迷える者③

 十月に入って休暇の終わった学生が戻って来ると、アパートは急にざわざわと賑やかになった。大学が始まり、ヤンも朝早くから家を空けるようになった。


 臨床研修で病院に通っているかと思えば、教授の研究室に呼ばれてみたり、はたまた大学の図書室にこもってみたりと、一体どこで何をしているのか分からない。そもそも彼が勉強している具体的な内容など聞いたところでジュールに分かるはずもない。ただ忙しそうだ、大変そうだということだけが、夜中も机に向かっているヤンの背中や、日ごとに机の上に積み重なっていく本や書類の束で見て取れるだけだ。


 それでも彼は活き活きしている。目の前にはっきりとした目標がある人の眼をしている。ジュールにはそれがなんだかとても眩しく感じる。


 挨拶程度だが、アパートの住人たちとも顔見知りになった。特に同じ階に住んでいる学生とはジュールが仕事に出る時によく顔を合わせた。

 一つの階に部屋は二つ、左右に振り分けられている。ヤンのアパートは左で、右はこのエティエンヌという学生のアパートだ。


 その朝もジュールがドアの鍵を閉めている時に彼も部屋から出て来るところだった。


「君はあの角のブラッスリーで給仕をやってるだろう」


 いつもの挨拶の後で、エティエンヌはさりげなくジュールに話しかけた。

「噂になってるよ。うずらの店にきれいなギャルソンがいるって」


 エティエンヌはヤンと同じぐらいの年齢に見えた。ジュールは何と答えればいいのか分からず、ただ、そうですか、とだけ相槌を打った。


「大変だろうね、あの店で働くのは。客層が悪いだろう」


 エティエンヌは特別同情するような様子もなく客観的な口調でそう言った。ええ、まあ。ジュールはまた曖昧な返事をした。



 二羽のうずらは、昼と夜は食堂、そのほかの時間は居酒屋という、至極大衆的なブラッスリーだった。そして、エティエンヌの言う通り、決して客層がいいと言える店ではなかった。


 来るのは安くて腹いっぱいになる食事を目当てに来る学生や労働者階級の人間がほとんどだ。銅製の長いカウンターにはその日の仕事にあぶれた人間が朝から鈴なりになり、酒をあおりながら雇用主やブルジョワの悪口をねちねちと繰り返している。夕方には出勤前の娼婦がアブサンを引っかけに来る。何の仕事をしているのか、一日中奥の方の席で黙って酒を飲み続けている男もいる。夜になると店の片隅で学生たちが熱い議論を交わし、別の片隅では仕事終わりの労働者がグラス片手にカードゲームに興じる。そんな場所だった。


 ジュールは働き始めた途端にこういった客たちの目に留まった。青白い顔で大人しく働くジュールは客たちの格好のからかいの的になった。

 朝から目のすわったカウンターの客はジュールの後ろ姿を見ながらこう言う。よう、マドモアゼル、色っぽい腰つきしてるな、どうだ俺と一回? カウンターからどっと笑いが起こる。

 テラスに陣取った娼婦たちはこう言う。お兄さん、仕事が引けたらあたしといいことしない? あんたなら安くしてあげるわよ。

 そんな様子を横目で見ながら学生たちは聞こえよがしにこう言う。おい、勘定が間違ってるぜ。ぼったくるつもりか。それともお前、足し算もできないほどおつむが弱いのか?


 ジュールは感情を表に出さないようにしてやり過ごした。悪乗りをした客に抱きつかれても、一人で奥の席にいる客からさりげなく尻を触られても、意地の悪い学生に足を引っかけられても、ジュールは黙っていた。どんなに腹が立っても胸の中に収めた。ポワレさんの口利きがある手前、簡単に放り出すわけにはいかない。六百フランを返済するためにも金を稼ぐしかない。何より、ヤンとの約束がある。


 うずらの店で働くことになったと言った時、ヤンは少し眉を曇らせた。だがすぐにいつもの顔になって、じゃあおれと約束してくれ、と言った。


「何があっても、手を出しちゃ駄目だ。何があっても喧嘩はしない。いいね」


 ヤンはジュールがどんな環境で働くことになるのか見越していたのかも知れない。



「そう言えば今晩はそっちにお邪魔するよ」

 ジュールがぼんやりしている間にエティエンヌが話題を変えた。


「住人の間でね、たまに寄り合いをするんだよ。意見交換みたいなものかな。今夜はツベルクリンの使用についてのコッホ教授の見解と臨床での問題点なんかについてね。ヤンが参加すると基礎医学の話が聞けるからとても興味深いよ」


 何のことだかさっぱり分からなかった。そんな集まりがあるというのも聞いたことがなかった。


 ヤンは教授たちのシュシュだよ、とエティエンヌは言った。

「お気に入り、ですか」

「彼は優秀だからね、教授たちはみんな自分の助手にと喉から手が出るほど欲しがってるよ」


 ジュールはその時までヤンが医学部で一目置かれていることを知りもしなかった。本人は島流しなどと言っていたが、ドイツで基礎医学をみっちり勉強してきた彼はむしろ箔をつけて帰って来たようなものだった。

 大学病院も彼を欲しがる。研究所も彼を欲しがる。まだ学位も取らないうちからこんなに注目される学生はいないだろうね。エティエンヌはまるで自分の身内の自慢でもするような調子で言った。


「君、従弟なのに意外と知らないんだね。まあ、親戚なら逆にそういうものかな」


 屈託なくそう言ったエティエンヌの言葉にジュールはドキリとした。


 他の人が知っているヤンを、僕は知らない。彼のことを誇らしいと思う気持ちを、先にエティエンヌに取られてしまったような気がした。

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