明暗③
その日もギヨームは本を抱えてルネの店に入った。支配人はいなかった。ギヨームはサロンを見渡した。ジュールの姿がない。
そこへエドガーがやって来た。早足でギヨームに近づくとコートを脱ぐ間も与えず腕を取ってギヨームを店の奥へ連れて行った。
「先生、ジュールはいないよ。部屋で寝てる」
険しい顔をしてエドガーが言う。
「どうした。具合でも悪いのか?」
「それどころじゃないよ」
エドガーが声を潜めた。あいつ、大変な目に遭ったんだ。
「なに?」
エドガーは苦々しい苛立つような顔でギヨームを見た。それから周りを見回すと低い声で言った。
「二階に行こう。ここじゃ話せないから」
二人は階段を上がった。
「先週の水曜日のことだ。その日は結構お客が来て、俺たちはみなサロンを空けていた。ジュールは客にすっぽかされて、あいつだけがサロンに残っていた。ルネは部下を連れて外出中だった。そしたらそういう日に限って客同士の諍いがあって、シモンが屋敷の外に客を引きずり出したりしてちょっとゴタゴタしたらしいんだ。多分そのどさくさに紛れて、その男が入って来たんだと思う」
その夜、サロンに戻ってきたエドガーは、奥の扉から一人の客が出て来るのに気づいた。中折れ帽を目深に被っていて顔が見えなかったが常連ではない気がした。客は扉を振り返ると口もとに笑いを浮かべ、そのまま店を出て行った。
しばらくしてジュールの馴染み客が支配人に近づき、こっそりと耳打ちした。
「ジュールはまだかい。もうだいぶ待っているんだが」
支配人はその時になってようやくジュールが初めて来た客と二階へ上がって行ったことを思い出した。
エドガーはさっき見た客の様子が気になった。嫌な予感がして階段を駆け上がった。部屋のドアに耳を当ててみたが物音がしない。エドガーはドアをノックした。
「ジュール、おいジュール、いるのか」
返事がなかった。ドアノブに手をかけると鍵はかかっていなかった。エドガーはそっとドアを開けた。
赤いランプが灯った部屋の中で、天蓋のカーテン越しにジュールが裸のままベッドの上にうつ伏せになっているのが見える。
「おい……寝てるのか?」
遠慮がちにカーテンを開けたエドガーはアッと声を上げた。
ジュールは気を失っていた。
彼の両手は切り裂かれたシャツで一緒に縛り付けられていた。口には同じようにシャツの切れ布で猿ぐつわがしてあった。体じゅう傷だらけだ。真っ赤な線が背中から尻にかけていくつも走っている。腰には血が滲んでいる。鞭でやられたんだ。咄嗟にエドガーは思った。
「大変だ! おい、しっかりしろ!」
エドガーは急いで両手をほどき、猿ぐつわを外して抱き起こした。ジュールが腕の中でぐったりと仰け反った。エドガーは大声で支配人を呼んだ。他の部屋から客や少年たちが出て来た。みな息を呑んだ。
エドガーはジュールを抱きかかえて叫んだ。
「医者だ! 医者を呼べ!」
✽
「俺はジュールを背負って屋根裏部屋へ連れ帰った。店には置いとけないからね。一時間ぐらい待ってやっと医者が来たよ。あいつは意識があったけど口がきける状態じゃなかった。医者はざっと診てすぐ帰ってった。治るまで待つしかないって」
「それで?」
「ガーゼを替えるたびにあいつは歯を食いしばって涙を流してた。背中が真っ赤になってて、しかも腰のあたりはひどく皮膚が裂けて、思ったより深い傷ができてた。消毒したんだけど結局化膿しちゃって、あいつは三日ぐらい熱を出してた。幸い熱は下がったよ。傷も少しはよくなってきた。でも、あの膿んだところはなかなか治らなくて。やっと昨日あたり塞がったばかりだ」
「ルネはどうした?」
「血相変えて部屋に来たよ。あんなルネの顔見たの初めてだ。後で支配人に怒鳴り散らしてる声が聞こえた。支配人は真っ青になってた。だってあいつのせいだからよ。シモンにゴタゴタを始末させといて、自分はどこの誰かも知らない奴を店に入れちまったんだから。しかも男の顔を覚えてないとほざきやがった。ルネが血眼になってその男を探したけど見つからないよ。手がかりがないんだもの。結局支配人は責任取らされて」
エドガーはこめかみに人差し指を立てて見せた。
ギヨームは眉をしかめて首を振った。
「……あいつ、いつ店に戻れるか分からない。まだ寝込んでるんだ。俺がつききりで世話してるけど、傷が大きすぎるよ、体も、心も。その男のことを訊かれるとひどく震え出すんだ。見ちゃいられないよ」
ギヨームは眉間を押さえた。当然だろう。何ということだ。激しい怒りと悲しみがいっぺんに込み上げてくる。
「俺たちの商売は死と隣り合わせだ」
エドガーがぼそりと呟いた。
「誰がこうなってもよかったんだよ。たまたま運悪くあいつだっただけで……。殺されなかっただけでもマシだと思わなきゃ」
「分かった。来週、また様子を見に来るよ」
ギヨームは持ってきた本をエドガーに差し出した。
「ジュールに渡してくれ。気が紛れるとは思わないが、私にできるのはこれぐらいだ」
そう言い残すと、ギヨームは重い足取りで店を後にした。
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