報復③
ジュールがギヨームの家へ来てからもう三年目に入った。もうすぐバカロレアの二次試験がある。ジュールは必死で勉強した。余計な気持ちを切り捨てるように、目の前にある目標だけに集中しようとした。もう何にも囚われたくなかった。ただ前を向いていたいだけだった。
あの夜のことが頭をかすめるたび、ジュールの胸は重苦しく痛み、後悔でつぶれそうになった。
再会したことに有頂天になっていた自分は考えの足りない馬鹿だった。やはりもう会ってはいけない人だったのだ。白々しく過去を隠しとおすつもりでいた自分のなんと浅はかなことか。彼の目におのれの姿がどう映ったのかを思うと、居てもたってもいられず、恥ずかしさで消えてしまいたくなる。
ジュールは昼も夜も机にかじりついていた。きつい目をして自分を奮い立たせるように勉強に没頭した。
大学はギヨームの通った高等師範学校に目標を定めた。先生について行くのだ。わき目も振らず、ただ目の前のレールを走る列車のように、過去を後ろにして。
そんなジュールをギヨームはただ黙って見守った。あれはもう昨年のことだったか──。
あの日、ヤンに会いに行ったあの夜、ジュールは二時間もしないうちに戻ってきた。打ちひしがれた様子で、目を真っ赤にして。ギヨームと鉢合わせるとうつむいて肩をすくめた。
「……人なんか好きにならなきゃいいのに」
低い声でそう呟くと部屋に入ってしまった。
その後しばらくは特に口数が少なくなった。家族の前では無理やり微笑んでも、部屋の中でひっそりと泣いていることがあった。ギヨームは心が痛んだ。が、本人が何も言わないうちは余計な詮索はしたくない。胸の内を打ち明けて欲しかったが、簡単に本音を漏らす子ではないことはギヨームが一番よく分かっている。若いうちの恋とは往々にして上手くいかないものだ。でも時間が解決してくれる。そう思っていた。そしてジュールの恋が破れたことに、どこか心の隅でほっとしている自分がいるのだった。
✽
『公共教育省は、ジュール・ベルジェを文学バシュリエとして認め、ここに中等教育修了の免状を与えるものとする。一八九六年七月……』
合格証書を読み上げるギヨームの声が喜びに震えた。ジュールはついにバカロレアの二次試験に合格した。
「ジュール……! おめでとう! おめでとう……!」
ギヨームは嬉し涙にむせびながらジュールを思い切り抱きしめた。
「よく頑張った。よくここまで努力した。大丈夫、道は開けたよ」
合格証書を何度も読み返しながらギヨームは感慨に耽った。
ルネの店で埋もれていた宝の原石を見つけ出したのは自分だ。あの時ギヨームが恋に落ちた十五歳の少年は、聡明に輝く十九歳の若者に成長した。そうだ、ジュールは私の磨いた宝石だ。自分の手で磨き上げた宝石が光を放ち始める、こんな幸せがあろうか。これから先がもっともっと楽しみだ。
「先生のおかげです」
「お前はいつもそれだ」
ギヨームは涙を拭きながら笑った。
「もっと自分を評価しなさい。もっと自信を持つんだ」
ジュールは困った顔で微笑んで頷く。いつもの顔だ。ジュールは決して本心を見せない。喜ばしいことがあっても有頂天になったり大きな声で叫んだりしない。いつも胸の中に収めてしまう。育ちを偽って暮らす生活にも慣れたようだが、同時に心の中を隠すのにも慣れてしまったようだ。
「こんな嬉しい時にはもっとお前と一緒にいたいんだがね、」
ジュールの手を握りしめながらギヨームが言った。
「出張に出なければならない。学会で五日間マルセイユに行く。帰ったらゆっくりと話そう」
「あなた、気をつけて行ってらっしゃい」
エレーヌが微笑む。エレーヌはこのところ言葉少なだ。忙しさにかまけて話す機会も少ない。帰ったら皆でどこかへ出かけるのもいい。
出発の日、ギヨームを見送るジュールの背中にエレーヌが声をかけた。
「ジュール、少しいいかしら。あなたに話があるの」
「はい」
ジュールは返事をすると居間に入った。エレーヌが数枚の封筒を持ってジュールに向き合った。
✽
「ジュール……。あなたは私の知っているジュールではないのね」
「え……?」
エレーヌは封筒を差し出した。
「去年の暮れあたりに、おかしな手紙が届いたのよ。私宛に」
ジュールは封筒を受け取った。差出人の名前はない。便箋を取り出して広げた途端、ジュールは目を見開いた。そこには乱暴な字でこう書いてあった。
『ジュールはピガールの男娼だ』
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