森番②
「すみませんでした。あんなところで倒れるなんて」
ジュールはベッドの上に体を起こしていた。極度に緊張したせいで体が持ちこたえられなくなったのだろう。少し眠ったおかげで顔色は幾分よくなった。
「いや、こっちこそ無理に連れ出すべきじゃなかったよ。君に良かれと思って話を急ぎすぎた」
「あの……、あなたには感謝しています。何とお礼を言ったらいいか」
「どういたしまして」
ヤンは笑いをこらえるような目でジュールを眺めた。傍らの椅子に座ってベッドの上に足を投げ出している。
「お屋敷に戻らなくていいんですか」
「いいんだよ。奥様のお申しつけだ。それに君にはまだ看護が必要だ」
「じゃあ、せめて寝床を取り換えて下さい。僕がベッドにいるのにあなたがそんな床の上で寝てるなんて」
「病人はベッドで寝るものだよ。そうだろ」
「はあ……」
ヤンはジュールを見て小さく吹き出した。
「どうしたんですか」
ヤンは可笑しくてしようがないという風に笑い出した。
「さっきからかしこまっちゃって。お前も現金だね。昨日の口調はどこへ行った?」
ジュールは顔を赤らめた。
「だって、知らなかったから。あなたがここの、お、お坊っちゃんだとは」
ヤンはまた吹き出した。
「勘弁してくれよ。おれはその呼び方は苦手なんだ」
「でも、そうでしょう」
ヤンは皮肉に笑った。
「昨日のおれと今日のおれは同じ人間なんだけどね。君の気持ちも分かるけど、そう態度を変えるもんじゃないよ」
「でも……」
「今まで通り森番だと思って話してくれよ。おれはそうして欲しいんだ」
「そ、そんなことできません」
「分かった。じゃあ理由を教えてやる」
ヤンは笑うのをやめ、ベッドから足を降ろすと椅子に座り直した。ジュールの方へ少し乗り出して、秘密を打ち明けるように声を潜めて言った。
「ジュール、おれはね、使用人の子なんだ」
「え?」
「おれの母さんは女中だったんだよ」
「まさか」
「本当さ。よくある話だろ。屋敷の主人が女中に……ってさ」
ジュールは驚いて、それから急に気まずくなってうつむいた。ベルナールの顔が浮かぶ。なんだか生々しい。
ヤンはクスリと笑った。
「驚くよな。でも親父は根っからの浮気性って訳じゃないぜ。そういうことがあったのは後にも先にも母さん一人きりだったんだから」
そんな話を聞いていいものかとジュールは目を白黒させたが、ヤンはお構いなく続ける。
「その結果母さんはおれを身ごもった。それがイザベルの知るところとなって、母さんはブルターニュの田舎に帰されてそこでおれを生んだ。だからヤニックなんてブルターニュまる出しの名前なんだよ。おれはここに引き取られるまで父親が誰かも知らなかったんだ」
まさか彼がそんな生い立ちだとは思ってもみなかった。ジュールはヤンの淡々とした口調に引き寄せられるように話に聞き入った。
「親父は持参金を持たせて結婚相手を探そうとしたんだけどね、ちょうどプロイセンとの戦争中で独身の男はみな出征して帰って来なかった。だから母さんは生涯独り身のままだった。結局その持参金はおれの学費に化けたよ。当時まだブルトン語しか喋れない人間が多かった中で、母さんはおれにフランス語を覚えさせた。必ず役に立つから勉強をしなさいって。今思えば母さんは正しかったと思う」
ヤンは少し遠い目をして窓の外へ目を向けた。
「母さんが亡くなったのはおれが十歳の時。肺を悪くしてね。亡くなる前に母さんが親父に頼んだんだ。ヤンには他に身寄りもない。だからどこか引き取り手を世話してはもらえないかと。そしたらあろうことか親父はおれを
ヤンは小さく笑った。
「そういうこと。親父は自分の一存でおれを息子にしちゃったわけさ。だから、イザベルやフレッドにとっておれがどういう存在なのか、君にも大体察しはつくだろう」
ジュールは頷いた。肩身が狭いなんてものじゃないだろう。ジュールはイザベルの釣り上がった眉を思い出した。
フレデリックは……。よく分からない。あんまり表情のない人だ。でもジュールのことは穏やかな目で見ていた。悪い人には思えなかった。あの人もやっぱりヤンのことを疎ましく思っているのだろうか。
それでもヤンは伸び伸びとしているように見える。背も高くて男っぽいし、端正な顔だちをしているし、何より明るくて自分に自信を持っているように見える。間違いで生まれた女中の子、なんて後ろめたい感じが一切ない。
十年も経てばきっとこの生活にもすっかり慣れているのだろう。さっきのように屋敷の中にいたって違和感なくとてもしっくりくる。ちょっと粗野なところだってわざとそうしてるみたいに見える。
誰にも臆することなく堂々とできる種類の人間は確かにいる。彼もそういう感じだ。うらやましいな、とジュールは思った。自分とはきっと正反対の人間だ。
「田舎では身の置きどころがなくてね」
ヤンは低い声で続けた。
「おれは父なし子だとからかわれるし、母さんは不埒な女だと後ろ指を指され続けていたし。それでもね、恨み言ひとつ言わないんだ。だからおれも何も言わなかった。周りから嘲笑されようが悪口を言われようがおれにとっては自慢の母さんだった。大きくなったらおれが守るつもりだった。でもああいう人に限って早く死ぬんだよな」
ジュールは小さく頷いた。
ヤンの言葉を聞きながら父のことを思い出していた。
お前の父ちゃんはよそ者だ。だからお前も仲間外れだ。からかわれて泣きながら帰って来るたび、父は優しくジュールを叱った。男の子が泣くんじゃない。お前はこの村で生まれたんだ。だかられっきとした村の人間だ。父の目尻の皺が蘇る。強く優しい自慢の父。大きくなったら僕が代わりに働くつもりだった。でもヤンの言うとおり、ああいう人に限ってあっけなく死んでしまうのだ。
「……おい、聞いてるの?」
ヤンがジュールの顔を覗き込んだ。なんだい、人が切ない身の上話をしているのにぼうっとして。
「ごめんなさい」
ジュールが恐縮するとヤンは小さく笑って窓の外に目をやった。
「久しぶりに思い出したな、母さんのこと」
窓の外を見つめるヤンの横顔には少しだけ淋しい色が差している。額から鼻の少しとがった輪郭はベルナールにも似ている気がする。
ヤンが独り言のように呟く。
「親父は母さんのこと愛してたと思うよ。じゃないといくら自分の子供とはいえ使用人の子なんか引き取ったりしないだろう」
「……確かに」
「だから親父には感謝してるんだ。あの人が父親でよかったって思ってる」
ジュールは黙って頷いた。
「おれはね、運命ってものは自分でいくらでも切り開けると思ってるんだけど、でもきっかけはやっぱり他人が作用するものだろう。もしおれが親父に引き取られなかったら、おれは今でもきっとあのブルターニュの田舎にいただろうから。そしてあの場所しか知らないまま一生を終えていたかも知れないからね。まあ、それはそれで幸せだったかも知れないけど、今となってはもう想像もつかないよ。ここじゃ誰かにひとこと言えば何でも手に入る。暮らしに事欠くなんて縁の遠い言葉だ。自分がこんなに恵まれた環境で生きて行けるなんて、本当に親父のおかげだよ」
父親への感謝の気持ちを繰り返した後で、ヤンは少し言葉を切った。
「ただ、どうしてもね……。おれの立場は中途半端だ。みんなには坊っちゃんと呼ばれる。でも、その心の中の目で見ているおれは、悪気があってもなくても女中のコレットの息子だ。そういう矛盾はね、十年経っても、二十年経っても、きっと変わらないような気がするんだ」
それからふとジュールを見て小さく苦笑した。
「こんな話をして悪いね。君に分かるかな。そんなに真面目に聞いてくれるとついべらべら余計なことまで言ってしまいそうだ」
「そんなことは」
ジュールが首を振ると、ヤンはクスッと思い出し笑いをした。
「昨日は楽しかったよ。君のぶっきらぼうな口調が可笑しくってさ。なんだろう、久しぶりに素の自分で誰かと話をしたような気持ちになった。だから君にはそのままでいて欲しいんだ。おれのことはヤンって呼んでくれ。頼むから、坊っちゃんなんて呼ばないでくれよ」
ヤンの目を見ながらジュールは思った。きっとこの人は孤独なのだろう。あんなに屋敷に溶け込んでいながら、心の奥にはいつも疎外感を持っているのだろう。それでも周りから坊っちゃんと呼ばれることに、どうしても白々しい気持ちを抱いてしまうのではないだろうか。
ジュールはゆっくりと頷いた。
「うん……分かった」
ヤンは満足そうに微笑んだ。
「あの……。お医者さんになるの?」
少し遠慮しながらジュールは訊いた。
「うん。今はパリの大学で医学を専攻してる。去年は兵役で中断させられたけどね。普段は大学のそばのアパートに住んでるんだけど、今は夏休みだからこっちにいるんだ」
森番だと偽った男が医学生なんて、本当にひとを食ってる。昨日の格好を見たら誰も医者の卵だなんて思わないはずだ。寝ぐせのついた髪に不精ひげを生やし、ズボンからシャツのはみ出たヤンの姿を思い出して、ジュールは低く笑い出した。
「なんだよ、何が可笑しい」
「だって、嘘ばっかりなんだもの」
ジュールはクスクス笑いながら言った。
「悪かったよ」
つられてヤンも笑い出した。笑いながらジュールを横目で見て、嬉しそうに言った。
「やっと笑ったね」
「え?」
「よかった。早く元気になってもっと笑ってくれよ。おれ、ここじゃ笑い顔に飢えてるんだ」
ジュールは少し頬を赤らめて頷き、ぼそりと言った。
「僕は、てっきり追い出されるかと思ってた」
ヤンは呆れたような顔をした。
「行くあてがないんだろう。それならここに居ればいい。それだけのことさ」
「あんな話を旦那様にしていたなんて」
「フフ、そういうの嘘も方便っていうんだ。森番よりはマシな嘘だろう」
ヤンは笑いながら立ち上がり窓を閉めた。ガラスにヤンの顔が映った。ジュールはその顔を見ながら、自分を助けてくれたのがこの人でよかったと心から思った。
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