別離②

 ヤンはしばらくしてから小屋へやって来た。口の端だけを上げてかすかに微笑んで見せた。ジュールは笑いかけようとしたがうまく行かなかった。何ともいえないぎこちない空気が二人の間に漂っていた。


 ヤンはジュールを促して壁に掛かった猟銃を眺めた。

「このへんが親父がいつも使ってるやつ。これは、わりと至近距離の獲物を撃つときのもの。こっちは、イノシシとか、大型の鹿とかに向いてる」


 ヤンは無造作に一挺手に取るとジュールに渡した。ジュールはおっかなびっくり猟銃を受け取った。黒光りする銃身が横に二本くっついて並んでいる。華奢な見た目のわりに持ち重りがする。武器を触っているという物々しい感触がする。狩りの気配を感じた猟犬がやって来て嬉しそうにひと声吠えた。


 ヤンはレバーを引いて中を開いて見せた。

「弾はここに装填するんだ。一度に二つ入る。狩りのときは君がその場で弾を込めて親父に渡すんだ。普段はこうやって折ったまま腕に抱える。分かったね。まあ細かいことは実際の狩りの時に教えるけど」


 それならなにも今説明してくれることはないのに。そう思いながらジュールは黙って頷いた。ヤンは空間を埋めるかのようにやたらと早口で喋っている。自分がそうさせているような気がする。


「それから、終わった後は必ず銃身を掃除しなきゃいけない。それも君の仕事だ」

 そう言ってヤンは銃身を外し中を覗き込んだ。

「ちょっと汚れてる……。この際だから教えてあげるよ」


 ヤンは手入れ道具を出して床の上に置くと壁にもたれて座った。

「このブラシを銃身に入れて中を磨くんだ。これが油。これを中に入れて、この布切れを通す。何度も通してきれいにする。ほら、布が黒くなるだろ」

「ほんとだ」

「やってみるかい」


 ジュールはヤンの隣に腰を下ろすと、見よう見まねで銃口に細長い棒を通した。デュックが早く出かけようと言わんばかりに尻尾を振りながらその様子を見ている。


 猟犬の顔をぼんやりと見つめながらヤンが言った。


「親父が狩り好きなのは話しただろ。おれも十四、五歳の頃からつき合わされて、フェルナンと三人でよく森に入ったよ……」

「お兄さんは?」

「兄貴はやらない。あの人は何かに自分で手をかけるのが嫌いなんだ。自分の手を汚さないで他人にやらせるのさ」

「ふうん」

「……十代のころは面白がってやったんだけどね。上手く仕留めてフェルナンに褒められると嬉しかったし。でもやっぱり残酷だろ、遊びで動物を殺すなんてさ。……それに銃の音は、もう、聞きたくないから」


 そう言ってからヤンは余計なことを口走ったと後悔した。ジュールは何も言わず真剣な顔で銃身に突っ込んだ棒を動かしている。ヤンは気まずくなって立ち上がった。


「そうだ。ついでに全部磨いておくか」

 ごまかすような口調でそう言うと壁の猟銃を降ろして床に並べた。


 二人は黙々と掃除をした。錆びつき煤が残っている古い猟銃まで磨いた。手を動かしている間は言葉を交わさずにすむ気がした。布の切れ端が油と煤で真っ黒になっていく。あての外れた猟犬はいつの間にか小屋の隅で目を閉じている。


 片目をつむって磨き上げた銃身を覗き込んでいるジュールをヤンは横目で眺めた。

 彼は一体何を思っているのだろう。おれは彼に何を言えばいいんだろう。このぎくしゃくとした雰囲気の中で普段どおりに振舞おうとする白々しさ。ヤンは煤で黒くなった手を見つめ、ひそかにため息をついた。


 その時、ジュールが前を向いたままぼそりと呟いた。


「コンスタンは君が殺したんじゃない。そんな風に考えちゃだめだよ」


 胸がズキリとした。ヤンはすぐ遮るように小さく首を振った。


「ジュール、その話はもう……、」

「分かってる。辛いことを思い出させてごめん。僕に聞かせたくなかったことも分かってる。でも自分から傷口に塩をすり込むようなことをしちゃだめだ。痛いだろう、そんなことしたら」


 ヤンはジュールへ目を向けた。彼は険しい顔で手にした猟銃を見つめている。


「自殺するなんて卑怯だ。自分だけ楽になろうなんてずるいよ。その結果君ひとりがいつまでも苦しんでるんじゃないか。もうよしなよヤン、自分を責めるのはよしなよ。後悔なんかするなよ」

「分かってるよ」

「分かってないからそんな顔してるんだ」


 ジュールらしからぬ強い語調にヤンは驚いてその顔を見返した。


「ヤンは自分のことになるとまるで別人みたいに殻に閉じこもって、人を寄せつけなくなる。ひとりで抱え込んだって楽になれるはずないのに。……そりゃあ、僕は六つも年下だし、君が強い人だってのは分かってるけど、でも、そんなつらそうな顔をするぐらいなら、そばにいる誰かに甘えればいいじゃないか。あんな紙のかたまりなんか抱いて思い出に耽ってるより、目の前の、生きてる、血と骨と肉のかたまりに抱きつく方がずっとずっといいじゃないか。どうして僕が本なんかに嫉妬しなきゃいけないんだ」

「……え?」

 ジュールは赤くなりながら口ごもった。

「いや、なんでもない。つまり、僕が言いたいのは、その……」

 ジュールはもどかしげに一つ一つ言葉を絞り出した。


「その……君の痛みを僕に分けて欲しいってことさ。そしたら僕は喜んで背負うから。……僕はピアノも弾けないし、君に教えてあげられるものなんて何もない。でも、君がつらい時にそばにいることはできる。泣きたくなったら肩を貸すことだってできる、君が僕にしてくれたみたいに。こんなやせっぽちの肩じゃ頼りないかも知れないけど、でも、少しでも楽になるのなら、どうかこの体を使ってくれよ。甘えてくれよ、子どもみたいに」

「ジュール……」


「傷は、いつかきっと小さくなるよ。消えないかも知れないけど、でもきっと小さくなる。そう思えるようになったのは、ヤン、君のおかげなんだ。ねえ、一人で背負い切れない十字架なら、どうか僕にも一緒に背負わせてくれよ。そしたら僕は体じゅうで支えるから。一人で背負い切れない悲しみなら、どうか僕にそれを分けてくれよ。そしたら僕は君の気がすむまでずっと抱きしめていてあげるから。だから、」


 ジュールが言い終わる前に、ヤンは猟銃をかなぐり捨ててその背中をかき抱いた。


「……じゃあお願い、しばらくこうさせてくれ」


 ヤンの大きな手が背中をきつく掴んだ。痛いぐらいだった。


「……どうしても忘れられないんだ……。あの人を……死なせてしまったって、そう思えて、仕方ないんだよ……」


 声が震えていた。肩ごしにヤンが泣いているのが分かった。

 ジュールはヤンの体を柔らかく抱き返し、低い声でその背中に語りかけた。


「……でも、君は僕を助けたじゃないか。森の中で死にかけていた僕を救ってくれたじゃないか。僕は一生君に感謝する。今じゃこの命は前より何百倍も価値があるんだよ。だって、君が生き返らせてくれたんだもの」


 その言葉を聞いてヤンはこらえ切れずに嗚咽を漏らした。ジュールは震える肩を抱き、体全体でヤンを包み込んだ。


「あんな話を聞いたからって何が変わるっていうの? 僕はヤンが好きなんだ。コンスタンのことを忘れられない君も、何もかも含めて今ここにいる君が好きなんだ。僕の……一番大切な人なんだ」


 ヤンはジュールにしがみついたまま子どものように泣いた。不器用な言葉で、精いっぱいの気持ちで慰めてくれる。こんな恋人、お前には勿体ないぐらいだ。抱きしめた彼の華奢な背中はこんなにも心強く、愛おしい。


「ヤン、僕はこのまま君と一緒に生きていきたい。ずっと下男でいたい。いつか君が独立しても、仮に君の心が僕から離れたとしても、ある日君が結婚しなきゃいけなくなったとしても、それでも僕は君のそばにいたい。歳をとって、白髪になって、皺だらけのじいさんになっても、いつまでも君についていたい。ずっとずっとそばにいて、君のために生きたい」


 ヤンはこぼれ落ちる涙を無造作に拭った。


「ああ、ずっとそばにいてくれ。君だけはおれの前からいなくならないでくれ。おれはもう、何も失いたくない……!」


 二人はそれ以上何も言わずただお互いを抱きしめ合っていた。静かな小屋の中には二人の息づかいだけが聞こえていた。猟犬が片隅で小さくあくびをした。



 体が離れた時、ジュールはヤンの顔を見て怪訝な顔をした。


「ヤン、それ……」

「え?」

 ジュールは瞬きした。

「煤が……。顔じゅう、煤だらけだ」

 そう言うと思わずクッと吹き出した。

「しまった」


 ヤンはあわてて頬を拭った。汚れた頬がさらに黒く染まった。それを見てジュールはこらえ切れずに笑い出した。ヤンもつられて思わず吹き出した。


「拭いてあげるよ」 

 悪戯っぽい目でそう言うとジュールはいきなり自分の手をヤンの鼻の下になすりつけた。

「ほら、ひげができたよ」


 そう言ってジュールはまた笑い出した。ヤンは呆気にとられていたが、ようやくいつもの顔に戻ってジュールの鼻の下に指で黒いすじを引いた。

「これでどうだい、おあいこだ」

「馬鹿みたい、まるで子どもだね」

「何とでも言え」


 二人はお互いの顔を汚し合い、煤だらけになりながら笑った。

 放ったらかしになった猟銃が床の上で冷たく光っていた。


 その晩、ヤンは森番の小屋で眠った。

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