ジュールの話①

 僕にはお母さんがいない。僕が生まれたときに亡くなったんだ。お母さんの両親も僕が生まれる前に亡くなっていた。だから父さんが一人で育ててくれた。


 僕の育った村では山羊を飼っている農家がほとんどでね。チーズを作ってる家が多かった。僕らは普段山羊の世話をしたり、畑の仕事を手伝ったりする代わりに、食べ物や家で使うものなんかを貰って暮らしてた。

 家は村の外れにあった。納屋を無理やり家にしたような場所だった。父さんはもともと村の人じゃなくて、だから、そこしか住むところがなかったんだ。


 畑の向こうになだらかな丘があって、僕らはそこで山羊たちを放牧していた。そうすると狭いところで育てるより美味しい乳が出るから。

 丘の牧場まきばは広くていい草がいっぱいあった。父さんは僕が赤ん坊のころからいつも僕を背負って牧場に行っていたそうだ。母乳の代わりに僕は山羊の乳で育ったんだよ。


 父さんはエリックという名前で、背が高くて無口で、喋ると少しだけ訛りがあった。目が青くて、笑うと目尻に皺ができてすごく優しい顔になるんだ。


 でもね、実を言うと、僕は父さんのことそれ以上知らないんだ。村に来る前に何をしていたかとか、どんなところに住んでいたかとか、一度も話してくれたことがないから。色んなところに住んでいたから忘れちゃったんだって。僕がしつこく訊くと、いつもおかしな答えばかりして、笑ってごまかすんだ。

 でもそのうちそれが僕たちの遊びみたいになってね、今度はどんなでたらめな答えが返って来るだろうと思って、僕は同じことを繰り返し訊いたものさ。


 村の人たちだって、父さんがどこから来たのか知らなかった。でもベルジェって名前だから、おおかた先祖代々羊や山羊の番でもしていたんだろうなんて言っていた。


 父さんはあまり感情を表に出さない人だった。僕が村の子にいじめられて泣いたりすると、父さんはよく叱ったものだ。男の子が泣くんじゃない。涙っていうのは本当に悲しいときに流すもんだって。

 嫌なことがあっても嬉しいことがあっても、父さんはいつもと変わらない少し怖い顔で黙っていた。そして二人きりになると、目尻に皺を寄せてこっそり笑いかけてくれた。その笑顔を見ると僕は心から安心した。


 僕は父さんと山羊番をするのが好きだった。山羊は人懐っこくてすばしっこくて、とても可愛いんだよ。群れを離れる山羊がいたら父さんは駆けて行ってあっという間に捕まえて来るんだ。そのうち僕も大きくなって、小学校に入る頃は山羊を追いかけるのは僕の仕事になった。

 

 父さんはディディエさんという家に毎日通っていた。この家は村で一番大きくて、山羊も一番たくさん飼ってるんだ。放牧に連れて行く犬もこの家の犬だった。土地もいっぱい持っていて、人に貸したり、畑で作人を雇ったりしていた。


 小さい頃から知っているディディエさんは、僕にとってはまるで親戚のおじさんみたいな感じだった。僕たちは仕事はもちろん生活の色んなところでディディエさんに頼っていた。

 奥さんはカミーユといって、怒ると怖いんだけど、とても気立てのいい人でね。働き者で、家の中のことを全て一人で切り盛りしていた。それに料理がとても上手なんだ。二人っきりで暮らしている僕たちのことを気にかけて、たまに食べ物を分けてくれたりした。父さんの作るスープはお世辞にも美味しいとは言えなかったから、おばさんが分けてくれると僕は喜んだものさ。


 それからこの家にはアランっていう同い年の男の子がいて、僕たちは幼馴染でとても仲が良かった。彼は正義感が強くて、思いやりがあって、他の子が僕を仲間外れにしても、アランだけはかばってくれた。僕にとっては彼が唯一の友達だったんだ。

 アランは毎日小学校に行ったけど、僕は休みがちだった。仕事が忙しい時は僕だって手伝わなきゃいけないし、父さんはどうしてかあまり僕を学校にやりたくないようだった。僕は勉強が好きだったんだけどね。でも僕が休んだ日は、アランが習ったことを教えてくれた。今でもすごく感謝してる。


 毎日食べていくのにも精いっぱいの、貧乏な暮らしだった。いつもおなかを空かせていたし、同じ服ばかり着ていたけど、それでも僕は幸せだった。大きくなったら父さんのためにちゃんとした家を持ちたいって思っていた。それから自分たちの山羊を飼って、畑を買って。そうやって父さんと一緒に生きて行くつもりだった。


 でも、父さんとの別れは、僕が思っていたよりもずっと早くに来てしまった。

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