報復②

「ジュール?」


 フレデリックは意外な顔をした。あれはもう終わった話だろう。あそこへは一度行ってせいせいした。ジュールなど病気でもうつされてとっくに死んでいるだろうとすら思っていた。


「ジュールがどうした」

「彼に会ったんですよ、こないだ」

「へえ?」


 まだ生きていたのか、と言いそうになってフレデリックは口をつぐんだ。


「今リセに通っているそうです。大学を目指すと言ってました」

 フレデリックは眉を上げた。

「それはまた突飛な話だね」

「突飛じゃありません。彼は這い上がったんです。あなたが突き落とした地獄から、這い上がって来たんですよ」

「僕が突き落としただって?」

「そうでしょう」

「奉公先を斡旋してやったのに地獄とは穏やかじゃないね」

「地獄でしょう。だまされて娼館に売られては」


 フレデリックは鋭い目つきでヤンを一瞥した。


「彼は、まだ苦しんでる。大学教授の家に引き取られようが、学校に行って優秀な成績を取ろうが、その痛みが消せないんですよ。終わったことにできないんですよ、あなたみたいに」

「ふん。あいつがそう言ったか?」

「言いません。でも分かります。逃げられてしまいました。おれには知られたくなかったと」


 フレデリックは白けた顔でヤンを見た。

「お前まだあの子に未練があるのか? もう二十四だろ、いい加減にしろ」

「そうです、未練たらたらですよ」

 ヤンは自嘲した。それから兄を睨みつけた。

「兄さんが彼にしたことをおれはどうしても許せない」


 フレデリックは鼻で笑った。

「ふん、ちょっと仕置きが過ぎたかね」 

「度が過ぎましたね。そのせいでおれは前へ進めません。あんまり悔しくて夜も眠れない。この怒りをどう鎮めようかと考えてね。そしたら一つしか方法が思い浮かばなくて」


 そう言うとヤンは隅に立てかけてある猟銃を目で捉えた。


「フェルナン、ちょっと一挺借りるよ」


 ええ、どうぞ。フェルナンの呑気な声が奥から聞こえる。ヤンは立ち上がって銃を手に取った。


「おい、何の真似だ」

「あんたに死んでもらわないとおれの気が済みません」


 フレデリックは一瞬絶句した。が、すぐに冷ややかに笑った。

「馬鹿馬鹿しい。そんなもので脅すつもりか。幼稚な真似はやめ……」


 袋から弾薬を掴み出したヤンを見てフレデリックの頬がこわばった。


「……おい……冗談だろ……」

「冗談に見えますか」


 ヤンは顔を上げてフレデリックを一瞥した。その眼を見たフレデリックは咄嗟に立ち上がった。


「お前気は確かか。それを早く仕舞え……」

「お父さんに狩りを教わっておいてよかった。こんな時に役立つんですね」


 ヤンは弾を装填するとガチャリと銃身を閉じた。


「馬鹿なことを言うな。フェルナン、おいフェルナン!」


 フェルナンは答えない。ヤンは足を一歩踏み出し、ゆっくりと猟銃を持ち上げた。


「よさないか!」


 フレデリックは小屋を飛び出した。さっきより雨脚が強くなっている。ヤンが銃を持って小屋を出て来た。後ろは川だ。


 ヤンが猟銃を構えながら言った。

「じっとしてて下さいよ。ウサギじゃないんだから」

「よせ、馬鹿なことをするんじゃない!」


 フレデリックは後ずさった。足が川の中に入って行く。水の冷たさなど感じない。目の前には銃口が向けられている。川の水は思いのほか流れが速い。足を取られそうだ。弟は気が狂っている。フレデリックは恐怖に駆られた。

 

「やめろ! やめないか!」

「ジュールもやめてと叫んだはずだ」

「やめてくれ! 頼む!」

「ジュールもそうやって必死になって頼んだはずだ」

「それを下ろせ……!」

「ジュールは死のうとさえしたんだよ。あんたはあいつを殺しかけたんだよ。あんた、自分がどれだけ残酷なことをしたのか分かってるのか。分からないんなら今分からせてやるよ!」


 ヤンはフレデリックに照準を合わせた。フレデリックは手を挙げながら川の真ん中で立ち尽くしている。


 ヤンは引き金に添えた指に力を込めた。


「やめてくれ……!」


 銃声が二度響いた。

 川の向こう側の木々で雨宿りをしていた鳥たちが一斉に飛び立った。


 雨の中を真っ白な煙が漂って消える。猟犬が激しく吠えながら走り回る。フレデリックは全身の力を失ってへなへなと川の中にひざまずいた。


 小屋から出て来たフェルナンが空の薬莢やっきょうを拾いながら訊いた。


「坊っちゃん、何か仕留めましたかい?」

「……いや。外した。弾を無駄にしたよ」


 フレデリックはまだ川の中で震えている。ヤンは川べりに寄ってフレデリックに手を差し出した。フレデリックは這いずりながらヤンの手に掴まった。ヤンはフレデリックを引き上げた。引き上げざま、彼の耳もとに囁いた。


「今度おれの邪魔をしてごらん。次はあんたの頭に穴をあけてやるから」


 フレデリックは何も答えず、頭から足の先までぐっしょりと濡れて屋敷へ戻って行った。


 ヤンはフェルナンに猟銃を返しながら低く呟いた。


「フェルナン、おれも、神様を捨ててしまったような気がするよ」

「いいえ。坊っちゃんはまだ大丈夫。あたしには分かってました」

 森番はそう答えると小さくつけ加えた。


「相変わらずお上手ですよ。……外すのも」


 雨に濡れながらフェルナンはニタリと笑った。


 ヤンは、その日のうちにパリへ戻った。

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