ふたつの心⑤
「おい、あっちの客がお前に用があるってよ」
ギャルソンの一人が奥の客席をあごで指して言った。ジュールはうんざりした顔で頷いた。どうせまた卑猥な言葉をかけられるんだろう。今度は何と言い返してやろうか。そう思いながら言われた席に近づくと、下を向いていた客が顔を上げた。
ジュールは驚いて目を見張った。
「先生──!」
「ジュール。……元気かい?」
ギヨームはジュールをまじまじと見つめた。
「こんなにやつれて……」
「先生、どうしてこんなところに。ここは先生の来るような店じゃないですよ」
「私はどこにだって行くよ。美形のギャルソンがいるという噂を聞いたもんでね。悪い癖がまた出てしまったようだ」
ギヨームはフフッと笑った。
「そしたら君だった」
ジュールは戸惑いを隠せなかった。ギヨームに会えたことに対する安堵と嬉しさの半面、逃げ出したいほど恥ずかしい気持ちになった。だが落ち着き払ったギヨームの顔を見てジュールは悟った。これは偶然じゃない。先生は僕がここにいると知って、僕に会いに来たのだ。でもどうやって?
──まさか……。
客が引けた後の午後三時、二人は隅のテーブルに向かい合っていた。
「大学へは、行かないつもりかい?」
ギヨームが尋ねた。ジュールはうつむいて首を振った。
「すまなかった、ジュール。私のせいだ」
「先生のせいじゃありません。僕は先生を利用した、だから、報いを受けるんです。エレーヌの、いや奥様の仰ったとおりです。……所詮、自分に不相応なことなど、望むべきじゃなかった。すべてが、僕の高望みだったんです」
「そんな言い方をするんじゃない。私が君を引きずり込んだのだから。そんな風に卑屈になられると私も辛くなる。だが、エレーヌのことは恨まないでおくれ。責めるなら私を責めておくれ」
「やめてください。僕は感謝こそすれ先生を責めることなんてできません」
ジュールは少し息を呑んで、それからこう続けた。
「僕にはもうはっきり分かったんです。誰のせいでもない。僕は、こういう風にできているんです」
「え?」
ジュールは口の端を歪めた。
「僕は、幸せになれないんだ。そうできているんです」
「どういう意味だい?」
ジュールはテーブルの隅に目を落とした。
「何かがうまく行き始めたと思った瞬間、どこからか手が伸びてきてぶち壊される。過去のことに足を引っ張られて、溺れてしまう。昔からそうだ。過ぎたことに囚われ続けるんです。誰かが救い出してくれてもその先の道はきっと崩れてしまう。そう思うと怖くて動けなくなるんです。……僕は、そういう風に、できているんです」
そう言ってジュールは力なく笑った。何もかもあきらめてしまったようなその悲しい笑いにギヨームは心が締めつけられた。
二人は向かい合ったまましばらく黙っていた。テーブルの上の小さなコーヒーカップは底に飲み残した黒い液体が乾き始めている。
「……では、絶ち切らなければね」
ギヨームが口を開いた。
「君の足元に絡みついているその鎖を絶ち切ってしまわなければ、先には進めないだろう。君が囚われる過去を断ち切ってしまわねば」
ジュールは弱々しく首を振った。
「僕には分かりません。そんなことができるのか。多分、できないからこうしているんです」
ふむ。ギヨームは目の前の若者をじっと見つめた。自分が心から愛した宝物は、今その輝きを失ってしまっている。まるで生きながら死んでいるような目をしている。悲しいかな、もう自分には彼を支えてやることはできない。
しかし、たった一歩を踏み出す後押しをしてやることはできないだろうか。本当に彼に必要なものは、慰めではない。優しい言葉でもない。
ギヨームはゆっくりと口を開いた。
「もしも、絶ち切ることができないなら、」
ギヨームは穏やかに、かつきっぱりとした口調で言った。
「正面から向かい合うしかないよ。ジュール」
家に帰るとヤンは机に向かっていた。ジュールの気配を感じると背中でお帰りと言った。
「今日、先生が、店に来たよ」
「……そう」
驚かないんだね。ジュールは思った。いつもは頼もしいヤンの背中が、今夜は心もとなく見える。彼は辛かったのだ。この気丈なヤンがギヨームにすがりつくほど、僕は彼を苦しませていたのだ。それなのに、まるで
「……すまなかった」
ジュールは小さく声に出した。ヤンは何も答えなかった。
翌日、家にいたジュールのもとにギヨームから金と推薦状が届いた。短い手紙にはこう書いてあった。最後のおせっかいを許しておくれ、と。推薦状にはギヨームの心からの言葉が並んでいた。ありきたりな文面ではなく、愛情のこもった、心からの推薦状だった。ジュールは読みながら涙のこぼれるに任せた。
手紙を書いているとドアをノックする音が聞こえた。ジュールは近づいてそっと鍵を開けた。
すると急にドアが大きく開いた。
「いやあ、春近しといえども今日は冷えるね。パリに用があったからついでにお前の顔を見ようと思って来てみたん……、」
入って来た人間はジュールを見て息を呑んだ。
「ジュール! どうしてお前がここに……!」
「……旦那様……!」
ベルナールはその場に鞄を落とした。ジュールは弾かれたように大きく後ずさった。しばしの間二人は見つめ合いながら呆然とそこに突っ立っていた。
その日、ヤンが帰宅するとジュールの姿は消えていた。ジュールの一切の荷物がなくなっていた。代わりにベルナールがジュールの使っていたベッドに座ってヤンを待っていた。
ジュールはうずらの店も辞めていた。こうして彼は突然いなくなった。ただ一通の書きかけの手紙がヤンに残されただけだった。
『ヤン、
僕は自分の太陽を見失うところだった。
向かい合うことにしたよ。過去に、現在に、そして未来にも。
君をたくさん傷つけ、苦しませたこと、どうか許してください。
君を本当に失くしてしまう前に僕は自分から去る。
ただ、お願い。これだけは覚えていて。
僕は、君のことを……』
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