同棲③

 数日のうちにジュールは仕事を見つけてきた。レストランで皿洗いをすることになったという。


「皿洗いだって?」

 ヤンは瞬きをしながらジュールの顔を覗き込んだ。 

「なんでまた」

 そんな仕事を、と言いそうになって言葉を呑み込んだ。

「本当にいいのか、それで?」

 ジュールは明るく頷きながら答える。

「これで金の心配はしなくてすむ。ヤンも喜んでくれよ。まっとうな仕事でお金が貰えるんだよ」


 まっとうな仕事か。ヤンは戸惑った顔で微笑んでみせる。内心は複雑だ。本当にこれでいいのだろうかと思う。でも彼が決めたことなら余計な口出しはすまいと自分に言い聞かせる。しかし……。


 それは週末の蚤の市でのことだった。


 着たきりスズメのジュールに着換えを買ってやるつもりで覗いた一軒の古着屋の前で、ジュールはあっと叫んで山積みになった服から三つ揃えを引っ張り出した。すぐそばには見覚えのある古い旅行鞄が置いてある。ヤンはすぐにそれが盗まれたジュールの服であることを察した。ジュールは憤りを隠すような顔でしばらくの間そのシャツの袖を触っていた。


「買い戻そう」

 ヤンが言うとジュールは苦しそうに首を振った。

「どうして? これは君の……」

「もういいんだ」

「え?」

「……全部忘れる。この服も、先生のことも」

 ジュールはきっぱりと言い切った。

「どういうこと?」

「僕は働いて金を稼ぐ」


 唐突な言葉にヤンは一瞬唖然とした。


「だけど君は大学に……、」

「それも忘れる」

「ジュール……」

「自分でそう決めたんだ。何もかもやり直すって。僕は働かなきゃ。そうだろ。だからけじめをつけなければ……。ヤン、もうこれ以上この話はしないで。僕の思うようにさせて。お願い」


「……分かったよ……」


 彼はうちに来てからずっとそのことを考えていたに違いない。先生の家を出た心の痛みがまだ癒えないうちは、大学の話などしたらさらに傷つけてしまうだけだ。

 なに、焦ることはない。大学へは来年登録したって構わない。気が変わるまでは彼の言うようにさせてやろう。


「でも、この服は買い戻そう。君のものなんだ。きっと役に立つ時が来るよ」


 そう説得して旅行鞄も一緒に買い戻した。

 ジュールは半分安堵した、半分苦しそうな顔をしていた。

  

 結局ジュールは誰かの着古したシャツとズボンに身を包むことになった。しきりに金の心配をして、借りたお金はちゃんと返すから、と繰り返した。ヤンは何も言わずに頷くしかなかった。


 こうしてジュールは働き始めた。一日中レストランの地下の厨房で黙々と皿洗いをしていた。ヤンは夏季休暇はオルレアンに帰れないと手紙を出した。研究だの研修だのに忙しいと尤もらしい言い訳を書いて送った。


                  ✽


 ジュールは朝から夜中まで働いた。もうもうと湯気の立つ洗い場で、どんどん山積みになる皿にあおられるように手を動かし、厨房から送られてくる鍋やフライパンの焦げを額に青筋を立ててこそぎ落とした。

 夏の洗い場は目がくらみそうな暑さになり、仕事を始めるとものの五分で汗びっしょりになってしまう。ごみは暑さのせいで鼻の曲がりそうな臭いを放つ。息をつめてごみ溜めを抱えて捨てに行くと、まるで自分が下水溝に住むネズミにでもなったような気がした。


 脂まみれの床をきれいに拭き掃除してふと見上げると、格子のついた窓から路上を歩く人の足が見える。ここにいるとまるで隠れているみたいだとジュールは思う。そんな時に頭をよぎるのは、ギヨームの家での暮らし、そして大学のことだった。


 先生の家が懐かしい。何不自由のない暮らしでリセに通い、勉強だけしていればよかった生活が大昔のように思えた。ジュールは余計な考えを振り払うようにモップの柄を握り直し、自分に言い聞かせた。働くんだ。金を稼ぐのが第一だ。あとのことは……いずれ考えればいい。


 遅くに疲れ切って帰って来るジュールをヤンが心配そうな目で見るので、大丈夫さ、仕事ってのはこんなもんだろと肩をすくめて笑ってみせる。住み込みで働いてもいいと言われたのを断ったのは、どうしたってヤンと一緒にいたいからだ。彼と一緒に暮らせればいい。それだけで充分幸せだ。


 しかしそのうちある心配事が膨らみ始めた。給料のことだ。


 月末に貰った金額は約束よりはるかに少なかった。店主と話をしようとしたが、そんな時に限って相手は忙しかったり機嫌が悪かったりする。


 この店の主人は四十がらみの大柄な男で、機嫌の良し悪しがすぐ顔に出る人間だった。客商売の人間にありがちな二面性があり、客にお愛想を振りまいているかと思えば売り上げが悪いと誰彼かまわず当たり散らす。ジュールは決して好きにはなれなかったが、それでもへたに怒らせて仕事を失いたくないという気持ちが先に立ち、どこかこの店主の顔色を窺いながら働いているところがあった。給料の話などするのは一番億劫なことだった。


 だがこれでは話が違う。口約束につけ込まれ足元を見られている気がする。焦りと疲労に加えてギヨームの家での思い出がしょっちゅう頭をかすめるようになり、ジュールは少しずつ苛立ち始めていた。


 そしてある夜、ジュールは大変な事件を起こしてしまった。

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