同棲④

 その夜、厨房の人間がみな引き上げてしまった後で、ジュールは一人残って最後の片づけをし、床磨きをしていた。そこへふらりと店主が現れた。すでに酒が入っているのか鼻が赤い。店主は煙草をふかしながら、ネクタイを外したシャツに手で風を送った。


「暑いなここは。蒸し蒸ししやがる。お前は偉いね、ええ? 一日中こんなとこで働いてさ」


 店主は機嫌がよさそうだった。

 給料の話をするなら今だ。ジュールは前掛けを外すと店主に近づいた。


「あの……給料のことですが……どうか、約束の金額を頂きたいのですが」


 店主がじろりと見返した。機嫌が悪くなったのかとジュールはひやりとした。が、店主はその話を待っていたかのように訊き返した。


「俺はいくらと言ったかな」

「一日、六フランと……。頂いたのは、半分です」

 店主は笑い出した。

「ハハハ、これはとんだ手違いだな。じゃあ残りはすぐに払ってやるよ」


 安堵した表情を見せたジュールの背中に店主はさりげなく手を回した。

「心配するな。俺はちゃんと約束を守るんだから」

 そう言って汗で濡れたジュールのシャツを撫でまわした。


「汗びっしょりじゃないか。脱がないと風邪をひくぞ」


 まとわりつく手の感触に嫌なものを覚え、ジュールはそっと振りほどこうとした。しかし店主は反対に肩をぐっと抱くとこう耳打ちした。


「なんならこれからは一日八フランにしてやろう」

「え?」

「月二百フラン稼げば文句ないだろう。……ただし、条件がある」

「条件?」


 ジュールが訝しげな顔で見返すと、突然店主の目の色が変わった。煙草を投げ捨てるといきなりジュールを抱きすくめ、調理台の上に乱暴に押し倒した。


「何するんです!」

 驚いてもがくジュールの口を手で塞ぎ、店主は息を荒くしてこう囁いた。

「俺の言うことを聞くんだ」


 煙草と酒の匂いをさせながら店主は言った。


「お前はひとを妙な気にさせるんだよ。自分で分かってるだろ。なあ、べっぴんさんよ。皿洗いなんかより別の商売をした方が金になるぜ。俺の言うことを聞いたら月二百フランやる。どうだ、いい話だろう」


 ジュールは必死に店主の腕を逃れて後ずさった。店主はおもむろに厨房の明かりを落とすと酒の空き箱をジュールの目の前に置き、横柄な仕草で股を大きく開いて座った。そして声を潜めてこう言った。


「ここにひざまずけ。今ここで俺をよろこばせてみろ」


 体じゅうが震えた。薄明かりの中で見る店主はディディエと同じ顔をしていた。


「ほら、なに迷ってる。床にひざをつけよ。俺の言うことを聞け。そしたらすぐに金をやるよ。欲しいんだろ、金が」


 俺の言うことを聞け。俺の言うことを聞け。俺の言うことを聞け。

 今までに幾度も聞いたそのセリフが頭の中でこだました──。


 ジュールは黙って頷いた。

 うなだれたまま、店主の足の間にゆっくりとひざまずいた。


 ようし、いい子だ。気持ちよくしてくれよ。店主はニヤリと笑ってズボンを緩めた。


 しかしその瞬間、ジュールはそばにあった床磨きのバケツを手に取った。そしてその水をバケツごと店主に浴びせかけた。

 店主は水をかぶって後ろにひっくり返った。派手な音がしてバケツが転がった。


「ふざけんなあッ……!!」


 喉が千切れそうな声で怒鳴るとジュールは勢いに任せて店主の胸ぐらを掴んだ。

 

 物音に気づいて地下に降りてきたギャルソンたちが見たのは、水浸しの床の上で店主に馬乗りになり、力いっぱいその顔を殴りつけているジュールの姿だった。

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