新しい生活①

 出発の日、ジュールはギヨームの用意した服に身を包んだ。真っ白なワイシャツに細いリボンを結び、黒のベストとズボン、ジャケットに革靴に外套。それはまるでブルジョワの子息のような出で立ちだった。

 ジュールはここへ着いた時に持って来た鞄を下げて屋根裏部屋を出た。あの頃の服はすべて小さくなってしまった。螺旋階段を降りてきたジュールを見て、ギヨームは満足げに目を細めた。


 中庭に出るとエドガーが待っていた。襟巻を鼻まで巻きつけ、泥のついた前掛けをしている。かかとまでのブーツにも相変わらず土がついている。

 ジュールはまっすぐエドガーのもとへ歩み寄った。エドガーは襟巻を下げてニヤッと笑った。


 二人は向かい合うとお互いを強く抱きしめ合った。


「元気でな」

 エドガーが言った。

「君もな」

 ジュールが言った。

「偉くなったら俺を庭師に雇え」

 エドガーはいつもの悪戯っぽい笑顔で言った。ジュールは考えとくよと言って笑った。


 それが叶わないことはエドガーがよく知っていた。

 エドガーはその年の秋、この世を去った。梅毒が原因だった。


 

 ジュールは黙って馬車の外に目を向けていた。袋小路を出て、大きな道をいくつも曲がり、セーヌ河を渡った。ノートルダムの聖堂がずっしりとそびえている。


 あれは十月の初めだった。自分を待ち構えている運命も知らずに馬車に乗せられてルネの屋敷に連れて行かれた日。そして今は来た道とは反対の方向へ進んでいく。ジュールは十年ぶりに外の空気を吸った気がしていた。


 途中で床屋へ寄った。ギヨームはジュールの長く伸びた髪を切らせた。ジョキリという重たいハサミの音を聞きながらジュールは思った。この髪のように過去を切り落とそう。新しい生活が待っているのだ。


 ここで昼食にしようとギヨームが馬車を止めた。賑やかな界隈にあるブラッスリーだった。店内は人で溢れている。ジュールは席に着くとキョロキョロと辺りを眺め回した。


「珍しいかい?」

 ギヨームが笑った。

「僕、こんなところ来たことがない」

 ジュールがこっそりと言った。

「だろうな」

 ギヨームは頷いた。


「家に帰る前にもう一度言っておくよ。君は名前や出生地を変える必要はない。後で書類に差し障りが出ては困る。ただ、君のお父さんには多少履歴を詐称してもらう、いいね。幸いなことに君のお父さんは経歴不詳の山羊飼いだ」

「はい」

 いずれにせよ死人に口なしだ。父さんが聞いたらどんな顔をするだろうと思った。


「心配しなくていい。大学の友人など妻は調べやしない。あれは詮索するような種類の人間ではないからね。私の言うことなら全て正しいと信じている。君のことを根掘り葉掘り尋ねたりしない」

「はい」


 分かっている。嘘で塗り固めなくてはいけない。オルレアン育ちの商人の息子になるしかない。少し気が重いが、そうするより他にない。ギヨームの言葉を信じてついて行くより他に道はない。


 二人の前に皿が運ばれて来た。


「これは何?」

 ジュールが小声で訊いた。

「鴨のコンフィだよ。腹が減ったろう、食べなさい」


 そう言われると急に腹が減った。皿の上の鴨肉はいい色に照りが出て香ばしい匂いがする。ジュールは思わず手を出して骨を掴みそうになり、あわててナイフとフォークを握った。


 いきなり派手な音を立てて肉を切り始めたジュールを見てギヨームは目を丸くした。隣のテーブルの客がチラリとこちらに目を向ける。


「今までルネのところでどんなものを食べてた?」

 周りの視線を気にしながらギヨームは尋ねた。

「どんなって……。スープ。ほとんど毎日。あと野菜の煮たやつ。たまにちょっと肉が入ってた。あとは、覚えてないや。質より量だからね、パンなんかみんな奪い合いさ」

「田舎では?」

「父さんと交代で粥とかスープを作ったよ。中身はキャベツばっかりだったけど。あと、たまに村の人が売り物にならない山羊のチーズをくれた。そうだ、クリスマスの日は鶏の焼いたのを貰ったよ。あれは年に一度のご馳走だった」

「なるほどな……」


 それでよくここまで大きくなれたもんだ。のこぎりを使うような手つきで柔らかい鴨肉を切り刻むジュールを見ながら、ギヨームは軽い眩暈を覚えた。どうやら勉強の他に教えることが山ほどありそうだ。

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