別離④

 とうとうヤンがパリに発つ朝が来た。ジュールは涙をこらえるのに必死だった。昨夜のジュールはひどく気持ちが乱れていた。ヤンの胸の中に顔をうずめて引き留めるようにヤンを抱きしめた。


 ──ああ、ヤン、行かないで。僕はもうこれきり君に会えないような気がする。

 ──何言ってるんだ。週末にはまた会えるじゃないか。君のおかげでこれからは家に帰るのも楽しみになったよ。ヤンは優しくそう言った。


「土曜には帰るよ」

 馬車に乗り込みながらヤンが言った。ジュールは頷いた。

 遠ざかる馬車をジュールはいつまでも見つめていた。


 後ろでオスカーの声がした。

「ジュール、旦那様がお呼びだ」



 書斎へ入るとベルナールは仕事机に腰かけていた。

 手招きをしてジュールに座るよう促し、それから抑揚のない声でおもむろに切り出した。


「お前に新しい奉公先が見つかったよ」


「えっ……」

 ジュールは一瞬聞き違いかと思った。

「奉公……先?」

 ベルナールは頷いた。

「パリのある屋敷で若い使用人を探しているそうだ。うちより給金もいいらしい」

「パリ……?」

「実は私も具体的なことは知らない。フレッドが見つけて来たのだよ。あいつはあれで方々に顔が訊くもんでね。お前にぴったりだと言っていたよ」

 フレデリックが? 

 ジュールは混乱し思わず声を上げた。


「待ってください。あの……僕は、ここに居たいんです」

 ベルナールはじろりとジュールへ目をやった。

「お願いです。ここに置いて下さい。何でもします。駄目でしょうか」


 ジュールの顔を見つめながらベルナールは深く大きなため息を漏らした。


「……私もお前のことは気に入っていたんだよ。フェルナンが戻って来るからといってお前を追い出すようなつもりはなかった。……ただね、これだけは見過ごせんだろう……」

 ベルナールは言いにくそうに口ごもった。 


「その……息子と使用人が妙な関係を持っているとなれば」


 ジュールは息を呑んだ。

 ベルナールはジュールの顔を見つめたまま、凄味のある低い声で尋ねた。


「本当なのか。その……ヤンと、……そういう関係だという話は」


 ジュールは身震いした。頭の中が真っ白になっていく。

「どうなんだ、ジュール」


 ベルナールの厳しい目がこちらを見ている。問い詰めるような視線が自分に向けられている。

 耐えられずに視線を外すと、壁に掛かった獣の首たちまでが冷たい目でじっと見ているような気がした。言葉を探すかのようにジュールの目は宙をさまよった。

 だが何の言い逃れも思いつかなかった。


「黙っていないで正直に言いなさい」

 ベルナールの声が大きくなった。

 ジュールは力なく首を垂れた。


「……申し訳……ありません……」


 ベルナールは椅子に仰け反ると腕を組んだ。眉間にはきつく皺が刻まれている。


「いつからだ?」

「ひと月ほど……前から……」

「なぜそんなことになった」

 ジュールは黙った。

「誰がそそのかしたと訊いているんだ」

 ジュールはかすかに首を振った。


「答えなさい、ジュール」

 ベルナールの威圧的な声が胸に突き刺さった。ジュールの口が震えた。


「……僕が、誘ったんです」

 そう答えるしかなかった。


 ベルナールはもう一度ため息をついた。


「残念だが、もうお前を置いておくことはできない。パリに、行ってくれるね」

「……分かりました……」

 ジュールはかすれた声で答えた。


 書斎を出ると、目の前の景色がガラガラと崩れ落ちた。


                  ✽

 

 出発はその週の木曜日だった。ひと目でいいからヤンに逢いたかったが、それはついに叶わなかった。

 フレデリックが小さな旅行鞄を寄越して言った。ヤンのお古だ、使いなさい。ジュールはヤンに貰ったお下がりを丁寧に折り畳んで入れた。シャツの上に涙がこぼれ落ちた。


 パリに発つ朝、ジュールは新しい服をあてがわれた。パリまではフレデリックが送ることになった。ジュールは気が重かった。ジャンが御者席で訝しげな顔をして振り返った。ジュールは泣きはらした目をしていた。フレデリックはジュールを隠すようにして馬車へ乗せた。ベルナールやイザベルはおろか他の使用人にすら何の挨拶もできないまま、こっそりと出て行くかのようだった。


 ジャンが馬に鞭を打つ。馬車が音を立てて動き出した。ジュールは振り返った。朝靄の中で、屋敷が、森番の小屋が、その奥に広がる森が遠くなっていく。


 ヤンと過ごした時間が蘇った。川のほとり。東屋。森の泉。笑い合った瞬間。そして、初めて愛し合った夜──。


 涙が溢れた。

 さようならだ。

 夏の間だけの、ほんの束の間の恋人だった。


 ヤン。


「ずっとあなたを愛している、

 けっしてあなたを忘れはしまい。」


 いつかヤンの歌った歌が繰り返し耳にこだました。

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