報復④

 息を呑み食い入るように文字を見つめるジュールにエレーヌはそっと言った。


「最初はたちの悪い悪戯だと思ったの。あなたを妬む誰かの嫌がらせだと。でも同じような手紙がまた二通届いたの」


 別の封筒を手に取る。便箋には、

『ジュールはお宅の旦那と寝ている』

『お宅の旦那はジュールの売春相手だ』

 と書いてあった。

 ジュールの背中に冷たいものが走った。悪意に満ちたその字面に底知れない恐怖を覚えた。


 エレーヌが心細い声で言った。


「主人に相談しようかとも思ったの。でも勇気がなかったわ。こんな悪質な戯言ざれごとを信じるのかと叱られそうで……。でも気になって。心の中に雑念が膨れ上がっていくの。それを晴らしたかったの。……それで、卑劣なことだとは分かっていたけど、或るところにあなたのことを調べてもらったのよ」


「えっ?」

 ジュールは顔を上げた。

 エレーヌは大判の封筒から数枚の書類を出して手渡した。

「読んでごらんなさい」


 ジュールは書類に目を走らせた。


 ──これは──!


 体から血の気が引いていくのを感じた。

 

 そこに書かれていたのは、ジュールのだった。

 ジュールはオルレアンの商人の息子などではなかった。義務教育すらまともに受けられなかった田舎育ちの山羊番だった。その山羊番は十五歳の時に消息不明になっていた。父が死んだのは三年前ではなく、もう五年も前の話だった。


 その父に関する記述もあった。エリック・ベルジェという人間はギヨームとは何の接点もない人物だった。それどころか、この人物はフランス人ですらなかった。


 ジュールをたった一人で育て上げた父の正体は、普仏戦争の際にオルレアンで負傷して逃亡したプロイセン兵だった。南へ流れ着いたこの脱走兵はフランス人になりすまし、四十一歳で他界するまで誰にも正体を知られることなく、田舎の村でひっそりと暮らしていた。エリックと呼ばれていた名前も本当の苗字もドイツ語の綴りだった。


 ジュールは目を疑った。淡々と述べられたその事実を読みながら、自分の知っている父が急に別人になってしまったような気がした。


 ジュールは気が動転しながらもさらに読み進めた。


 どこから調べたのかオルレアンのことまで書いてあった。貿易商の家で下男として働いていたものの、素行不良のため約二か月で解雇されたとあった。ヤンの名前がどこにもなかったのがせめてもの救いだった。


 しかしその後のルネの屋敷のことについてはあからさまだった。ジュールがルネの店に売られた日、そしてルネの元を去った日づけが正確に書かれてあった。ルネの店がどんな店か、ジュールが何をしていたか、そしてどんな客を取っていたのかすらも克明に記されていた。そして勿論、そこにはギヨームの名前もあった。


 もうこれ以上何も説明することがないぐらい、全てが明らかにされている。文章の一語一句がジュールを嘲笑あざわらうように躍っている。ジュールは真っ裸にされた上に体の皮膚を一枚一枚剥がされていくような感覚に襲われた。


 書類を握りしめ、戦慄した表情で唇を震わせているジュールをエレーヌはじっと見つめていた。


「……この通りなのね、ジュール」


 エレーヌは目を伏せてため息をついた。

「その店で、あなたは、ギヨームと……、」

 言い淀み、ためらうようにこう続けた。


「……あなたが家に来る少し前かしら。あの人、祖母から受け継いだ田舎の土地を売っていたの。私に内緒で。私は知らないことになってるわ。あなたをその売春宿から買い取るためだったのね。フフ、あなた、随分高くついたのね」


 エレーヌが皮肉に笑った。ジュールは恥ずかしさで泣きたい気持ちになった。


「先生は、僕に、とても善くして下さいました。優しくて……」

 ジュールは自分がどんどん墓穴を掘っていくのを知りながら役に立たない言い訳をした。

「本を貸してくれたり、勉強を教えてくれるようになってからは、僕には指一本触れたりしないで……」

「やめて頂戴、汚らわしい!」


 エレーヌが声を荒げた。ジュールはびくりとして息を詰まらせた。


「一度あったことは何度でも同じよ」


 エレーヌは想像してしまう。ギヨームがジュールに口づけするところを。その肌に触れるところを。自分にするのと同じことをジュールにもしているところを。

 なんとおぞましい。鳥肌が立つ。しかし、それにもましてそんな関係を疑いもしなかった自分に、二十年も連れ添ってきた夫に別の顔があることすら知らなかったおのれの愚かさに涙が出るほど情けなくなる。


「ジュール、あなたは、ギヨームを愛しているの?」

 エレーヌは怖いほど真剣な目でそう尋ねた。

「僕は……僕は、先生を、尊敬しています」

 ジュールはどもりながら正直に答えた。

「そう」

 エレーヌは頷いた。

「あなたがギヨームをそそのかしたのではないことは私にも分かるわ。あなたは本当に優しくていい子ですもの。でも、実際はあなたの方が一枚上手ね。自分が這い上がるためにギヨームを踏み台にできるのだから」


 ジュールは思わず首を振った。

「僕は、決して、そんなつもりでは」

「つもりの話じゃないの。事実を話しているの」

 ぴしゃりとそう言ったエレーヌの瞳は青白い炎のように静かな怒りに燃えていた。


「自分にはその気持ちはないくせに、愛されていることを分かっていてそれを利用するのは一番卑怯なのよ。あなたにそのつもりがなかったとしても、結果としては同じことをしたのよ。ギヨームの愛情につけ込んであなたは欲しいものを手に入れたじゃないの。そうでしょう。私の言っていることは間違っているかしら?」


 ジュールは口をつぐんだ。えも言われぬ重たいものが胸の上に落ちた。


 エレーヌはため息をつき、少し間を置いた。そして伏し目がちに、独りごとのように呟いた。


「本当の自分を見せられない生活は苦しかったでしょうね。涼しい顔で嘘をつき通さなければいけない暮らしは、息が詰まることだったでしょう。もういいのよ。お芝居は終わったの。ギヨームの脚本は本当によくできた話だったわ。あなたもよく演じ切ったこと。でも、男の人たちってずるいのね。女には、夫の言うことを全て鵜呑みにする愚かな妻の役しかくれないんですもの」


 その言葉にジュールはぐうの音も出なくなった。

 エレーヌは疲れ切った顔で首を振った。


「でももうおしまい。私は役を降りるわ。幕を引きましょう。私にはもうこの役を続けることはできない。何もかも知ってしまった後では……」

 苦しそうにそう言うとうつむいて沈黙した。


 ジュールはもう一度報告書に目を落とした。だがもう何も目に入らなかった。文字が滲んではこぼれ落ちていく。何かがボロボロと崩れ落ちる感覚だけがしていた。そうだ、砂の城だ。どんなに高く積み上げても足元の波にさらわれてあっけなく崩れてしまう。自分がこの二年半ものあいだ必死に築き上げてきたものは、こんなにも簡単に壊れてしまう、もろく、儚い、砂の城だった。


「……これを、いつ……?」

 かろうじてジュールは声を出した。


「これを受け取ったのは、三月だったわ」

 エレーヌは静かに答えた。

「三月……?」

「あなたは試験の勉強をしていたから」

「……え?」

「この話は、あなたが合格してから。そう決めていたの」 

 エレーヌは弱々しく微笑んだ。


「エレーヌ……」


 ジュールの頬が歪んだ。なんてことだ。この人は待っていてくれたのだ。僕が試験に受かるまでの何カ月もの間、こんな辛い話をひとりで胸に仕舞っていてくれたのだ。それどころか、夜遅くまで勉強するジュールに、みずから温かい飲み物をいれて持ってきてくれた。冷えては体に毒だとそっとひざ掛けを置いてくれた。こんなに優しい人を、母のように優しい人を、僕は長い間ずっとだまし、傷つけていたのだ。なんという仕打ちだろう……!


 涙が溢れた。


「ごめんなさい……」

 それしか言葉が出てこなかった。

「ごめんなさい。エレーヌ、ごめんなさい……」

 ジュールはすすり泣きながら繰り返した。


「もう駄目なの、私」

 エレーヌは目を伏せて呟いた。

「あなたと主人を見ていると、心が壊れそうになるのよ」

 エレーヌの頬に涙が光った。


「私、あなたのこと大好きだったわ、ジュール。本当はずっとだまされていてあげたかった。でもね、もう耐えられないのよ。取り返しがつかないところまで来てしまったの。自分の心がこれ以上恐ろしく醜く膨れ上がるのが、もう耐えられないの。あなたがギヨームのそばにいると思うと、ギヨームの心があなたのそばにあると思うと、もう……」


 エレーヌはそう言うと、こらえ切れずに嗚咽した。

 ジュールは黙ってうなだれた。涙が次々にこぼれ落ちた。


「分かってくれるわね、ジュール」

 精一杯凛としてエレーヌは顔を上げた。

「私には暮らしがあるの。夫がいて娘がいるの。私はこの暮らしを守らなくてはならないの。……分かってくれるわね」


 分かります。涙を拭いてジュールは言った。


「……出て行きます。今すぐに」



 当座の着換えだけ詰めた鞄を抱えてジュールは部屋を出た。手には合格証書の入った手提げ鞄を持っていた。玄関でエレーヌが声をかけた。


「これは、私の自由になるお金です。使って下さい」

 そう言ってそっと封筒を渡した。


 ジュールは頭を下げた。

「長い間、お世話になりました。……先生に、ありがとうと、伝えて下さい」


 ジュールはギヨームの家を後にした。


 ジュールはひたすら歩いた。涙が頬をつたい落ちて行く。すれ違う人々が不思議そうな顔で振り返る。ジュールは構わず歩いた。ここから遠ざかりたい。早く遠ざかってしまいたい。


 セーヌ河の河岸まで歩いて来ると、ふと足を止めた。

 緑色の河が夏の陽に照らされて光っている。河に浮かんだ洗濯船の上では女たちが賑やかに話をしながら洗い物をしている。


 その光景を見つめながらジュールは声を上げて泣いた。涙があとからあとからこぼれ落ちた。


 僕はあの人たちが好きだった。頼もしい父のようなギヨームも、あたたかい母のようなエレーヌも、お喋りで愛らしい妹のようなマチルドも、おせっかいで口うるさいアンヌも。嘘でも偽りでもいいから、あの人たちとずっと家族ごっこをしていたかった──!


 でも、もう終わった。

 嘘で固めた人生は、あっけなく、崩れ去った。



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