迷える者①

 翌日、二人は連れ立ってヴァンセンヌの森へ出かけた。空は高く、木々も草も芝生も優しい光に包まれている。広大な緑がどこまでも広がる。

 こんなに広いとは思わなかったよ、とジュールが嬉しそうに声を上げる。歩けど歩けど道は続く。家族連れや夫婦を乗せた馬車が後ろから追い越して行く。


 かなり奥まで進んだところで二人は道を外れて生い茂る木々の中へ入って行った。乾いた涼しい風が二人を包んだ。


「君んちの森みたいだ。気持ちいいね」

 ジュールはまるで生き返ったように心から楽しそうな顔をしている。昨夜の沈みきった顔が嘘のようだ。

「フェルナンがね、感心してたよ。君が残してくれた生息動物の記録が役に立つってさ」

「ハハ、懐かしいな。そう言えばそんなことしてたね」


 木漏れ日が射して二人の姿が明るく照らされる。ジュールはさっきから木の枝を拾っては捨て、捨てては拾っている。何をやってんだい、とヤンが訊いたら、いいのを探してるんだ、と言った。そのうちいいのが見つかったのか一本の枝を手に持つと帽子を被り直してまた歩き出した。


「そうしてると本当に山羊飼いだな」

 ヤンが笑った。

「だって本当にそうだったんだから」

 ジュールも笑った。こんな風にしている方がジュールには似合うとヤンは思った。森の中や緑に囲まれている方が彼には似合う。ごたごたした窮屈な街で働いて体と神経をすり減らすなんて可哀そうだ。


 枝を振るとビュンと風を切る音がした。ジュールは一瞬だけ立ち止まって何か考え、すぐその枝を捨ててしまった。


 木々の間を抜けて進んでいくと、牧草地のような芝生がひらけていた。少し離れたところで家族がピクニックをしている。


 二人は芝生に寝転がった。空を見上げると木々の梢の葉が太陽の光できらきらと輝いている。葉と葉のこすれ合う音が波のようにざわめいている。


「こうしてると、なんだかあの頃みたいだ」

 ジュールが言った。

「あの頃って?」

「昔のね、ずうっと昔の、何も知らない頃。まだ、父さんと一緒にいた頃」


 ジュールは梢に目を凝らした。

「戻ってみたい。あの頃に」


 独り言のようにポツリと呟き、ジュールはふとヤンに目を向けた。


「あのね……。君にまだ言ってなかったことがあるんだ……。僕の……父さんのこと」


「うん?」

 ジュールは少し黙って、それから思い切って口を開いた。

 

「ドイツ人だったんだ、父さんは。プロイセンの兵隊だったんだよ」

「なんだって?」


 ヤンはぎょっとした顔でジュールを振り返った。それを見てジュールはフッと笑った。


「驚くだろう。普仏戦争の時にオルレアンにいたんだ。しかも脱走兵だ」

「確かなのか」

 ヤンが尋ねるとジュールは空へ向き直り、遠い目をした。


「確かだろうね。あの探偵の報告書は嫌になるほど正しかったから。それに、合点がいったんだよ。父さんのあの訛りとか、右肩にあった怪我の痕とか、フランスの昔話や童謡をまるで知らないこととか、そういう一つ一つのことがね。

 ──僕ね、覚えてるんだ。昔のことを訊いた時、父さんは一度だけこう答えたことがある。父さんは青い服に角の生えた帽子をかぶった兵隊だったんだ、って。それを聞いて僕はまた法螺だと言って笑った。父さんはひっそりと笑って、冗談だよって言っただけだった。もしかしたらあの時父さんは本当のことを言おうとしてたのかも知れない。僕が茶化したせいでそれ以上言わなかったのかも知れない。今となってはもう何も分からない」

 

 ジュールはヤンに目を向けると皮肉に笑った。


「そういうこと。母さんは敵の国の男と結婚して僕を生んだんだ。きっと、何も知らずに。こんな話、どうせなら父さんの口から聞きたかった」


 そしてまた遠くを見て呟いた。


「……知りたくないことばかり、知ってしまうんだね、人は。これだけは守れると大事にしていたものまで、ある日突然、こうやってくつがえされるんだね。お前の信じているものなど全部嘘だ、確かなことなど一つもないんだって。僕は何かあるたびにそう言われているような気がしていた。それで、臆病になって、人を疑って、そのうち自分すら信じられなくなる。もう、何を守っていいのか分からなくなるんだ。

 ……ヤン、僕にはね、君のように確固たる自分なんてないのさ。何を信じればいいのか分からず、流されるままに生きて、明日の自分がどこにいるのかも分からない。まるで森の中をずっと迷い続けてるような感じだ。行くあてもなくただ彷徨ってる。僕には、自分が、そういう風に思える」


 ヤンは黙って聞いていた。ジュールの言いたいことは痛いぐらい分かる。十九という歳に似合わないほど、彼は色んなものを失い、辛酸をなめて生きてきたのだから。


 きっとジュールと自分の違いなんてほんの小さなものなのだろうとヤンは思っていた。ほんの少しだけ運命が味方しなかっただけで、こんなに大きく人生を変えられてしまうのだ。まるで、神様から忘れられた子どものように。


 それでも、とヤンは思う。


「それでも、君は幸せな子どもだ」


 突然ヤンの口から出た言葉にジュールは驚いた。

「どういう意味」

 思わず訊き返すとヤンはジュールへ顔を向けた。


「少なくとも君は、祝福されて生まれてきたんだ。人がうらやむほど深く愛し合っていた、二人の人間から……。だから、君は幸せな子どもだよ。それを忘れちゃだめだ」


 ジュールはその言葉に胸を打たれた。

 この事実を知って以来、記憶の中の父を別の色に塗り替えてはいなかっただろうか。自分の出生を汚らわしく思ってはいなかっただろうか。父に対する思いは、あんな紙切れで簡単にくつがえされる程度のものだったのだろうか。


 父の目尻の皺がまぶたの裏に浮かんだ。父さんは僕を傷つけまいとして何も言わなかった。それなら、僕も何も知らなかったことにしよう。僕は山羊飼いのエリックの息子。それだけでいい。それだけが全てだ。そんな簡単なことまで僕は忘れそうになっていたのか。


 梢には鳥の軽やかなさえずりが響いていた。二人はしばらく黙って空を見上げていたが、ふいにジュールが秘密を打ち明けるような口調で言った。


「ねえヤン、僕がたったひとつだけ信じているものを教えてあげるよ。これだけは守れるっていう、僕の最後の砦を」

「何だい?」

「それはね、……君への気持ちだよ」


 それを聞くとヤンは照れてクスクスと笑い出した。 

「何を言うんだよ急に」

 だがジュールは笑いもせず、寝返って空を見つめるとはっきりとこう言った。


「僕は、君を愛している」


 そして誓いを立てるようにもう一度繰り返した。

「何があろうと、僕はこれからもずっと、君を愛し続ける」


 それから目を細めてヤンを見つめ、誇らしげに微笑んだ。


「これだけはね、僕は自信を持って言えるんだ。それだけで、僕は生きていける」


 急に胸がじわりと熱くなってヤンは瞬きをした。こんなに素直にまっすぐ投げかけられた愛の言葉は、きれいな水のように心に沁み込んでくる。あまりにも透明で涙が出そうになる。傷つきながら自分の運命と闘ってきた彼の、最後の砦になれたことを誇りに思う。


「……おれもだよ、ジュール」


 ヤンはジュールを見つめ返して微笑んだ。向こうの方でピクニックをしている子供たちのはしゃぐ声が聞こえた。二人はその声に紛れるようにこっそりと口づけを交わした。


 それから並んで仰向けになり、空を見上げた。ジュールは手を伸ばしてヤンの手を捉えた。指を絡ませてその手に力を込めた。ヤンはその手を握り返した。


 二人は長い間そうしていた。


 思えば、それが二人の暮らしの中で、一番幸せな瞬間だった。

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