森番①

 ジュールはベルナールに連れられて屋敷へ向かった。歩くとまだ少し頭がふらふらする。ヤンが見守るように後ろからついて来た。


 ずっしりとした迫力のある館はもう百年以上も前からあるのだという。それでも貴族の別荘としては小さい方だとベルナールが言った。


「この一帯の土地と屋敷は私の父が買い取ったものだ。畑の方は小作人に任せてある。私は自分の商売で留守にすることが多いもんでね」


 ベルナールは貿易商で、イギリスやアメリカとの取引がほとんどだという。フレデリックという長男がおり、父親の会社のあとを継ぐため、片腕として働いているという話だ。

 貿易、外国、屋敷、財産……。


 ジュールにとっては別の世界の話にしか聞こえなかった。ジュールは村の生活を思った。

 山羊の群れ、牧場、貧しい家、そしていつもそばにいた父……。


 それが全てだった。

 そしてそれだけで幸せだった。



 広い玄関のホールから廊下を進むと居間があった。ジュールの家がいくつも入りそうなほど広かった。天井は二階まで吹き抜けになっていて、その高いところからシャンデリアが下がっている。大理石に絨毯を敷いた階段がうねりながら上に伸びている。

 壁には額縁に入った肖像画がたくさん掛かっていて、別の壁には立派な角を持った鹿の頭が突き出している。金色の装飾がついた赤褐色の家具はどれも丁寧に磨かれてピカピカに光っている。ジュールは初めて見る資産階級ブルジョワジーの部屋に圧倒され、思わず目を見開いた。


 居間の真ん中には足の丸く曲がった低いテーブルがあり、刺繍の施された長いソファがあった。そこには紫のドレスを着たイザベルが腰を下ろしていた。こんなドレスの女性をジュールは見たことがなかった。どこかの城のお后のようだと思った。


 イザベルはジュールを見ると眉尻を上げて値踏みするような目つきをした。ジュールは帽子を握りしめた手に汗をかくのを感じた。

 

 フレデリックは一人掛けのソファからジュールを眺めていた。その脳裏には窓から覗き見た彼の姿が蘇る。背中から腰にかけてのしなやかな線、きれいに灼けた肌。そしてその完璧な顔の造形。

 目の前にいる少年の淡い栗色の髪はブラシを入れたのか肩のあたりで緩やかにカーブしている。色の褪せた青いシャツを着て、つぎはぎだらけのズボンを身につけているが、そのみすぼらしい格好が逆にこの少年の美しさを際立たせる。緊張して硬くなった顔はむしろ咲きかけのつぼみのように繊細で可憐だ。フレデリックはジュールと目が合うと思わず口もとをほころばせた。


「フェルナンが戻ってくるまでここで働いてもらおうかと思ってね」


 ひと通り紹介し終えるとベルナールが本題を切り出した。


「なんですって?」

 イザベルが甲高い声を上げる。ヤンの予想通りだ。


「身寄りをなくしてオルレアンで仕事を探すつもりだったらしい。ちょうどいいじゃないか」

 もちろんこれは先ほどベルナールに対してヤンがでっち上げた話である。


「そんな、急にあなた、そんなこと仰っても」

 イザベルは動揺を隠せない様子で抗議した。

「もうだいぶ治ったようだし、ヤンにいて少しずつ仕事を覚えてもらえばいい。こいつは森をよく知ってるから」

「でも、いくらなんでもこんな……」

 さらに食い下がるイザベルをベルナールは苛立つような声で遮った。

「いつまでも森をああいう風に放っておく訳にはいかんだろう。ヤン一人じゃ大変だ。若い助っ人がいると助かるとこいつも言ってるんだよ。何が不都合だ」

「だってあなた、この子は浮浪……」

「いいじゃありませんか、お母さん。こちらも森の管理をしてくれる人間がいると助かる」


 それまで黙って聞いていたフレデリックがイザベルを制した。ヤンはそれを見て意外に思った。フレデリックが助け舟を出すとは予想していなかったのだ。


「フレッド、あなたまでそんな」

 イザベルは目を丸くしてフレデリックを見ると、今度は刺すような視線をジュールに投げかけた。


「……分かりました。好きになさったらいいわ」


 ヤンがニヤリとした。

「じゃあ決まりですね」

 ベルナールがジュールを振り返った。

「ではジュール、頼むよ。……おい、どうした?」


 ジュールの頭がぐらりと揺れた。ヤンがまずいと思った瞬間、ジュールは真っ青な顔をしてその場に倒れてしまった。


                  ✽


 その夜、ベルナールとイザベルの寝室でちょっとした諍いがあった。ヤンはジュールを背中に担いで小屋へと引き返し、そのまま食事の時間にも戻って来なかった。オスカーに問いただすと、坊っちゃんはしばらくあの少年と一緒に小屋で暮らすと言って譲らないと困惑した顔を見せた。


「ヤンに何を言った?」


 ベルナールが問い詰めるとイザベルはきっとして眉尻を上げた。


「あの子が拾って来たのだからあの子が面倒を見るのは当然でしょう。安心して置いておけるまで小屋で見張っていなさいと言ったのよ。どこの馬の骨か分からないものを一人にする訳には行かないわ。屋敷に忍び込んで泥棒でもされたらどうするの。だいたい夏のあいだ森番の代わりをすると言ったのはあの子なんですもの」


「しかし食事まであの小屋でしろなどと……」

「それは私じゃないわ。ヤンです。ヤンが自分から言い出したんです」

 イザベルはそう言った時のヤンの目を思い出した。


 ──分かりました。兄さんも帰って来たことだし、親子三人水いらずにして差し上げますよ。その方がお互い気が楽でしょう──。


 ジュールを背負ったままヤンはそう言うと皮肉な目をしてイザベルに微笑んだ。その明るい茶色の瞳を見てイザベルの体中に鳥肌が立った。やっぱりこの子はあの女にそっくりだ。


 イザベルは恨みがましい調子で続けた。

「あなたやフレッドが留守の時はあの子と二人きりでテーブルに着かなければいけないのよ。私の気持ちも察して頂きたいわ」

「まだそんなことを言っているのか。もう引き取ってから十年になるんだぞ」

「だから息子だと思えとでも仰るの」

「そこまでは言わんが、しかし、」

「あなたにとってはお気に入りの息子でしょうが、私にとっては赤の他人なのよ。ひどいわね、自分のことは棚に上げて私一人を責めるんですもの。そもそもこうなったのはどなたのせいかしら」


 ベルナールは気まずくなって黙り込んだ。イザベルはしたり顔で夫の横顔を眺める。


 召使いは召使いの子に世話をさせればいいのだわ──。 


 そもそもイザベルにとっては昔からヤンが視界に入るのが耐え難かった。どうしてもあの小間使いのコレットが頭をよぎるからだ。無垢なふりをして、若さと美しさだけで夫を寝盗った、憎たらしい娘。あんなにいやだと言ったのに、なぜあの女の子供などと一緒に暮らさなければならないのか。


 ヤンの顔を見るたびにつくづく胸が悪くなる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る