迷える者②
しかしそれからのジュールの日々は困難の連続だった。二週間ほどの間に彼は仕事を転々とした。壁塗り、ポスター張り、その他色んな日雇いの仕事もやった。しかしどこも続かなかった。どんな仕事をしても余計な考えが頭をよぎり、そのせいでつまらない失敗ばかりしでかし、もう来なくていいと言われる始末だった。
仕事を見つけてはクビになり、日銭を数えてはため息をついているジュールを見ていると、ヤンは心配でたまらなかった。こんな生活をさせるより大学に行かせたかった。今ならまだ間に合う。金なんか後でどうにでもなる。そう言って何度も勉強を続けることを勧めてみた。
しかしジュールはかたくなに首を振り、もうその話はしないのだと意固地になるだけだった。ヤンは心の中でため息をついた。彼は強迫観念にとらわれるように金の心配をして、勉強とか大学とかいう言葉に耳を塞いでしまう。一度決めたことにはおそろしく頑固だ。これはもう時間が解決するほかない。考えを変えてくれるまで待つしかない。
ジュールが金に固執するのには理由があった。
レストランでの一件の後、店主の側から請求書を見せられたジュールは頭を抱えた。
六百フラン。
それが請求金額だった。ヤンのアパートの家賃にすると半年分ほどはある。無一文の自分にそんな金額が払えるわけがない。店主はヤンを見てここからふんだくれると思ったのだ。
ヤンに請求のことを尋ねられた時、ジュールは本当の金額を答えなかった。言えばヤンが都合をつけて払ってしまうに違いないからだ。彼にはもう迷惑をかけたくない。自分のしでかしたことは自分で片をつけたい。それで六十フランだと答えた。これなら自分一人の力で何とかなる、大丈夫だと言ってごまかした。ヤンは特別に疑う様子も見せなかった。
月に百フランずつ払えば半年で終わりにできる。しかしクビになるばかりの毎日でどうやってそんな金が捻出できるのか。ジュールは毎日そんなことばかり考えていた。
──ああ、これならあの店主の言いなりになっておけばよかった。ルネの店でならそれぐらい軽く稼げたのに──。
ふとそんなことを思ってからジュールは身震いした。こんな風に考えるなんてどうかしている。もう行き詰まっている。いっときの怒りに身を任せて馬鹿なことをした報いだ。
そんな時、中庭でポワレ夫人と顔を合わせた。
「ちょっとあんた、」
ポワレ夫人は箒を手にしたままジュールを呼び止めた。
「さっき来ていた男の人、あれは何だい? 怖い目をして。あんたまた妙なことに巻き込まれてるんじゃないだろうね」
夫人の言っている男とは支払いの催促に来た店主の使いだった。二週間分の収入を皆やってとりあえず追い返したが、この調子ではヤンのいる時間にまで来てしまいそうで怖かった。ヤンは休暇中も週に何日か研究室へ通い、知り合いの子供にピアノを教えたりもしている。彼が留守の時はいいが、夜にでも来られたら嘘がばれてしまう。
「いえ、なんでもありません」
ジュールが答えると、ポワレ夫人は腰に両手を当て、ふんぞり返るようにしてジュールを見上げた。
「ここの住人はみんな医学部の学生さんだ。将来は立派なお医者さんだと思えばこそ、夜遅くなろうが女を連れて帰って来ようがあたしは目をつぶるのさ。ルグランさんなんかね、女ひとり連れ込んだことのない優等生だよ。なのに親戚のあんたがゴタゴタを起こしてどうするんだい。毎晩遅く帰って来るかと思えば、今度はひとの鼻折って治療代払わされるなんて愚の骨頂だよ」
ジュールはギョッとした。いつの間にかそんなことまで知っている。まさか金額のことまでは知るまいが、この人にかかってはいつ何がヤンの耳に入るか分からない。
夫人は胡散臭げな目をして続けた。
「だいたい昼間っから家にいて、あんた仕事はあるのかい?」
「いえ……それが……」
ジュールが言葉を詰まらせると、夫人はじろじろ見ながら何か考えるふうだったが、それから少し勿体ぶった口調でこう言った。
「『二羽のうずら』へ行ってごらん」
「うずら?」
「この先にあるブラッスリーさ。ギャルソンが一人辞めるもんで、誰かいい人がいたら頼むって言われてんだ。あんたに面倒を起こさない自信があるなら行ってみたらどうだい。あたしから聞いたって言やあ話は早いよ」
ジュールは礼を言うとすぐその店へ向かった。何度か前を通ったことのあるブラッスリーで、看板の文字が剥げかけている古い店だった。
ポワレ夫人の紹介だと告げると、店主は口ひげをしごきながらジュールを眺めた。
「うちの給料は分配制だ。お客から貰ったチップは一旦こっちで全部預かる。それを月末にまとめてギャルソンに給料として分け与える。年功序列だからお前さんにはちょっと分が悪いかも知れないが、まあ月に百五十フランは稼げるだろう。それでよかったら明日からおいで」
こうして仕事は決まった。
ジュールは心ひそかに事情通の門番女に感謝した。
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