山羊飼いの少年④
「よう。着換えを持って来たぜ」
ヤンが小屋の寝室へ入ると、ジュールはシーツで体をぐるぐる巻きにしてベッドの上に転がっていた。
ヤンは思わず吹き出した。
「それじゃエジプトのミイラだ。ほら、これを着てろ、おれのお古で悪いけど」
そう言って手に持った着換えをジュールに放ってよこした。
「ありがとう」
ヤンは隣の部屋で持って来た食糧をテーブルの上に置いてのんびりと片付け始めた。ジュールはその隙に急いで寝巻を着た。裾の長い寝巻は少し大きかったが、何も着ていないよりはるかにましだ。
ヤンが壁ごしに声をかけた。
「お前、ジュール・何ていうんだ?」
「ベルジェ」
「ふうん。家は何の仕事してるの?」
ジュールが答えないでいると、ヤンが顔を覗かせた。
「まただんまりか。助けてやったんだから少しぐらい教えてくれてもいいだろ」
「……山羊飼い」
「え?」
「山羊飼いだよ」
「ほんとに?」
ヤンは笑い出した。
「ジュール・ベルジェ(山羊飼い)か。なるほどね。へえ」
「嘘じゃないよ」
「いや、疑っちゃいないよ。そうか、まさに山羊飼いのジュールってわけだ」
「じゃあんたの苗字は?」
「ルグランだ」
「なるほど、ル・グラン(大きい男)か。名は体を表すってやつだね」
「減らず口をきくな。親はどうした?」
ジュールは黙って首を振った。
「いないのか?」
ヤンが訊き返したその時、ドアのそばでデュックが小さく吠えた。
やって来たのは三十年来この家に仕えているオスカーである。いつも仕立てのいいフロックコートに眼鏡をかけた初老の執事だが、さすがに夏なのでコートは省いていると見える。
「坊っちゃん」
オスカーが小さい声でヤンを呼んだ。ハンカチで鼻を押さえ、戸口に突っ立ったまま中に入ろうとしない。
「どうした、オスカー」
ヤンが近づくとオスカーは声を潜めた。
「旦那様が、もし、その子が、歩けるようなら、お屋敷の方へ連れて来いと」
「まだ駄目だよ。あと一日二日は安静にしていないと」
「さようですか。……ではまだこちらにお泊りで?」
「うん、あの子が一人で動けるようになるまではその方がいいだろう」
「しかし何もこんなところに……。あ、そうそう」
オスカーは手にしていた服をヤンに手渡した。
「ジョスリーヌから預かりましたよ。直せるだけ直したと申しております」
「ありがとう。恩に着るよ」
満面の笑みで礼を言うヤンを見て、オスカーは憎めないなという風に苦笑しながら戻って行った。
「ほら。お前さんの衣装、返すよ」
ヤンは寝室に戻りジュールにシャツとズボンを渡した。ジュールは服を広げて驚いた。捨てられたと思っていた服は洗濯されているばかりでなく、ほころびや破れまできれいに繕ってある。
「あ、ありがとう……すごいや……」
ジュールは真剣な顔で魔法でも見るように瞬きしている。ヤンは胸の中が少しこそばゆくなった。
✽
小屋の台所ではスープの温まる匂いが立ち込めていた。ヤンが屋敷から小さな鍋に貰って来たのだ。
台所と呼ぶのは大袈裟なくらいの小さな片隅だが、食料を収める棚や水瓶、そしてストーブも兼ねた小さな
ここはベルナールの要望に応えて物置を狩りの準備や後始末のために改造した小屋だが、そのうちこの下男本人が森の管理をするようになってここで寝起きし始めた。そしていつしか皆からかい半分にフェルナンのことを森番と呼ぶようになった。
ヤンは家の中でこの森番に一番懐いていた。彼といるのが楽しくて子供のころからこの小屋にしょっちゅう入り浸っていた。
少し風変わりで色んな話を知っているフェルナンはヤンの好奇心を満たしてくれる存在であり、オスカーや他の使用人に変わり者扱いされようがどこ吹く風で飄々としている彼と一緒にいると、いつも心の隅で感じていた窮屈さを吹き飛ばしてくれるような気がした。フェルナンは笑いながらよく言ったものだ。坊っちゃんはお屋敷よりもここにいる時間の方が長いようですよ、と。
家族がほとんど来ることのないこの小屋は、言ってみればヤンにとっての隠れ家のようなものだ。だからここに寝泊まりすることなんか苦にならない。むしろ心地よいぐらいだ。
温まったスープをボウルに移すとふわりと湯気が立った。
ジュールはベッドの上に体を起こしている。ヤンがボウルを持ってジュールのそばへ座った。
「スープは飲めるかい?」
生温かい匂いが鼻の先まで届き、ジュールの顔がこわばった。
「少しずつ食べられるようにならないと」
ジュールは苦しそうな顔をして首を振る。
「いらないの? 美味いぜ」
ジュールはまた首を振る。押し問答のようにスプーンを行き来させた後、ヤンはしびれを切らして自分の口に入れてしまった。
ジュールは目の端でヤンの様子をじっと見ている。
「腹減ってるんだろう。ほら」
ヤンは微笑んでもうひと匙すくって見せた。
「この調子じゃおれが全部飲んじゃうよ」
悪戯っぽい目で笑うヤンを見て、ジュールの心の中で何かがほどけるような感触がした。ヤンの方へ少し体を乗り出すと、ジュールは遠慮がちに口を開いた。
ヤンは黙ってスプーンをジュールの口に押し込んだ。
優しい味が口の中に広がる。スープなんてもうどれぐらい口にしていなかっただろうか。
「美味しい……」
ぼそりと呟くジュールをヤンは見つめた。長い睫毛が目の下に影を作っている。
そっとボウルを差し出すとジュールはおずおずと手を伸ばして受け取り、ゆっくりとスプーンを口に運んだ。
もう一杯スープをお替りしてから、ジュールはまた眠り始めた。
ヤンは台所のテーブルで本を読んでいたが、ふと寝室の方へ目を向けて考えた。
名前はジュール。十五歳の山羊飼い。親は多分いない。今分かるのはそれだけだ。どこへ行くつもりだったのだろう。何も持たずに森の中をさまよって、一体どうするつもりだったのだろう。
窓から吹き込む風でろうそくの火がゆらめいて消えそうになった。もう夜も遅い。そろそろ自分も横になろうとヤンは椅子から立ち上がり窓を閉めようとした。
その時、寝室から急にうなり声が聞こえた。ヤンはそっとベッドへ近づいた。
ジュールが眉間に皺を寄せてうなされている。ひどく辛そうだ。何か口の中で言っているが言葉になっていない。
「おい、どうした」
ジュールは腕をさすりながらまた口の中で何か繰り返した。
「おい!」
ヤンが肩に手を置くとジュールは目を開いた。息が荒い。
「大丈夫か。悪い夢でも見たのか」
ジュールは驚いた目をしてヤンを見上げた。ここが分かるかと訊くと、ジュールはヤンをじっと見て頷いた。それから安堵したように大きなため息をついた。
「ジュール、お前……、どこか行くあてはあるのか?」
ヤンが低い声で尋ねるとジュールはぼんやりとした目でかすかに首を振った。それから眠りに吸い込まれるようにまぶたを閉じた。
翌日の朝はすっきりと晴れていい天気になった。
ヤンがジュールの口から体温計を抜いた。
「すっかり熱が下がったな。あとは体力をつけないと」
ジュールは訝しげにヤンの手つきを見ている。
「ねえ、あんた本当に森番なの?」
「え?」
「昨日の喋り方とか……。なんかお医者さんみたいだよ」
ヤンは口ごもった。
「いや……その……」
その時戸口の方から大きな声がした。
「いい加減茶番はやめたらどうだ。もう怪しまれてるじゃないか」
ヤンが驚いて振り向くと、そこにはベルナールが笑いながら立っていた。
「わざわざいらしたんですか」
「うん、気になっていたのでね、様子を見に来たんだよ。どうだね、具合は」
「熱は下がりました。まだ体は弱っていますが、もう心配要りません」
ベルナールはジュールのそばへ近寄り、顔を覗き込んだ。ヤンが隣から言った。
「このうちの旦那様だよ」
ジュールはびっくりして跳ね起きた。それを見たベルナールが苦笑しながら尋ねた。
「君の名前は」
「ジュ、ジュール・ベルジェといいます」
ジュールはどもりながら答えた。ベルナールはにっこりと頷いた。
「ベルナール・ルグランだ。よろしくね」
「はい、あの、こちらこそお世話に……えっ?」
ジュールは咄嗟にヤンとベルナールを交互に見比べた。
「ル……グラン?」
ヤンが小さく吹き出した。
「これは私の息子、医者の卵だよ」
ベルナールが愉快そうに笑う。ジュールは唖然としてヤンの顔を見た。
「どうりで……森番だなんて……」
ヤンが頭を掻いた。
「ごめんよ、本当はだますつもりじゃなかったんだけど、君がそう思い込んでるもんだからやめられなくなっちゃって」
「ひどいや……」
恥ずかしさで耳まで赤くなる。
「しかし、見違えたね。先日の姿が嘘のようだ」
ベルナールは目を細めてジュールを眺めた。
「お父さん、ちょっと」
ヤンはベルナールに声をかけるとジュールをチラリと見て父親と一緒に小屋から出て行った。窓の外で何か話し込んでいる。
ジュールが不安な気持ちで待っていると、しばらくして親子は戻って来た。
「もう歩けるかい?」
ベルナールが尋ねた。
「はい。なんとか」
ジュールは緊張しながら答えた。
ベルナールは微笑んでこう言った。
「じゃあ今から屋敷においで。うちの者に紹介しよう」
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