ジュールの話④

 暖炉のそばで繕い物をしているおばさんに、僕はそっと訊いてみた。僕のお母さんは、どんな人だったの? って。


「どうしたの急に?」

 おばさんは手を止めて振り返った。


「お母さんのこと覚えてる?」

「覚えてるに決まってるじゃない、大の仲良しだったんだから。そうねえ、マリオンは美人だったわよ。村で一番の。それに優しくてね。彼女のうちも片親だったし、暮らし向きは決して楽ではなかったはずよ。でもきれいで気立てがいいから男の人はみんな彼女に憧れてたんじゃないかしら。うちの人も本当はマリオンと結婚したかったのよ、ここだけの話だけど。まあ、彼女の方じゃ乗り気ではなかったみたいだけど」


 おばさんは針仕事を続けながらくすっと笑った。


「僕の父さんも?」

「エリックはマリオンの方から好きになったのよ。みんなエリックのこと、よそ者扱いしたけど、マリオンはとても親切に色々と世話を焼いてたわ。周りには猛反対されたけど、それを押し切って結婚したんだから」

「そうだったのか。父さんは何も話してくれたことがないから」

「大恋愛よ。誰も割り込む隙なんかないぐらいあの二人は心から愛し合っていたわ。エリックは彼女をそりゃあ大事にしてね。人がうらやむような似合いの夫婦だった。……二人ともあんなことになったのは残念だけど」


 おばさんはそう言って暖炉の火を見つめた。

 僕は薪を取って火にくべた。


「……僕は、お母さんに似てるの?」

「どうして? 誰かそんなこと言ったの?」

「う、ううん、そうじゃないよ。ふと思っただけ」

「そうねえ」

 おばさんは僕の顔を見てフフッと笑った。

「ええ、よく似てるわねえ。髪の色もそうだし、目もとや口もとなんかそっくりよ」

「そうか……」

「でもエリックもなかなかハンサムな人だったし、どっちに転んでもいいところ貰えたわね、きっと」


 おばさんは悪戯っぽく片目をつむってみせた。

 僕はとても悲しくなった。



 次の木曜日も同じだった。もうスープはなかったけど、どっちだって同じことだ。腕力ではとてもおじさんに敵わない。僕がいやだと言うと、僕を壁に押しつけてお前は俺の何だと訊いた。使用人ですと僕は答えた。おじさんは口を歪めて笑った。分かっているならいい。そう言うとおじさんは僕を引っ張って階段を上がった。


 二人きりになるとおじさんは豹変した。何かに取り憑かれたような顔で僕の上にのしかかった。そして、あのことが終わると今度は急に優しくなって、僕の体をさすりながら耳もとで囁くんだ。これは二人だけの儀式だ。誰にも言っちゃいけないよ。俺はお前が可愛いんだよ、って。

 僕にはそれがまるで呪いの言葉のように聞こえた。誰にも言えっこない。こんなこと、誰にも知られちゃいけない。絶対に知られちゃいけない。


 アランの目が怖かった。食事をしている時も、勉強を教えてくれている時でも、何かを疑うような眼で僕を見ている気がして、僕は必死で笑顔をとりつくろった。本当はアランに一番打ち明けたかったのに。



 そのうちおじさんは味を占めて、二人きりになる場所ならどこでもその「儀式」をするようになった。家畜小屋でも、納屋でも。山羊たちが草を食んでいる小屋の片隅で、僕は震えながらおじさんの言いなりになった。あの大きな体が目の前に立つと、僕の頭は麻痺したように真っ白になって何も考えられなくなってしまった。閉ざされた冬の生活の中で僕が覚えたのは、ただひざまずいておじさんに服従すること、それだけだった。


 僕は春が来るのを待って家に帰ることにした。おばさんはそんなの必要ない、ずっとうちに居なさいと言って引き留めてくれた。アランは悲しそうな顔をした。でも僕は帰ることに決めていた。おじさんと同じ屋根の下に住んで、同じテーブルで食事をするのが耐えられなくなっていた。家に帰ればもう終わるだろうと思っていた。

 でもそんなの関係なかった。牧場から山羊を連れて戻るとおじさんが待ち構えている。そして家畜小屋に山羊を入れている僕の後ろに来て、あとで納屋へ来なさい、と言う。僕はおじさんの目を見ないで頷く。それが夏になっても続いた。僕はいつの間にか十五歳になっていた。


 その日もおじさんは僕を納屋に呼び出してその儀式をしていた。僕は壁に押しつけられて痛みに耐えながら、それが済むのを待っていた。小さな窓からは外の光が薄暗い納屋の中に差し込んでいる。ぼんやりとその光を見つめていると、ふいに何かが窓の外で動くのが見えた。僕は嫌な予感がした。


 恐ろしいことが起こったのは、その何日か後だった。 


                  ✽


 その夜、僕は家でまどろんでいた。ドアがギイとかすかな音を立てて開く気配がした。僕の家には鍵がない。目を開けたら、ランプを持った男が入って来た。その後に二人の男も続いて入って来た。僕は驚いて体を起こした。


 男はベッドのそばへ来て、僕の顔を照らした。眩しくて目がくらんだ。よく見るとそれはおじさんの家で農作業の手伝いをしている男たちだった。


「へへへ……よう、ジュール。寝てるとこ起こして悪ィな」

「何か用?」

 男はランプをベッドの脇へ置いた。


「いやよォ、こないだ忘れ物を取りに戻ったら、お前がディディエの旦那とイイ事してるとこ見ちゃったもんでよ、オレたちにもおんなじことしてくんねえかなァと思ってよォ」


 僕は息を呑んだ。納屋のことを思い出した。窓から見えた影はこの男だったんだ。身の毛がよだった。僕はベッドから飛び出して逃げようとした。でもすぐに他の男に捕まった。その男は僕を羽交い絞めにした。別の男が僕の腹を思い切り殴った。目から火花が飛び散って、僕はベッドの上に投げ出された。


「ディディエの旦那とはヤッてオレたちとはヤれないって言うのかい?」


 僕は助けを求めて叫んだ。声を振り絞って叫んだ。男たちが大声で笑った。

「いくら叫んだってここじゃ誰にも聞こえねえよ」


 僕は男の一人に咬みついた。男はギャッと叫んで僕の腹をこれでもかと言うほど殴りつけた。

「なあ楽しもうぜジュール、たっぷり可愛がってやるから」

 そして、動けなくなった僕の上に男たちの手が伸びてきた。


 そこから先は、まるで悪夢だった。早く覚めて欲しいと願った。

 でもこれは本当のことだったんだ。



 男たちが出て行った後、僕はボロ雑巾のようになってベッドに転がっていた。体の感覚がなくなって、ただ何故かものすごく寒かった。歯だけがガチガチと音を立てて鳴っていた。


 窓からうっすらと夜が明け始めているのが分かった。

 逃げなきゃいけないと思った。ぼくは、ころされる……。

 

 ドアを開けたとき、僕は最後にもう一度家の中を振り返った。


 テーブルのところに父さんと僕が座っているのが見えた。もう、二度と戻って来ない、幸せだった頃の最後の残像だった。


 僕は村を出た。


 父さんと暮らした家も、山羊たちも、幼馴染も──、

 みんな、捨てた。

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