故郷(最終話)①

 駅を出てからはひたすら歩いた。田舎の風は透き通って冷たい。ジュールは手に息を吹きかけ、コートの前をしっかり合わせるとまた旅行鞄を持って歩き出した。ヤンのお古の鞄はついにこんなところまでついてきた。あの時ヤンが買い戻してくれた三つ揃えもやっと役に立った。


 一本道を歩いて行くと村が見えてきた。赤い瓦屋根の石造りの家がポツポツと並んでいる。畑と家畜小屋が見える。土と動物の匂いがする。自分の育った村だ。ここへ来て急に、昨日パリを発ったことが遠い昔のように感じた。ジュールは少し身震いした。冷たい風のせいではなかった。


 最初に父と母の墓に行った。

 墓標の前にしゃがんで、そこに刻まれた名前を見つめた。母の名前に並んで父の名前が刻まれている。エリック・ベルジェ。本当の名を名乗らぬまま死んでいった父……。


 墓の前で少し躊躇した後、覚悟を決めて家へ行くことにした。そのためにここまでやって来たのだ。


 家に着くまで誰とも会わなかった。みな昼食の時間なのだろう。

 村外れまで来ると、一軒の古い小屋の前で立ち止まった。


 ジュールの家──。


 この取り残されたようなボロ小屋が自分の家だった。恐る恐る近づいてみると、扉は傾いて外れかけている。窓ガラスはひびが入っている。よくもこんなひどい家に住んでいたものだ。窓からそっと中を窺ってみた。誰かが住んでいる気配はなさそうだ。


「そこにいるのは誰だね?」


 ふいに背後から声がして心臓が飛び出るかと思った。息を止めてゆっくりと振り返ると、少し離れたところに教会の神父が目を丸くして立っていた。


「ジュール? ジュールなのか?」

「神父様」


 神父は急ぎ足でそばへやって来た。


「さっき墓地に見慣れない人影がいたので後をつけて来たんだよ。まさか君だとは。ジュール、元気そうじゃないか。おやまあ、こんなに大きくなって。しかもまあ、こんなに立派ななりをして」


「……しばらくでした……」


 それしか言葉が出て来ない。日曜日に子供たちを集めてオルガンを弾いていた初老の神父は、昔より少し貫禄がついた気がする。


「……帰って来たのか?」


 神父が感慨深げな目で尋ねる。ジュールは答えあぐねてうつむいた。何をしに帰って来たのか、自分でもはっきり分かっていなかった。ただこの場所に帰らなければならないという思いに突き動かされて、ここまでたどり着いただけだ。


「ごめんなさい……急にいなくなってしまって」


 ジュールがやっと答えると神父は真面目な顔で首を振った。

「君が謝ることなど何もない。……中に入ってみるかい?」


 神父はジュールを促すと壊れかけのドアを開けて家に入った。



 ジュールは家の中を見回した。父と暮らした記憶がいっぺんに蘇る。何もかもあの頃のままだ。まるで時が止まったように。


 神父はテーブルに近づき埃だらけの椅子に腰かけた。父がいつも座っていた場所だ。


「……君に何があったのか、村の人たちはみんな知っている」


 重たい口調で神父がそう言った。ジュールはハッとして咄嗟に神父を振り返った。


「辛かったね、ジュール」


 神父はテーブルにひじをつき、手を組んで目を伏せた。

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