アプリヴォワゼ⑤
ヤンは自分の部屋で本棚を物色していた。
ジュールの聡明さには舌を巻く。ヤンの持って来る本を次々と読破し、ユゴーの詩を暗唱する。書き方もずいぶん上手くなり、ミミズの這ったような字はすっかり人間らしくなった。彼がどんどん成長する姿を間近に見ながら日々過ごすことがヤンの楽しみになっていた。
しかし一方で複雑な心境でもあった。彼の持っている知性と、その置かれた境遇があまりにもかけ離れていることに心が痛む。
フレデリックがヤンの部屋を覗いた。この弟は部屋のドアを閉めるということをしない。だから部屋にいるとすぐに分かる。性格と同じようにドアまで開けっぴろげだ。
ヤンが気配に気づき振り返った。
「珍しいね、家にいるなんて」
兄を気取って努めて感じよく話しかけてみる。何だか白々しい。
「ジュールにね、何か新しい本をと思って」
ヤンが本棚を眺めながら言う。
「あいつ、読むのが速いんですよ。呑み込みもいいし。こないだまでジュール・ヴェルヌを読んでいたと思ったら、今度は『三銃士』を読んでるんです。あ、でも辞書が欲しいなんて言ってたな」
ヤンは本棚から辞書を抜き取った。
「楽しそうだね」
「楽しいですよ、兄さんも一度来てみればいい。感心しますよ」
フレデリックは鼻で笑った。心の中でヤンに話しかける。わざわざ足を運ぶまでもないよ。僕の部屋からは森番の小屋がよく見える。お前が家で着換えをしている間にあの子は川で水浴びをしているだろう。人目を避けているつもりだろうが僕の窓からはその姿が見え隠れするんだよ。きれいだね、あの子の身体は。絵から抜け出したようだ。
「可笑しいですか?」
ヤンが訝し気な顔をした。
「いや、うまく飼いならしたものだと思ってね」
「飼いならすだなんて、犬じゃないんだから」
「言葉が悪かったね。じゃ、うまく懐かせたものだ」
「そういうつもりでは、」
「あの子が来てそろそろひと月だろう。もうすっかりここの生活にも馴染んでいる様子じゃないか。なのにお前はいつまであの小屋で寝泊まりしているつもりなんだ」
いきなりそう言われてヤンは少しひるんだ。
「それは……」
「これ以上親父と母さんの仲をこじらせないでくれ」
「分かってます」
「それとも、あそこにいたい別の理由でもあるのか」
「え?」
フレデリックは皮肉な笑みを浮かべて独り言のように言った。
「……ひょっとして、飼いならされたのはお前の方かな」
ヤンは返す言葉が見つからなかった。フレデリックは弟を見て冷たく笑った。
「たかが下男に近づきすぎるのもどうかと思うがね」
そして部屋を離れざま、思い出したように言った。
「ああ、そうだ、『椿姫』なんかどうだい。よかったら僕の部屋にあるよ」
ヤンはその日のうちに小屋の寝床を引き払った。二人は古ぼけたマットレスを小屋から引きずり出した。
「一人にして悪いな。必要もないのにいつまで泊まってるんだって、兄貴がうるさいんだよ」
「ううん。一緒にいてくれてありがとう。心強かった」
「食事もちゃんと家でしろって。使用人と飯を食ってるなんて非常識だとさ」
「そりゃそうだよ」
「おれはここの方がよかった。キャンプみたいで楽しかったんだけどな」
ヤンはつまらなそうに言った。
「ジュール、これからはオスカーたちと一緒に食べるんだよ。他の人間とも仲良くなるさ」
ジュールは初めて使用人たちと屋敷の台所で夕食をとった。執事に女中に料理番に御者、馬小屋の番に庭師。一体何人の使用人がいるんだろう。見慣れないジュールを御者のジャンがじろじろ眺めた。
「お前だな、フェルナンの代わりをやってるって奴は。フェルナンがいないもんで坊っちゃんはお前を遊び相手にしてるってわけか」
そう言ってジャンは笑った。
坊っちゃんの遊び相手。はたから見ればそういったところだろう。兄でもなければ友達でもない、彼は屋敷の主人の息子なのだ。ヤンとの間にもっとそれ以上の何か特別なものが通っているような気がしていたジュールはなんとなく気落ちした。身分とか立場とかいう境界線をはっきり引かれたような気がした。
小屋へ戻って来ると、公爵がジュールのそばにやって来て切ない声でうなった。ヤンがいなくなっただけで小屋の中は急にがらんと殺風景になった。ジュールは猟犬のまだら模様の毛を撫でながら言った。
「デュック、お前も淋しいか」
ベッドの中でジュールは寝返りを打ち、ふと床に目をやった。いつもマットレスの上で気持ちよさそうに寝ていたヤンの姿はもうない。ジュールは窓の外へ目を向けた。
ヤンはもう眠っただろうか……。
アプリヴォワゼ [仏] : 飼いならす 手なずける
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