ふたつの心④

 ジュールはその晩戻って来なかった。どこをほっつき歩いていたのか、朝がた凍えながら帰ってきて黙って自分のベッドにもぐり込んだ。


 それからというもの、ジュールはヤンと視線を合わせるのを避けるようになった。


 自分にできることはもう何もない──。

 ヤンは思った。ジュールは心を閉ざしてしまった。おれの顔を見ると身構える。繕おうとしたほころびはかえって取り返しがつかないほど大きくなってしまった。

 こんなはずじゃなかったのに。大切な恋人と、ただ一緒にいたかっただけなのに。


 ──あの人に会ってみよう。


 ヤンはそう考えた。恥を忍んであの人に話してみよう。自分の知らないジュールを知っているあの人に。ジュールが心から慕っていた、「先生」という人に。



 学校の前でマチルドを待った。女中がやって来てマチルドの手を引いた。ヤンはその後ろから声をかけた。女中が不思議そうな顔をして振り返った。


 玄関のホールで待たされていると、五十に手が届くかと思われる紳士が現れた。「先生」だった。目が合った瞬間、ヤンの体に小さな稲妻のような緊張が走った。


 ギヨームは目の前に立っている青年を見ると目を細めて言った。


「やあ……。君がヤンか……」

「……はい」

「入りなさい」


 ヤンはギヨームに続いて中へ入った。まるで初めて会う人間に返せない借金を頼みに行くような心地がしていた。


                  ✽


 突然の訪問者をギヨームは居間へ通した。向かい側に座ったヤンをじっと眺めた。真剣な顔つきでやって来たこの青年になぜか好感を持った。

 意思のはっきりとした明るい茶色の瞳。筋の通った鼻。引き締まった口もと。なかなか気の強そうな男だ。だがそれでいて柔らかみがある。精悍であると同時に優しさがある。人を惹きつける輝きがある。

 なるほど、太陽のような人だな。ジュールの言ったとおりだ。ギヨームはヤンを見つめながら微笑んだ。ただ、今はその顔には暗い雲が漂っているようだが──。


「……ジュールを、助けて下さい」


 ヤンは苦しそうに切り出した。

「僕では駄目なんです。もう、僕の言うことは、彼には届かない」


 ヤンはギヨームに語った。ジュールが全て失ってヤンのもとへやって来た日。大学をあきらめてしまったこと。日ごとに募る彼の本当の苦しみに気づくのが遅すぎたこと。すれ違い、離れてしまった、ふたつの心。


「野良猫のような目で僕を見るんです」


 ヤンは言った。

「威嚇するような、それでいてひどく怯えているような。まるでこれ以上近づくなと言いたげな目で。僕は彼のあんな目を見たことがなかった」


「……野良猫の目ね」


 ギヨームはフフと笑った。


「可笑しいですか」

「いや、そうじゃない。私も彼のそういう目を、見たことがあるもんでね」


 ヤンはそう言って微笑むギヨームの目尻の皺を見つめた。ジュールがギヨームと過ごした月日を思った。この人は自分の知らないジュールを知っている。今更ながらそう身に沁みて感じた。そしてそんなギヨームにかすかな嫉妬さえ覚えた。


「……あいつは誰かが支えていないと立っていられない。なのに支えようとすると牙をむく。それが僕は歯がゆいんです。……僕が何の役にも立たないことが、悔しくてたまらないんです……」


 うつむいて唇を噛むヤンを見てギヨームは深く頷いた。分かったよ。君の気持ちはよく分かった。


「……あの子を愛するのは、並大抵のことではないね」


 そう言ってギヨームは淋しそうに笑った。

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