同棲⑤
知らせを聞いたヤンが急いで店にやって来たのは午前二時頃のことだった。帰りが遅いので心配していたところにポワレ夫人が血相を変えて部屋にやって来た。あんたの従弟がなんかやらかしたみたいだよ。警察が来てるってさ。おたおたする門番を押しのけるようにしてヤンは部屋を飛び出した。
店に着くとギャルソンや料理人たちが壁際のソファ席を取り囲んでいた。ソファ席には男が寝そべって血で染まったナフキンを顔に押し当てていた。店の反対側の丸テーブルにはジュールが青い顔をして座っていた。シャツには血のしみがついている。ヤンを見るとジュールはハッとして顔を上げた。顔にも血がついていた。
「ジュール、どういうことだ?」
ヤンが駆け寄ると、そばにいた警官が声をかけた。
「あんたこの子の身内かね」
「従兄です」
警官はジュールをあごで指した。
「何にも言わないんですよ。あんなになるまで殴りつけておいて黙ったままだ。これじゃ訳が分かりませんよ」
「訳なら分かってるだろう!」
壁の方から店主の声がした。
「いきなり掴みかかってきたんだ、給料が少ないってな! 口で言やあ分かるものを先に手を出すなんてとんでもない野郎だ!」
店主は鼻を押さえながら罵った。その顔は見るも無残に膨れ上がっている。
「あんたはそんな大声出さずに大人しくしてなさい。鼻の骨が折れてるんだから。明日にでも医者にかかるんですな」
警官は面倒くさそうに店主に言った。それからヤンに向き直った。
「治療費さえ払えば許すって言ってますんでね、あとのことは双方でなんとかやって下さいよ。こっちもいちいちこんな喧嘩の面倒を見るほど暇じゃないんだ」
「すみません」
「とにかく彼は引き渡しましたからね。私はもう失礼しますよ」
そう言って警官はそそくさと引き上げてしまった。店の人間たちは緊張が解けたのか互いにひそひそと話を始めた。
ヤンは店主に近づいて頭を下げた。
「ともかくも申し訳ありません」
店主は血まみれのナフキンの下からヤンをじろじろ眺めた。
「あんた従兄だって?」
「そうです」
「ブルジョワの若旦那がこんなドブネズミの従兄とはね。まあちょうどいいや。治療代はきっちり払ってもらいますよ。あ痛ててて」
店主はわざとらしく顔をしかめた。それからジュールに向かって怒鳴りつけた。
「てめえはクビだ! 言われなくても分かってるだろうがな!」
ジュールは唇を噛んでうな垂れているだけだった。
✽
「本当は何があったんだ?」
セーヌ河沿いの夜道を歩きながらヤンが低い声で言った。
夜更けの通りは静かで、橋の上の街灯が川面に映ってぼんやりとした明かりを水に滲ませている。夜間営業の馬車が音を立てて二人の横を通り過ぎた。
「給料が少ないから殴りかかったなんて嘘だろう。言ってごらん。一体何があったんだ?」
ジュールはずっとうつむいたまま、黙ってヤンの後ろを歩いていた。が、ヤンの問いかけにふと立ち止まると、河の方へ目を向けて低く呟いた。
「あいつを……殺してやりたかった……」
その言葉に振り返ったヤンは、ジュールの目に涙がきらめくのを見た。
「どうしてだろうね……どうして僕はいつもこうなるんだろう……」
ジュールは河堤の石垣にもたれかかり、とぎれとぎれに一部始終を話した。
「……僕は、まだそういう風に見えるんだ。結局そんな風にしか見えないんだ。あんなこと、もう何年も前の話なのに……もう、終わったと思っていたのに……」
目頭を押さえて弱々しく呟いたジュールの肩を、ヤンはそっと抱いた。
「大丈夫。君はそんな風になんか見えない。もう過ぎたことだよ」
そう慰めながら、ヤンの心の中には彼の言葉を否定できない悔しさがあった。
そう、彼はいつもこうなるのだ。すれ違う人が振り返るような美しい容姿を持ったばかりに、彼は下心を持つ人間に目をつけられてしまうのだ。そして弱い立場や従順な性格につけこまれ、今までだっていいように扱われてきたのだ。
ジュールの背中の傷跡を見るたびに心がうずく。ヤンの目にはそれが彼の背負ってきた過去の焼き印のように映る。
「お前、よくやったよ。あいつは鼻ぐらいへし折られて当然だ」
ヤンはやるせなさを紛らわせるようにわざと乱暴な口調で吐き捨てた。
「ごめん。君にまで迷惑をかけて」
まだ張りつめた顔でジュールが言った。
「気にするな」
ヤンはつとめて明るく笑ってみせると、堤から河を眺めた。ジュールも隣に並んだ。
二人はしばらく黙って河を見つめていた。
「なあジュール、」
ふいにヤンが口を開いた。
「明日、森に行こう」
「……え?」
「ヴァンセンヌに行こう。広い森があるよ。緑を見に行こう。森の空気を吸って、嫌なこと全部、吐き出してしまえ」
「……森か……」
久しぶりに聞く言葉にジュールの頬が少しだけほころんだ。それを見たヤンの頬もつられてほころんだ。よかった。やっと笑ってくれた。
「……晴れるといいね」
「うん……」
ヤンは小さく頷いたジュールを優しく抱き寄せると、脂の匂いのついたその髪に唇を寄せた。
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