼ

アプリヴォワゼ①

 翌朝、ヤンは台所の椅子に座って靴紐を結びながら、窓の外を眺めているジュールの様子を横目で窺った。今朝はお早うと言ったきり、黙ったままだ。ヤンの脳裏に昨夜のことが浮かんだ──。


 

 星空の下、川べりの草の上で、ジュールはひざを抱えて座り、小さく鼻をすすっていた。初めて語った身の上話はあまりにも酷なものだった。

 ヤンは黙って小川を見つめていた。闇の中に暗くうごめく川面は、月の光が映って時折チラチラときらめき、風が吹くたびにジャスミンの香りが濃く漂ってきた。


「夢を見るんだ」

 低い声でジュールは言った。

「僕の体に沢山の手の跡がついている。脂のようにこびりついてどんなに洗い流しても取れないんだ」

 ジュールは手のひらで腕をこするような仕草をした。

 ヤンの眉間が曇った。彼がうなされる正体はこれだったのだ。


「ダメだね、僕、こんなにメソメソして」

 ジュールは自分をわらうように乱暴に頬を拭った。

「父さんに叱られる。ジュール、男の子が泣くんじゃないって」


 ヤンはジュールを見つめた。気丈に振舞おうとする姿に心が締めつけられた。どう彼に答えていいか分からなかった。どんな慰めの言葉も無意味に思えた。


 するとジュールが小さな声でぼそりと言った。

「ヤン、お願いがあるんだ」

「……うん?」

 ほとんど消え入りそうな声で、ジュールは呟いた。


「……僕のこと……嫌いにならないで欲しいんだ」


 ヤンは呆気に取られた。何を言ってるんだ。

 ジュールの切羽詰まった横顔を見ると胸の奥がぎゅうっと痛んだ。


「嫌いになんかならないよ」

 努めて普段の口調を装って答えた。そうでないと自分の方が泣いてしまいそうだった。

 ジュールは安心したように小さく微笑んだ。


 ヤンは手を伸ばすとジュールの肩をそっと抱き寄せた。 

 ジュールはヤンの肩に頭をもたせかけた。涙の粒がひとしずく、小さな頬をつたって落ちる。


「泣いたって誰も叱りやしないよ」

 そう言ってヤンは肩へ回した手に力を込めた。


 その途端、堰を切ったようにジュールは泣き出した。

 ずっと長い間そうしていなかったかのように、幼い子供のように、声を上げて泣き続けた。


                  ✽


 生憎今日は曇り空だ。多分そのうち雨が降り出すだろう。今日は森に行くのはよした方がよさそうだ。窓の外を見ているジュールもきっと同じことを考えているに違いない。秘密を打ち明けたことを後悔しているのだろうか。あんな風に泣き顔を見せたことをまだ気にしているのだろうか。


「ジュール」

 振り向いたジュールにヤンは明るく声をかけた。

「ちょっとついて来いよ。面白いもの見せてやる」


 屋敷の入り口でジュールは少しひるんだ。イザベルの吊り上がった眉が頭をかすめる。

「僕なんかが入ったら怒られるだろう」

 尻込みするジュールを見てヤンが笑った。

「奥様はいないよ。毎週のご婦人会とやらでお留守だ。雨が降ろうが風が吹こうが絶対に欠かさないのさ。夕方まで帰ってこないから安心しろ」


 ヤンはジュールを連れて居間へ入り、壁際にあるアップライトの蓋を開けた。ジュールは目を丸くした。


「これ、ピアノだね?」

「見たことあるかい?」

「教会のオルガンに似てる。神父さんが日曜日に弾いてたよ。子供たちを集めて聖歌の練習をしてた」

「聖歌ね。君も歌ったのか」

「ううん、僕は歌わない。僕たちはミサに出なかったから」

「そうか」

「ヤン、弾けるの?」


 ヤンはピアノの前に座った。端の少し黄ばんだ鍵盤にそっと手を置き、

「聖歌は弾けないけど」

 そう言って静かに指に力を込めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る