ヤンの話④
おれたちは連れ立ってルーアンへ向かった。
コンスタンは両親におれを親友だと紹介した。十九のくせに生意気で困った奴なんだよ。コンスタンは冗談めかして言った。
彼の家は、質素だけど温かい、品のよい家庭だった。客用の寝室に荷物を置くとコンスタンはおれを抱き寄せて口づけした。閉まったカーテンごしに陽の光が鈍く漏れていた。
夕食の後、家族はおれにピアノを弾かせた。コンスタンに聴いて欲しくて、好きな曲をいくつも弾いた。そばのソファで彼が自分を見つめているのを感じた。幸せだった。
三日目の朝、コンスタンの母が明るい口調で言った。
「今日、アデリーヌが着くわ。お母様もご一緒よ。お迎えの支度をしないと」
「ああ、そうでしたね」
コンスタンが母を見ずに答えた。
「そうでしたねじゃありませんよ。
「フィアンセ?」
おれは思わず声に出した。彼の母はおれに向き直って嬉しそうに微笑んだ。
「あら、ご存じなかった? 大学を卒業したら結婚することになっているの」
おれはコンスタンに目を向けた。彼は顔を背けたまま、こっちを見ようとしなかった。
「どういうこと?」
おれは彼を捕まえて訊いた。どういうこと? フィアンセって。
「すまない」
彼は短く答えるとその朝おれと一緒にいるのを避けた。
昼過ぎに彼の婚約者という娘がやってきた。二十歳ぐらいの良家の令嬢といった感じだった。コンスタンが笑顔で迎えた。彼女の手にキスするのをおれは混乱した頭で見ていた。
その夜、皆は居間で語らいながら和やかに過ごしていた。おれはアデリーヌとその母のためにピアノを弾かされていたが、二曲弾いたところでいたたまれなくなって立ち上がった。その日コンスタンは一日中おれと口をきかなかった。
彼がふと視線を向けたから、おれは彼に目配せして居間を出た。彼はアデリーヌに失礼と声をかけておれの後に続いた。
「ちゃんと説明してくれ」
彼の部屋でおれはコンスタンに詰め寄った。彼は目を伏せた。
「すまない」
「すまないって……」
「両親が決めた婚約者だ。彼女の父は高名な医学者だ。僕は彼女の家を継ぐ」
「そんなこと……そんなことひと言も、」
「半年前から決まっていた。……どうしても言えなかった」
半年も前に。おれたちがそうなる前のことだ。初めて口づけをした、あの頃のことだ。おれはあの時の彼の涙を思い出した。人生ってのはつくづく思い通りにならないと言ったのは、目の前に敷かれたレールに従わねばならないという意味だったのか。
「でも、それならどうして君はおれと、」
「分かってる。分かってたんだ。ヤン、僕はね、初めて会ったときから君に惹かれていく自分に気づいていた。君の無防備な若さに、明るさに、瑞々しさに。もう君にこれ以上近づいてはいけないと自分を戒めた。でも気持ちは偽れなかった。僕は、いずれ終わりの来るものと知っていながら、君という目の前にある喜びに身を委ねてしまったんだ。卑怯だろう、僕を責めてくれ」
コンスタンは苦しそうな顔で続けた。
「……君に溺れていく自分が怖かった。君といられる時間は執行猶予のようなものだ、僕はそう割り切ろうとした。なのに、僕の心はどんどん深みにはまっていくだけだった。あまりにも幸せで、あまりにも喜びに満ちていて……。いつか話さなければならないのに、決着をつけなければならないのに、それができないまま時間ばかりが過ぎてしまった」
「……それで、ここにおれを呼んだんだね。おれにあきらめさせるために」
「こうするしかなかったんだ。許してくれ」
「許せないよ!」
おれは思わず声を荒げた。
「おれのことを愛してると言ったくせに。ずっと一緒だと思ってたのに」
「ずっとこうしていられるわけないだろう」
コンスタンは苦渋に満ちた目でおれの目を見た。
「現実を見なきゃいけないんだよ、ヤン。君はまだ若い。でも僕は違う。目の前には現実しかないんだ。いつまでも夢を見ているわけにはいかないんだ」
「ひどいよ……残酷だよこんなの……」
「もうお終いにしよう」
乾いた声でコンスタンは言った。
「君もいつかは結婚して、家庭を持つ。そしたら僕たちは友達としてまた再会できる。僕はそう願ってる」
そう呟いたコンスタンの目はすでに終わりを告げていた。
おれの負けだ。それはよく分かっていた。完全な敗北だ、どうしようもない。
それでもおれは認めたくなかった。まだ彼にすがりつこうとしていた。
「そんなの嫌だ。友達になんてなれるわけないだろう! なれるわけがない! こんなに君を、君のことを愛してるのに……!」
そう言っておれは彼を抱きしめ、無理やり唇を奪った。彼は乱暴に突き放し、おれを睨みつけた。が、すぐにその手でおれを抱き寄せ、強く口づけた。
乱れた息の中でコンスタンは言った。
「僕だって愛してるとも。離れたくなんかない。結婚なんかしたくない。僕だって辛いんだよ、辛いんだよ、ヤン……!」
彼の手がおれの背中を這った。おれは彼の髪を掻きむしった。おれたちはむさぼり合うように夢中で口づけを交わしていた。ドアの方から光が細く射しこんでいるのにも気がつかなかった。
ふいにコンスタンが気配に気づき、ぎくりとしてドアに目を向けた。そしてゆっくりと、絞り出すような声で言った。
「誰……そこにいるのは……」
ドアが開いた。
そこに立っていたのはアデリーヌだった。動かない目で、責めるような目でこちらをじっと見ていた。
コンスタンの手がだらりと垂れ下がった。おれはコンスタンの放心した顔を目の前にして、ただ茫然と立ち尽くしていた。
──その明け方、彼の部屋から銃声が響いた。
✽
おれはオルレアンへ帰った。大学には戻らないつもりだった。そのことを親父に話そうと思ったが、親父はイザベルと旅行に出ていて、家にいたのはフレッドだけだった。
おれは一日中部屋にこもっていた。食事にも手をつけなかった。フレッドが何度もノックしたが、何も答えなかった。おれは抜け殻のようになって、ただぼんやりと床を見つめているだけだった。
ある日、オスカーがドアをノックした。
「坊っちゃん、お客様がいらしております。モロー様と仰います。コンスタンという方のことで、お話があると……」
おれはハッとして顔を上げた。
客間ではコンスタンの両親がソファに腰かけていた。おれの隣にはフレッドが座って頭を抱えていた。おれはやはり、ただうな垂れているだけだった。
フレッドがちょっと失礼と言って席を立った。
おれたちは何も言わずにただうつむいて向き合っていた。
「ヤン、大学へ戻りたまえ」
コンスタンの父が口を開いた。おれは首を振った。
「コンスタンが言っていたよ。君は見込みのある、優秀な学生だと。心のある優しい人間だから、きっといい医者になれるだろうって」
「……コンスタンが……?」
自分の声がかすれているのが分かった。
「君が学業を放棄したところでコンスタンが帰って来るわけじゃない。勉強を続けなさい。そしてどうか、立派な医者になってくれたまえ」
コンスタンの父はそう言って続けた。
「コンスタンも、それを望んでいると思うよ」
おれは顔を上げた。
コンスタンの父は微笑んでいた。
どうして微笑むことができるんだろう。目の前に息子を自殺に追いやった人間がいるのに。どうして?
体が震え始めるのを感じた。どうしようもない後悔がわき上がった。
おれは奪ってしまったんだ。この人たちの最愛の息子を。おのれの身勝手のために。こんな簡単に、銃声ひとつで。
フレッドが戻って来た。手には封筒を持っていて、それを、コンスタンの父に差し出した。
「慰謝料と言ってはなんですが」
コンスタンの父は力なく笑った。
「ふふ……そんなモノは要らないと言いたいところだが……。頂いておきましょう。口止め料としてね」
彼は立ち上がっておれの肩に手を置くと、夫人と一緒に部屋を出て行った。
全身の力が抜けていった。おれはひざから崩れ落ちた。
これで、終わりだ。おれたちの物語は、これで終わりだ。
コンスタンの顔が浮かんだ。あのアパートで、いつもの椅子に座っておれに微笑みかける、眼鏡の奥の青い瞳──。
おれは床に突っ伏したまま声を上げて泣いた。
失くしてしまったものを思って、いつまでも泣きじゃくった。
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