ヤンの話③

 それからひと月ほどコンスタンには会わなかった。会ってはいけない気がした。彼の部屋を見上げるといつも窓にはカーテンが閉められていた。おれに向けて閉められていると感じた。おれはぼんやりと薄明りの漏れるその窓を見上げ、あの時のコンスタンの顔を思い出しては胸の中に苦い痛みを覚えていた。


 どうしてあんなことをしてしまったのだろう。

 帰ってくれと言った彼の冷静な声が何度も頭をかすめた。あの一瞬で何もかも壊れてしまったような気がしていた。軽はずみな衝動のせいで、おれは大切な友達を失くしたんだ。おれの心には重たい罪悪感ばかりが残っていた。


 それなのにあの瞬間を思い出すと、えも言われない甘美な気持ちが蘇った。あの唇の感触や彼のぬくもりが記憶から離れない。いっぺんに染みついてしまったようにずっと体にまとわりついている。おれの頭は熱に浮かされたようにコンスタンのことばかり考えていた。食事も喉を通らない。勉強も手につかない。どんなに気持ちを逸らそうとしても頭の中は彼のことでいっぱいになる──。


 もう認めるしかない。これは恋だ。


 今さら気づくなんて遅すぎる。本当は彼の青白い頬に、金色の髪に触れたいと、いつも心のどこかで願っていたんだ。いつの間にかこんなにも大きく心の中を占めていた彼の存在に対しておれはあまりにも無防備だった。


 おれは持ち帰ってしまったランボーの詩をむさぼるように繰り返し読んだ。その辛辣で繊細な詩を読めば読むほど、コンスタンのことを思わずにはいられなかった。毎晩のように窓を見上げて、彼が顔を出しはしないかと待ってはあきらめ、ため息ばかりついていた。

 距離を置くなんてことを覚えられるほどおれの心は大人じゃない。ただ苦しさばかりが日ごとに募っていく。誰かを好きになることがこんなに辛いことだとは思いもしなかった。こんな気持ちになるぐらいなら、いっそ彼に出会わなければよかったのに。


 そう考えてから、ふとあの時コンスタンが言ったことを思い出した。


 出会ったことを後悔するような人間。それは、道ならぬ恋と分かっていながら惹かれてしまう相手のことだ。あの時、おれをきつく抱きしめたコンスタンの腕に確かに感じたはず。彼も本当は知っていたんだ、二人ともお互いに対して特別な感情を抱いていることに。


 でもそれに気づいたところでおれはコンスタンに会う勇気がなかった。ある時、大学で彼の姿を見かけた。彼は教授と一緒に廊下を歩いていた。すれ違う時おれの目を見ないように足早に去った。おれは泣きそうな気持ちになった。


                  ✽


 その週末、おれは詩集を持ってコンスタンの部屋に向かった。廊下はしんとして薄暗く、底冷えがしていた。おれはドアの前に立つと、小さく声をかけた。


「コンスタン。いるんだろ。開けてくれないか。本を返しに来たよ」

 返事はない。

「お願いだ。ほんの少しだけでいい、話をさせてくれないか」


 ドアの向こう側には人の気配がしている。でも返事はない。おれは小さく息をつき、閉じたままのドアに向かって話しかけた。


「初めて会った時のこと覚えてる? おれのこと反抗期の坊っちゃんって言ったろ。あんまり図星なんで癪に障ったよ。親父に引き取られてからおれはずっと肩を張って生きてきた。舐められてはいけないと成績や評価で武装することだけを覚えて。でもそんなおれのメッキをあんたはいとも簡単に剥がしてしまった。おれ、本当は嬉しかったんだよ。初めて強がる必要のない人に出会ったんだ。コンスタン、分かってるだろう。おれを近づけたのは君だよ。ひとを裸にしておいて、散々説教して、こんなにも心を掴んでおいて、なのにこっちが本当の気持ちを見せた途端に扉を閉めるなんて。ひどいよ。あんまりじゃないか」


 何も答えずただ息を潜めている彼を責めるようにおれは続けた。


「あんたは自分の感情に蓋をしようとしている。だからおれはこうやってこじ開けてやる。コンスタン、まだ後悔してるのか。出会わなければよかったと思うのか。悪いけどおれはそうは思わないよ。だって、あの時おれはたまらなく幸せだったんだから。君の唇も、ぬくもりも、何もかも忘れられない。君だって同じはずだ。だからドアを開けてよ」


 それでも返事はなかった。自分の声だけが響く廊下はいいようもなく冷たかった。足の先から体の芯までが冷え切っていくようだった。


「どうして後悔するの。なぜ正直になっちゃいけないの……」


 彼の心を動かしたいのに、言えば言うほど自分が無力になっていく。おれはドアに額を当てて目を閉じた。涙がこぼれた。


「分かったよ。望んではいけないと言うならおれは何も望まない。あきらめろと言うのならあきらめる。ただ君に伝えたかっただけなんだ」


 おれは頬を拭うと、詩集をドアの脇に置き、廊下を引き返そうとした。


 その時、背中でドアの開く音がした。振り返るとそこにはコンスタンが立っていた。

「……馬鹿だな。こんなところでそんな長話をして」

 コンスタンは泣いているような顔で笑った。


「入ってくれ……。君がいないとね、……部屋が暗くて困るんだ」


 おれは吸い寄せられるように彼に歩み寄った。彼はおれを強く抱きしめた。そして、そのかすれた声ではっきりとこう言った。


「後悔などしない。するものか。ヤン、僕には君が必要だ」

 おれたちはすきま風の吹く廊下でキスをした。



 コンスタンのベッドは古くて動くたびにきしむ音がした。でもそんなの構わなかった。幸せだったんだ、おれたちは。ベッドの中で彼の金色の髪をぐしゃぐしゃにしてやったら、コンスタンは少年のような顔になって笑った。今まで見せたことのない解き放たれた目をしていた。おれは初めて彼の本当の顔を見た気がした。


 おれはコンスタンを見つめて言った。


「探し当てたよ、もう一度」

「何を?」

「永遠を。それは、太陽とつがった海だ」※


 コンスタンはクスクスと笑った。

「気に入ったみたいだね。その詩集、君にあげるよ」 

「おれ、君の名前が好きだ。コンスタン」

「うん?」

「コンスタン。ずっとそこにあるもの。絶え間なく、永遠に続くもの」

「永遠にか……」


 彼は天井を仰いだ。眼鏡を取った彼の、くっきりとした青い目がとてもきれいだった。



 おれたちの関係は誰にも知られることなく続いていた。冬が過ぎて、春の気配がしても、変わらず続いていた。おれは彼にのめり込んでいた。相変わらずの手厳しさとそれ以上の大きな優しさと愛にどっぷりと浸かっていた。こんな時間がずっと続くものだと思っていた。


 度重なる試験にも順調に合格し、学位論文を提出したばかりのコンスタンが言った。


「これで僕の学生生活も、……青春も終わりだ」

「大袈裟だね。学位を授かるまでは油断できないぜ」

「またそうやって僕を不安にさせる」

 コンスタンは笑って、それからおれに尋ねた。 

「復活祭は家に帰るのかい?」

「いや、パリに残る」

「それなら、僕の家に泊まりにおいで。両親に紹介しよう」

 コンスタンはにっこりと微笑んだ。




※「永遠」アルチュール・ランボー(堀口大學・訳)

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