別離③
九月も下旬になると朝晩が冷え込むようになった。ヤンの夏季休暇ももう少しで終わろうとしていた。
そんな時、フェルナンからオルレアンに戻るという報せが入った。
「僕はどうなるの?」
ジュールが薪を割りながら不安そうな顔で言った。
「心配することなんかないよ」
そばに座っているヤンが笑った。
「親父は一度雇った人間を簡単に解雇するほど薄情じゃない。しかもそれが若くてよく働く下男ならなおさらだ。屋敷には使用人の部屋も空いてるし、安心してうちに居ればいいよ。おれも時々ここへ帰ってくるんだし。ほら、今度はおれの番」
ヤンは手を伸ばしてジュールから斧を受け取ると薪を割り始めた。
ジュールは汗を拭い、辺りに散らかった木の破片を拾い集めた。
「……僕、なんだか怖いんだよ。君がいなくなるのが」
薪を抱いたままジュールがぼそりと言った。
「怖いって?」
「胸騒ぎがするんだ。……僕は、君の兄さんが怖いんだ」
フレッドが? ヤンは薪を据え置きながら笑った。
「前に言われたことがよっぽどこたえたんだな。そう気に病むなよ」
「分かってるけど……」
「おれたちはおれたち。あの人には関係ない。あいつのプラトニック論なんか気にするな」
「プラトニック……」
ジュールはため息をついた。
──あんな絵のどこがプラトニックなんだ。
心の中で呟いたはずなのに、その独り言はしっかりとヤンに聞こえていた。ヤンは斧を持つ手を止めた。
「何のこと? どういう意味?」
「いや……」
「引っかかるね。あんな絵って何だ?」
「それは……」
「お前、何か隠してるのか」
ジュールは首を振った。
「顔に書いてあるぜ。何かとても言いたくないことがあるって。兄貴と何かあったんだな。言ってごらん」
ヤンがジュールの目を覗き込んだ。
フレデリックは描きかけのデッサンを前に赤褐色のコンテを片手でへし折った。駄目だ。どうしても歪んでしまう。前はあんなに透明だったのに、今ではジュールの体が濁って見える。ジュールの体じゅうにヤンの指紋がベタベタと貼りついているような気になってしまう。
あの二人の関係は相も変わらずだ。ヤンはまた夜中に屋敷を抜け出すようになった。猫のように物音ひとつ立てずいつの間にかいなくなっている。一度ドアの前で待ち伏せようと思ったが、嫉妬に狂った自分の顔が鏡に映っているのを見て、あまりの醜さに自嘲してしまった。嗤いながらなぜか奥歯を噛みしめていた。
「兄さん、ちょっといいですか」
出し抜けにヤンが部屋に入って来た。ノックもせずにずかずかと歩み寄る。フレデリックは急いで絵をキャンバスの裏に隠した。
「何だ、ノックもせずに」
「話があります」
ヤンはそう言うといきなり立てかけてあったキャンバスを退けた。隠したデッサンがひらりと床に落ちた。ヤンはそれを拾い上げて凝視した。そしてきつく眉をしかめてフレデリックの前に突きつけた。
「何です、これは?」
顔が青ざめるのを感じつつも、フレデリックは開き直った口調で答えた。
「見て分かるだろう、ジュールだよ」
呆気に取られて兄を見返した後、ヤンは皮肉を込めて言った。
「……大したもんだ、こんなに絵が上手だとは知りませんでした。いっそポルノ専門の画家にでもなったらどうです?」
「失礼なことを言うね」
「なるほど、こんな絵を描かれるんじゃ水浴びだってとっくにやめちまうわけだ。他にも色々あるんでしょう」
「駄作だったのでね、処分したよ」
「とんでもない、この絵を見る限り傑作ですよ。これじゃあ確かに怖くなる」
「あの子が話したのか」
「無理やり聞き出したんだ。彼は怯えてますよ。無理もない。あなたのやっていることは視姦じゃないか」
「随分いやらしい言葉を使うね。これは単なるスケッチだ」
「そんな風には見えませんがね。これはむしろ」
「もういい、何とでも解釈しろ。早く出て行ってくれないか」
ヤンは信じられないという風に兄を見つめた。
「兄さんがそんな人だとは知らなかった。おれは甘かったな」
「そんな人とはなんだい」
「ひとのことばかり責めておいて、結局はあんたも同類じゃないか。いや、あんたはタチが悪いや。自分の頭の中だけでジュールを好きなようにもてあそんでるんだから」
「僕はお前のような類の人間じゃない」
「認めたくないだけでしょう。きれいごとばかり言って。ここに描いてあるのは兄さんの欲望だ」
「そう見えるのはお前の頭がそのことばかりだからだよ」
「あんたとおれを一緒くたにしないでくれ」
「お前のやっていることの方がよほど破廉恥じゃないか。またぞろ夜這いを始めたな。よほど懲りない性分と見えるね」
「あんたの覗き趣味だって自慢できるもんじゃないよ。まるで
「下品な言葉を使うな! 俺はお前とは違う!」
フレデリックはヤンの手から乱暴に絵を抜き取った。
ヤンは白けた目をして笑った。
「兄さんの哲学と本能とは両立してませんね。矛盾だらけであんたも苦しいだろう。でもね、どのみち兄さんがジュールとプラトニックな関係など築けるはずがないんだ。そうだろ。こんなものを見られた日には余計逃げられるのがオチだ」
フレデリックはヤンを鋭く睨んだ。
「そんなことは分かっているよ」
ヤンはフンと鼻を鳴らすと黙って部屋を出て行った。
フレデリックは一人で低く呟いた。……そんなことは前から分かっていたさ。
そしてやにわに手にした絵を細かく引き裂いた。ジュールの体がバラバラになった。
手に入らないのなら、手に入らないのなら──。
破壊するまでだ。
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