森番③

 ジュールとヤンの同居生活は奇妙なほどうまく行っていた。数日のうちにジュールは回復し、顔色もよくなった。食欲も出てきた。


 ジュールはまるで昔からの知り合いのような気安さをヤンに感じ始めていた。ヤンはよく喋り、よく笑う。ジュールが回復しても彼はマットレスで寝ると言って聞かず、休暇中ぐらい好きにさせてくれと言って笑った。だから結局お互いの寝床はそのままということになった。この開放的で気取りのない青年と共に寝起きするうちに、ジュールは少しずつ安心感を覚えるようになった。


 ヤンはジュールを連れて森へ入った。


「親父は狩りが好きでね、自分の森で狩りをするのが唯一の趣味なんだ。普段は下男のフェルナンに森を任せてるんだけど、フェルナンは今事情があって里に帰ってるのさ。いつ戻って来るか分からない。彼がいない間にこんなになっちゃったよ」


 目の前の枝をかき分けながらヤンが言った。彼は勝手にフェルナンの服を借りて着ている。編み上げの靴を履き、デニム地のズボンに平襟の麻のシャツという格好はまるで農民みたいだ。こうしていると彼が屋敷の子息だということを忘れそうになる。


 私有地というけれどおそろしく広い森だ。お金持ちの人はこういうところで狩りをして遊んだりするんだ。動物を撃ったりして楽しいんだろうか、とジュールは思った。ジュールの知っている動物はみんな大切な家畜だ。たまに使い物にならない山羊を村の人が処分していたようだが、それだって苦渋の決断だ。動物は遊びで殺すもんじゃない。でもそんなことを言ってはいけないと思ったので、ジュールは黙ってヤンの後をついて行った。


「この森はあんまり動物がいないんだよ。だから、フェルナンがイノシシの子供や鹿の子供やウサギなんかをどこからか仕入れてきて、こっそり森に放つんだ。親父は何も知らないで狩りの季節になるとフェルナンを連れてその動物を撃ってるわけさ。考えりゃ自分で買った動物を自分で殺してるんだから馬鹿馬鹿しい話だよな」


 ヤンが冷めた口調で言った。ジュールは意外な顔をしてヤンを見た。


「そう思わないか?」

「うん……」

 ジュールが頷くとヤンは皮肉っぽく呟いた。

「そんなことを言いながらおれも結構親父につき合ったんだ。でももう飽きた」


 荒れた森の手入れはかなり大変だった。ヤンは鎌を持って木々に巻きついた蔓を切り取って見せた。こういうのは放っておくと駄目なんだ。木が呼吸できなくなる。苦しがってるから取ってやらないと。それからヤンは木の名前や野草の名前などをジュールに教えた。ジュールが感心すると、全部フェルナンの受け売りさと言って笑った。


「枯れ枝は冬のために集めておこう。君は枝を拾ってくれ。おれはこの辺の蔓を切るから」

 ジュールはその言葉に従った。森の中は木陰が多く、乾いた風が吹いてくると汗ばんだ背中に心地よかった。


 二人はそれから黙々と仕事をした。


 器用な手つきで木の枝を束ねているジュールの背中を見ながらヤンは考えていた。

 一体こいつは何者なのだろう。髪は伸びっぱなしで女の子と見紛うような顔をして、十五歳にしては小柄な細い体つきの少年。口数が少なく、笑顔を見せるわりには自分のことは喋ろうとせず、ただ大人しくヤンのあとをついてくる。


 そう、彼は何も言わない。ここへ来てからもう何日も経つのに、どうしてたった一人でこんなところまでやって来たのか、話そうともしない。別に詮索しようというつもりはない。何か隠しているのならそれでも構わない。


 ただ、どうしても気になることが一つだけある。彼が毎晩うなされていることだ。


 絞り出すようなジュールの声が聞こえ始めるとヤンは目を覚まし彼の枕もとに近づく。何度か声をかけるとジュールはハッとして目を覚まし、申し訳なさそうに起こしてごめんと謝る。一体何の夢を見ているのだろうかとヤンは想像した。ここに来るまでに何があったのだろう。でもジュールは決してその理由を言わない。あんな悪夢を見ているのに朝になると何事もなかったかのように振舞っている。彼は元気になったふりをしているだけだ。心の中には何かが引っかかっていて、それがあんな風に毎晩彼を苦しませているのだ。あのうなされ方は尋常じゃない。見ているだけでこちらまで辛くなる。どうすれば楽になるのか、何か些細なことでもできることはないかとヤンは考えていた。


 森からの帰り道に畑のそばを通った。道なりに沢山の白い花が咲いていた。


「この花は何?」

 ジュールが訊いた。

「それはカミツレだよ」

 そう言ってヤンはふと考えた。


「まだ咲いてるな。ちょっと摘んでおこう」

「どうして?」

「君に飲ませるんだ。お茶にして」

「へっ?」

「寝つきがよくなるんだってさ。よく眠れるかどうかは分からないけど飲んでごらんよ。うなされてるだろ、毎晩」


 ジュールは不安になった。あの夢のせいだ。自分が毎晩ヤンを起こしていることはよく分かっている。でもどんな夢なのか説明する勇気はない。


「……そんなにひどいの?」

 ジュールが上目遣いでヤンを窺った。

「いや……」

 ヤンはそれ以上言わず、カミツレの花を摘んだ。


 その夜、ジュールは花の浮いた湯をそっと飲んだ。黄色く染まった湯は変な匂いがしてお世辞にも美味しいとは言えなかった。それでもヤンの気持ちを思ってジュールはそのまずい茶を飲み干した。結局効き目はなかった。


 次の夜もまた次の夜もジュールは花の入った湯を飲んだ。でもやっぱりあの夢を見た。


 ヤンはベッドの端に座ってその様子を見ていた。ジュールは眠ったまま泣いている。手のひらで腕をしきりにこすり、眉間にきつく皺を寄せて、か細い声で悲しそうに独り言を繰り返している。ヤンはジュールの耳もとに顔を近づけて、そっと声をかけた。


「ジュール。ジュール……」


 ジュールが目を開けた。濡れた睫毛をしばたかせてヤンを見た。額には汗が滲んでいる。


「……効かないんだね、あのお茶」

 乱れた息の中で力なく呟いた。


「……なあ、外に出よう」

「え?」

「星を見に行こう」

 そう言ってヤンは微笑んだ。


 

「最高だなあ。パリじゃこうは星が見えないんだよ」

 ヤンが嬉しそうに空を見上げた。


 小屋のすぐ裏には小さな川がある。手提げランプで足元を照らしながら二人はこの小川の前まで来た。


 空には満天の星が広がっている。草の匂いが青く、ひんやりとしている。もう夜も深い。真っ暗な中にヤンの持ったランタンと空の星だけが光を放っている。


 ヤンは明かりを置いて冷たい草の上に腰を下ろした。ジュールも隣に座った。

 どこからかジャスミンの花の香りが風に乗って漂ってきた。いい香りだ。ジュールは目を閉じて深呼吸した。


 二人はしばらく黙って空を眺めていた。


「……僕のうちの近くはもっと星が見えるよ」

 ジュールがぼそりと言った。


「そうなのか?」

「田舎の方じゃ星が近いんだ」

「そうか。ここだって街から離れてるけど」

「丘の上にあるのさ。だからもっと星が目の前に見えるんだ」

「へえ。いいな」

「うん。いいとこだよ」

「ずっとそこに住んでたの?」

「うん」


 ジュールは少し間を置いた。


「仕事はほとんど山羊の番だった。村の人たちの山羊を預かって放牧場へ連れて行くんだ。父さんと一緒に。あとは、畑の仕事とか、他の家畜の世話とか。色々やった」

「へえ」


 ジュールはまた黙った。何か考えごとをするように川面を見つめている。

 そして低い声でヤンに言った。


「ねえ……。どうして僕がこんなところまで来たか、聞いてくれる?」

「ああ、いいよ」

 ヤンはジュールを見ずにぼそりと答えた。


 ジュールは星空に目を向けた。

 それから決心したように口を開いた。

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