別離①

 その夜、ヤンは机に頬杖をついて、積み重ねた医学書を見るともなしにぼんやりと眺めていた。あんな話はするべきじゃなかった。十五歳の男の子にどう受け止めろというのだ。

 

 ジュールの顔が蘇る。ジュールは台所のテーブルで、ヤンの話を黙って聞いていた。テーブルの上に手を組んで、少し目を伏せたまま一点を見つめ、口をギュッと結んだまま、動かずにじっと聞いていた。時々眉間を曇らせ、指の先に力を込めた。話し終わった後も、何も言わなかった。ただテーブルの端をじっと見つめたままだった。


 受け止めようがない。恋人に自殺された愚かな自分の話など聞かせたくなかった。弱い自分の姿をさらけ出したくなかった。なのに自分は追い打ちをかけるようにこうとまで言ったのだ。


「コンスタンはおれが殺したようなものだ。彼はずっとおれの中に棲みついてる。忘れることなんかできない」


 ヤンは大きなため息をつくと本棚に目をやった。ランボーの詩集はあの時コンスタンに貰ったものだ。棚にいっぱい詰まった本の中で、それだけが別物のように色が違って見える。あれから詩集をひらく勇気はない……。



 ジュールは川べりにひざを抱えて座り、水面を見つめていた。

 ヤンの顔は普段とはまるで違っていた。いつもの朗らかで優しいヤンの顔に、あんな暗い影が差すとは。太陽の下で明るく輝く彼の茶色の目がさっきは重く沈んでいた。


 死んでしまった人間になど敵いっこない。ジュールは思った。コンスタンはずっとヤンの心の中に生き続ける。一番美しい姿のままで。


 自ら命を絶ってしまうなんて、呪いをかけるようなものだ。残された人間は一生その呪いに縛られる。


「コンスタンはおれが殺したようなものだ」


 ヤンの言葉が頭をよぎった。

 あれが彼の本音なのだ。普段どんなに明るく振舞っていても、冗談を言って笑わせても、彼の心の奥にはきっとこの罪の呵責がべったりと張りついているのだ。いや、だからこそ彼は明るく気丈に振舞うのだろう。


 ──忘れてしまうことはできないよ。時が経ってなくなったと思っていても、また蘇ってくることがある。忘れることはできないんだ。傷ができたからには、そいつと、一緒に生きて行くしかないんだよ……。


 いつかヤンが言った言葉を思い出した。彼は自分のことを言っていたのだと、ジュールはやっと気がついた。恋人が残した消せない傷。ヤンはそれと一緒に生きて行くのだ、これからも。


                  ✽


 次の日の午後、ジュールは屋敷の裏口に立っていた。オスカーが怪訝な顔で目をしばたかせた。


「一体何の用だ?」

「あの、坊っちゃんは」

「坊っちゃんはまだお休みだ」

「失礼します」

「え? あっ、おい、」


 ジュールはオスカーが止めるのも聞かずに屋敷の中に入って行った。廊下を通りかかったイザベルが目を丸くしてジュールが階段を上がっていくのを見上げた。


 ヤンの部屋の前で止まると、少し躊躇してから、ジュールは思い切ってドアをノックした。

「ヤン、起きてるの。もう午後だよ」


 ジュールの声に驚いてヤンはベッドから起き上がった。ジュールはいつもと変わらない顔で部屋に入って来た。


「どうしたんだ?」

「どうしたじゃないよ。来ないから心配して見に来たんだ」

「ああ、そうか、悪かった」

 ヤンは顔色が悪い。明らかに寝不足の顔だ。


「猟銃の使い方を教えてくれるって言ってたじゃないか。もうずいぶん経つよ」

「ごめん、忘れてた」

「カーテンを開けるよ。ほら、いい天気だろ」


 窓を開けて風を入れる。心なしか部屋の空気が淀んでいる気がする。


「さあ服を着て。僕、勝手に入ってきたから怒られちゃうよ」

 つとめて明るい声を出した。

「さっきのオスカーの顔見せたかったよ。何しに来たんだって目で僕のこと見るんだぜ。僕だって一応……」


 言いかけて振り返り、ジュールは口をつぐんだ。ヤンの枕もとに一冊の本が置いてあるのが目に飛び込んできた。


「……ここの、人間なんだけど……」


 それはランボーの詩集だった。

 他の本は読ませてもこれだけは一度も貸そうと言ったことがない。その理由も昨夜やっと分かった。誰にも触れさせない、大事な大事なコンスタンの形見。


 それが今、枕の端に隠れるようにして転がっている。


 ──それは太陽と番った海だ。


 昨日ヤンの口から聞いた一節が頭に蘇り、ジュールは胸がズキリとした。まるでヤンの傍らにコンスタンが横たわっているような気がした。


 ジュールの視線の先に気づいて、ヤンは黙って詩集を振り返った。昨夜誘われるようにふらりとその本を手に取ったヤンは、コンスタンの気配を背中に感じながら夜通し読み返していたのだった。


「そんなところに置いたら本が傷んでしまうよ」


 ジュールは詩集から目を逸らしながら小さく言った。

 ヤンはベッドの端に座ったまま黙っている。


 ジュールは息苦しくなった。背中に重たい空気を背負っているヤンは別の人間みたいだ。この人は過去に引き戻されている。目の前にいる自分の方が幽霊にでもなったような気がする。コンスタンという人はこんなにも簡単にヤンを自分のところへ連れ戻してしまうのか。


「ジュール、悪いけど、今日は、」

 言いかけたヤンを遮りジュールはぼそりと言った。

「僕、小屋へ戻るよ。オスカーに怒られる前に行かなくちゃ。猟銃のことは、またそのうち」


 気負って屋敷まで入って来たことを後悔していた。

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