ふたつの心③

「なぜおれに嘘をついた?」


 部屋に入るなりヤンは厳しい声でそう言った。


「え?」

「今日見たことのない男が来たよ。おれに会いにね。あんたの従弟がいつまでも払わないから慰謝料を立て替えてくれと言ってきたよ」


 ジュールは絶句した。今日店に現れなかったと思ったら、よりによってここに来ていたなんて──!


 ヤンは腕を組んで長椅子に座ったまま、テーブルの上の紙をあごで指してみせた。そこには、残金三百七十フラン、確かに受け取りました。これを以って慰謝料六百フラン完済。と書いて、日づけの下に誰かのサインがしてあった。


「払っておいたよ。ピアノのレッスン料が入ったからちょうど持ち合わせがあってよかった。念のために受取を書かせたからもうこれ以上は何も言って来ないだろう」


 ヤンは静かな声で言った。ジュールは紙に目を落としたまま小さく震え始めた。ヤンの顔を見るのが恐ろしくて顔が上げられなかった。


「説明しろよ、ジュール。なんでおれに嘘をついた? 六十フラン? とっくに払い終わっただと? とんでもない、まだこんなに残ってたんじゃないか。しかも六百フランなんてべらぼうだ。なぜもっと前におれに相談しなかった?」


 ジュールはコートを脱ぐこともできずただ突っ立っているだけだった。体はどんどん震えるばかりで、止めようとしても止まらない。


 ヤンは埒が明かないという風に立ち上がってジュールのそばに寄った。ジュールはおびえた様子でさらに顔を伏せた。


「……怒ってるの……?」

 かすれた声でようやくジュールが口をきくと、ヤンはまっすぐにその顔を覗き込んだ。


「ああ、怒ってるね。金を払わされたことにじゃない。君がおれに嘘をついていたことにだよ。どうして本当のことを言ってくれなかった」

「だって……これは、僕の……問題だから……」


 ヤンは眉をひそめた。

「なんだよそれ。一緒に暮らしてて、君とおれの間で、どうしてそんな他人行儀なことを言うんだ。もっと早く相談してくれれば金額だって支払いだって、もっとマシなやり方があったのに」

「責めないで、お願いだから。迷惑、かけたくなかったから、一人で何とかしようと、そう思って……」


 ジュールがどもりながら言うとヤンはため息をついた。


「で、君は嘘をついて、払いきれなくて、結局おれが払って、そういうことか。ずいぶん建設的なやり方じゃないか」

「こ、これからは君に返す。本当は家賃だって払いたかったんだ。今日、給料貰ったから」

 ジュールはポケットから百七十フランを出すとテーブルに置いた。


「そんなことを言ってるんじゃない!」


 ヤンは苛立って思わず声を荒げた。ジュールは反射的に目をつぶった。

 嫌な沈黙が流れ、ヤンは大きくため息をつくとテーブルを離れた。ジュールは恐る恐る目を開いた。


 ヤンは窓辺に向かって低い声で言った。


「おれはてっきり君が貯金してると思い込んでた。この先のために資本を作ってると思ってた。じゃあ要するに君はいまだに一文無しってわけだな。だったらなおさらそんな金を受け取るわけにはいかないよ。それより、嘘をついて悪かったのひと言もないのか。ひとに金を払わせておいてありがとうのひと言もなしか」


 ジュールは黙ってうつむいた。


 ヤンは振り返ってジュールに向き直った。

「ちょうどいい。この際はっきりさせよう。先のことをちゃんと話そうじゃないか」

「先のこと?」

「大学のことだよ」


 大学という言葉を聞いた途端ジュールは身構えた。


「なんだよ、やぶから棒に。そんな話、今しないでくれよ」

「君がいつもイライラしてやけくそな態度で生活している根本的な理由は、すべて大学をあきらめたことにあるわけだろ。おれにはそれぐらい分かる」


 テーブルの金を見つめているジュールの眉間がみるみる曇っていく。


「だからそこをはっきりさせようよ。もうすっかりあきらめてしまったのか」

「だって、僕は、働くって決めたんだもの」

「で、その結果どうしてる? ただ自分を消耗してるだけじゃないか。それで満足なのか? お前が心から笑ってるところなんてこの数か月見たことがないよ」


 ジュールは口をつぐんだ。


「本当のことを言うよ。大学をあきらめるなんて、おれには君が自分をだましてるようにしか見えない。その証拠に本なんか一冊も読まないじゃないか。昔あんなに夢中になってたくせに」

「一日中働いてるんだ、読む時間なんか、」

「ごまかすなよ。辛くなるからだろう」

 図星を突かれた。

「辛くなるのは未練があるからだろう」


 ジュールは遮るように首を振った。

「やめてくれよ。こんな話したくない」

「本心をぶちまけろよ。正直に言えよ、大学に行かなかったことを悔やんでるって」

「悔やんでなんかない」

「悔やんでるだろう。だいたい君は何のために働いてるんだ。慰謝料のためか。おれに払う家賃のためか。馬鹿馬鹿しい。今の君はやけになって自分で自分に八つ当たりしてるだけだ。やりたいことのできない苛立ちを自分にぶつけてるだけだ」

「もうやめてよ」

「これじゃ逃げてるのと同じだ」 

「逃げてる?」

「逃げてるじゃないか。自分と向き合おうともせず、建設的に先のことを考えようともせず、本当の気持ちから目を背けて」


 ヤンの言うことは残酷なほど的確だ。ジュールはやりきれなくなって唇を噛んだ。


「……ジュール、おれは悔しいんだよ。君みたいに優秀な人間があんなブラッスリーで働いて人生を棒に振ろうとしているのがさ。君には勉強する権利があるんだ。一体何に遠慮してるんだ。誰に遠慮してるんだい。もっと図々しくなれよ。自分のために生きろよ。今度は大学に登録して、自分のために好きな勉強を続けろよ」


 ジュールは首を振った。

「どうせうまく行かない。行きっこない」

「なんでそう悲観的になるんだ」

 

 ヤンはため息をついた。


「おれはね、君が縛られてるものを断ち切って欲しいんだ。楽になって欲しいんだよ。そんな風に感情的になって考えちゃ駄目だ」


 ジュールは何かをこらえるようにぐっと口を結んでいた。が、顔を上げると悔しげな目でヤンを睨み返した。


「……じゃあ教えてくれよ。何をしに大学へ行くんだ? どんな顔して行けるっていうんだ? 自分を偽って、嘘をついて、人をだまして、傷つけて、そうやって手に入れた合格証書に、いったい何の価値があるっていうんだ?」

「だまそうが偽ろうが君の勝ち取ったものに変わりはないだろう」

「あんなもの僕には足かせでしかないんだよ!」


 ジュールが急に声を荒げた。その勢いにヤンは思わず口をつぐんだ。


 体じゅうを震わせながらジュールは言った。


「……金のこと……僕は謝らないよ……礼なんか言わないよ……。君が、勝手におせっかいを焼いただけだ……。僕は償ってるじゃないか。自分の人生をちゃんと償ってるじゃないか。だから、これ以上僕を惨めにしないでよ。君の言うことはいつも正論だ。正論すぎて息が詰まる。なんでも割り切ったみたいにはっきり言って。言うのは簡単だよ、僕の気持ちなんか知りもしないくせに。逃げてる? その通りだよ。考えたくないだけだ、もう何にも考えたくない。どうしたらいいか分からないから苦しいんじゃないか。理屈どおりに行かないから悔しいんじゃないか。数式のように答えが出るものなら、僕はもうとっくに楽になってるはずだ! 君だって、正直に言えないことがいくらだってあるくせに。なんだよ、従弟従弟って。自分が囲ってる愛人だって言えよ。面倒ばかりかける迷惑な愛人だって言えよ!!」


 その言葉にヤンは唖然とした。

「何言ってるんだ。どうしちゃったんだお前」


 自分が口走ったことを後悔しながらも、ジュールはもう引き返せなくなった。


「もう沢山だ……! 僕を憐れむな!! 助けようとなんかするな!!」


 今まで聞いたこともない声で怒鳴ると、ジュールはドアを乱暴に閉めて出て行ってしまった。


 ヤンは毒気に当てられて瞬きしながらその様子を見ていた。テーブルの上には百七十フランが放り出されたままだ。ヤンは力なくテーブルに近づくと散らばった硬貨を寄せ集めた。


 ──僕を憐れむな!! 助けようとなんかするな!!

 ジュールの言葉が耳にこだまする。


 ──こいつは野生のウサギです。飼いならすことはできません。

 急にフェルナンの言葉が浮かんできた。


「──畜生!」


 やり場のない憤りに震えながら、ヤンはこぶしをテーブルに叩きつけた。



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