罠①

 オルレアンの駅からはフレデリックと二人きりになった。巨大な機関車を見てジュールは思わず後ずさった。轟音とともにものすごい速さで窓の外の景色が流れていく。ジュールは自分がとんでもなく遠いところに連れて行かれる気がしていた。ワゴンの座り心地が悪いのはフレデリックと一緒だからかも知れない。フレデリックはいつもの表情のない顔をしている。


 ジュールは車窓の景色を眺めながら気まずく黙っていたが、勇気を出して尋ねてみた。


「あのう、奉公先というのは……」

 フレデリックはうん、と頷いた。

「ルネさんという方の屋敷だ。場所は、九区で……。パリに行ったことはあるか」

「いえ、一度も」

「そうか」


 それきりフレデリックは何も言わなかった。ジュールも後が続かなかった。それから先は二人とも黙ったまま、列車に揺られた。


 少しうとうとしたらしい。気がつくとそこはもうパリだった。オステルリッツ駅を出ると、ジュールはキョロキョロと辺りを見回した。御殿のような立派な駅舎、うごめく沢山の人、人、人……。見たこともない景色に思わず唾を呑む。


 フレデリックはポケットから懐中時計を取り出した。一台の馬車が近づいてくるのが見えた。フレデリックはその馬車に合図をした。馬車は目の前で止まり、御者の男が降りて来た。薄汚れた上着を着た不精ひげの男だ。男は何も言わずにジュールの荷物を取り上げると馬車に突っ込んだ。フレデリックはその男に数枚の硬貨を手渡して言った。


「よろしく頼むよ」

 ジュールが怪訝な顔をしているとフレデリックが向き直った。

「僕はここまでだ。あとはこの男について行きなさい」

「え?」


 フレデリックはジュールに顔を近づけるとニヤリと笑った。

 そして背を向けるとあっという間に人ごみの中に消えていった。


 男は黙ってあごでジュールに乗るようにと合図をした。ジュールが乗り込むと男は御者席に座り馬車を出した。


「あの……僕、ジュールといいます」

 ジュールは御者に声をかけた。だがその男は聞こえないのか聞いていないのか、何も答えなかった。


 最初に河を渡った。これがセーヌ河というやつだ。街の中は威圧的なほど背の高い建物が同じ高さで整然と並んでいて、色んな店が軒を連ねている。葉の色の変わり始めた木々が同じ間隔でこれまた整然と並んでいる。

 幅の広い道にはフロックコートの紳士や行商人やドレス姿の婦人や、とにかくあらゆる種類の人間が歩いている。大きな荷物を積み込んだ馬車、沢山の人間を乗せた二階建ての馬車、色んな馬車がぶつかるのではないかと思うほど往来している。その合間を縫うようにして歩行者が道を横断して行く。

 そんな様子を眺めながら、ジュールは別の国に来たような気分になった。これが都会か。本を読んで想像していた街なんて比べものにならない。これが本当のパリという街か。


 口を開けて景色を眺めているうちに先が緩やかな上り坂になってきた。賑やかな通りを曲がると今度は人通りのない狭い道に入った。そしてそこで馬車は止まった。


 男は馬車を降りると後ろのドアを開けた。ジュールは鞄を抱えて降りた。道は細くて先は行き止まりになっている。そして目の前には五階建ての屋敷があった。正面の大きな門は閉じている。


 男が呼び鈴を鳴らした。すると間もなく片方の門が重たく開き、男が出てきた。体つきの大きな隻眼せきがんの男だ。潰れた方の目は青白く濁っている。少し怖かったがこの男はちゃんとしたなりをしている。馬車を引いてきた男はその隻眼の男に目配せすると、何も言わずにまた馬車に乗って去って行った。


「ジュールだね」

 男が言った。はい、そうです。ジュールは鞄を抱いたまま答えた。


「よろしい。旦那様がお待ちだ。こちらへ来なさい」


 ジュールは男の後について屋敷に入った。

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