明暗⑤

「ジュールを引き取るだと?」


 ルネは大きな目をさらに丸くした。昼間に突然現れたと思ったら、ギヨームはいきなりジュールを引き取りたいと申し出たのだ。


「気は確かかね、先生?」

「ああ、確かだとも。ジュールを譲り受けたい」


 ルネは開いた口が塞がらなかった。


「あんたも物好きだね。引き取ってどうするつもりだね」

「ちゃんとした教育を受けさせたい。あの子は優秀な子だ」

「しかし……」

「もう用済みなのだろう、ルネ。あんたも頭が痛いところだ、他所へ売りたくても二束三文だろうからね」


 ルネはじろりとギヨームを見て口を歪めた。

「先生、足元を見るね」

「私に譲ってくれ。頼む」

 ルネはフンと鼻を鳴らした。さあて、どうしようかな……。


 ギヨームは小さく息をつくと少し乗り出して声を潜めた。

「あんたはジュールを幾らで買った? あの子の契約はいつまでだ?」

「ふむ」


 ルネは腕を組んだ。フレデリックにやった金はとうに元を取った。だがジュールにはあと一年半の契約期間が残っている。あんなことにならなければ契約を延長させてもっと稼げたはずだ。いずれにせよあんなに大事にした子をタダでくれてやるわけにはいかない。


「五万フラン出せるかね」


 ギヨームはギョッとした。

「ずいぶん吹っ掛けるじゃないか」

「契約途中で破棄するとなれば違約金が必要だからね。その金額なら手を打ってもいい。だが嫌だとなれば、あの子はバスティーユの港に沈めるよ。今あの子を追い出したところで逆恨みされて店に火でも放たれては困るからね」

「物騒なことを言うな。あんたこそ足元を見るじゃないか」

「先生は大分あれに惚れ込んでるようだからね」

 ルネは挑むような視線でニヤリとする。


「五万フランだ。あいつのためにそこまでできるかね?」


 ギヨームはしばし沈黙した後、ゆっくりと頷いた。

「分かった。手を打とう」


                  ✽


 それからギヨームは怒涛のような日々を過ごした。金は工面した。妻に嘘をついて納得させた。大学時代の友人が亡くなった。十六歳の息子がいるが、身寄りもなく、遺産もないため寄宿学校での勉強を続けることができなくなった。だからせめて大学を出るまで家に住まわせ、後見人として面倒を見たいと説明した。このままでは気の毒だ。優秀な子だからゆくゆくは私の助手にしたい、君も気に入るはずだと強く言い聞かせた。

 妻は戸惑いながらも頷いた。そうね、あなたがそんなに仰るなら。困っている子を放っておくわけにはいかないわね。


 次は肝心のジュールに言う番だった。なぜかこれが一番緊張した。


 サロンの中でジュールはすっかり孤独な存在だった。エドガーはジュールの客を数人顧客にした。悪いな、とエドガーは謝ったが、彼のせいじゃない。ジュールはエドガーが客と奥の扉へ向かうのをぼんやりと眺めていた。


 そこへギヨームがやって来た。いつもの笑顔はない。むしろちょっと怖い顔をしている。

「話がある」

 ジュールは挨拶もそこそこに二階へと連れて行かれた。



「前置きは無しだ。君を引き取りたい」

「えっ?」

「うちにおいで。私が君を引き取る。ここを出るんだ」


 ジュールは眉を寄せてギヨームの目を覗き込んだ。

「先生、何を言ってるの?」

「ルネとは話がつけてある。私の家族も納得している。……まあ、多少、作り話をしたが……」


 ジュールは信じられないという風に瞬きをした。ギヨームの目は真剣だ。


「……本気なの、先生?」

 ジュールは低い声で尋ねた。

「本気で言ってるの?」

 ギヨームはしっかりと頷いた。

「本気だ」


 ギヨームはまっすぐにジュールの目を見つめ、はっきりとこう告げた。


「これはプロポーズだ。まあ、妻はもういるが……。その、君に、うちに来て欲しい。一緒に暮らして欲しい。うちで勉強を続けて欲しい。学校に通って欲しい。君の将来を、私に任せて欲しい」


「先生……」

 ジュールは目をしばたかせた。じんわりと熱い涙がこみあげて来る。


「本当なの? ……本当に? ……本当に?」

「家族になろう」

 ギヨームが微笑んだ。父の目によく似た優しい微笑み。


 ジュールはギヨームの胸に飛び込んだ。

「先生……! 先生…………!」


 ギヨームの腕の中でジュールは久しぶりに声を上げて泣いた。何もかも解き放ったように激しく慟哭した。


 このまま朽ち果てると思っていた。抜け出せない蟻地獄だと思っていた。でもここに差し出された手がある。先生の手が僕を引っ張り上げてくれる。僕はこの手にしがみつこう。先生の手を握ってここから這い上がろう──。


 ジュールの髪に頬ずりをしながらギヨームは優しくその体を抱きしめた。もう何も恐がることはない。大丈夫、これからは私が君を守る。


 涙で濡れたジュールの頬を拭きながらギヨームは言った。

「君のことを教えてくれ。君の歴史を私に聞かせてくれ。知っておきたいんだ。君の歩んできた人生を」


 ジュールは初めて今までのことを語った。田舎の村。山羊番。父の死。ディディエのこと。村を逃げ出したこと。オルレアン。ヤンとの出会い。初恋。そして別れ。だまされて売られたこと。屈辱に耐えきれず自ら命を絶とうとしたことも。


 ギヨームは黙って聞いていた。聞き終わるとジュールに向かってこう言った。


「全て呑み込んだ。君は幸せにならなければいけない。新しい生活をしよう」


 こうしてジュールはルネの店を辞めた。


 パリへ来てから一年と五カ月が経っていた。



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