同棲

同棲①

 ヤンは疲れた足取りで賑やかな夜の週末の通りを歩いていた。女なんか買いに行くものじゃない。馬鹿な真似をしたもんだ。


 赤毛の娼婦は蔑むような顔でヤンを見下し、フンと鼻で笑った。

 ──あんた本当は女になんか興味ないんだろ。

 女にはお見通しのようだった。

 ──いい男だと思ってついてくりゃこのざまだ。あんたみたいな男の相手するほどこっちも暇じゃないんだよ。

 身も蓋もなくそう言うと、そそくさと身繕いをして宿から出て行ってしまった。


 こんなことで気持ちをごまかそうとしたって無駄だ。自分をおとしめるだけに決まってる。分かっていたくせに。ヤンは自嘲した。結局自分が求めている人間はたった一人しかいないのだ。


 しかしそのたった一人の人間は、あの夜、ヤンの手をすり抜けて逃げてしまったままだ。元気でいるだろうか。試験には受かったのだろうか。もう十九になったはずだ。今頃何をしているのだろう……。



 そんなことを考えながらアパートの階段を昇ると、ドアのところで暗がりに人影がうずくまっているのが見えた。ひざを抱えて座り、顔を突っ伏している。


 ヤンが怪訝に思って近づくとその人影は顔を上げた。その顔を見てヤンは思わず声を上げた。


「ジュール!」

「やあ……。遅いね。こんな時間までどこ行ってたのさ?」


 ジュールはふらりと立ち上がった。腕には手提げ鞄を抱きしめている。


「どうしてここに?」


 ヤンが尋ねるとジュールは下を向いてフフと自嘲するように小さく笑った。そしてヤンを見返すと切羽詰まった声で言った。


「お願い……少し休ませてくれないか」


 肩で息をしているジュールの額に手を当てるとひどく熱かった。

「熱があるじゃないか。さあ入れよ」


 よろけるジュールの肩を抱いてヤンは部屋の鍵を開けた。


                  *


「こんなに汗をかいて。脱げよ、体を拭いてやるから」


 ジュールを長椅子に座らせるとヤンはバケツを下げて部屋から出て行った。ジュールはゆっくりとシャツのボタンを外した。頭がぐったりと重い。色んなことを訊かれるのだろうな。ちゃんと説明しなければ。


 ギヨームの家を出た日、ジュールはただ茫然とパリの街を歩き回った。どこへ行けばいいのか分からなかった。ヤンのアパートを思ったが、すぐに考えを消した。


「馬鹿野郎、気をつけろ!」

 辻馬車がジュールの目の前を通り過ぎ、ひどく怒鳴られた。驚いて舗道に引っ込んだ拍子に人とぶつかった。すみません。ジュールは口の中で呟いてまたぼんやりと歩き出した。とにかく寝る場所を探さなければ。ふと上着の内ポケットに手を入れた。


「ない……!」


 エレーヌのくれた封筒はなくなっていた。他のポケットも探したが見つからない。すられた。ジュールは真っ青になった。ポケットに残っていた金は十五スーだけだった。どうする? 途端に喉が渇いた。水を一杯だけ貰おうとそばのカフェに入った。カウンターに立ってジュールが水を頼んでいる間に、足元に置いた旅行鞄もなくなっていた。


 それから四日間、ジュールは手提げ鞄だけ抱いて街の中をさまよい歩いた。パンを買って飢えをしのぎ、公園のベンチで寝たが、浮浪者に囲まれてしまった。結局なけなしの十スーをやって、この二日ほどは夜じゅう街を歩いてひたすらやり過ごした。それも限界が来た時、足はいつの間にか彼のアパートに向かっていた。



「馬鹿だな。どうしてもっと早く来なかった」


 ヤンは長椅子に腰かけたジュールの首筋を拭きながらため息をついた。

「無一文になってしかもこんな体でほっつき歩くなんて……」


 呆れるとも責めるともつかない声でヤンはぼそりと呟き、それ以上何も言わなかった。タオルを絞る水の音だけが小さく部屋の中に響く。


 少しだけ沈黙が流れた。


「……ねえ、あの時みたいだね」

 ジュールがぼそりと呟いた。 

「うん?」


 オルレアンで僕を助けてくれた時さ、とジュールは言った。僕は熱を出してて、気がついたら君がいた。まさか介抱してくれてるなんて思わなかったから、僕は誤解して、礼を言う前に君に怒鳴ったっけね。そう言ってジュールは小さく笑った。


「そうだったな」


 ヤンも微笑した。あれが始まりだった。傷つき汚れて行き場を失くしていた十五歳のジュールと目の前のジュールが重なる。知らぬ間に大人の体になった彼の背中は、それでも華奢でどこか頼りない。


 隣に座ってその背中を拭きながら、ヤンはそこにケロイドになった傷があるのを見つけた。腰のあたりにミミズ腫れのように膨らんだ線が三つ交差して走っている。


「これは……」

「ほら見つかった」

 ジュールは皮肉な笑いを浮かべた。

「僕の汚点だよ。覚えてる? 君に余計なことを喋った男がいたろ。あいつにつけられた傷だ」

「あの男が?」

「これでもね、だいぶ小さくなったんだよ。……多分、一生消えないけど」


 そう言ったジュールの声はもう低く沈んでいた。


「ジュール……」


 ヤンはタオルをバケツへ投げ込むと、肩を掴んでジュールを正面から見つめた。ジュールはうつむいたまま唇を噛んでいる。ヤンはそっと彼の額に自分の額を押しつけた。灼けるようなジュールの体温が伝わってきた。今まで彼のたどってきた苦しみが、そのままこの熱になって額に沁みてくるようだ。できることならこの熱を全部吸い取ってやりたい。ヤンは額を押しつけたまま、ぎゅっと目をつむった。かけるべき言葉が見つからない。こんなときどう言ってやればいいのか分からない。


 するとふいにジュールが口を開いた。


「ヤン、……僕を、ゆるすって言って」


「……え?」

 ヤンは額を離し、ジュールの顔を覗き込んだ。

「何を言ってるの」 


 ジュールは目を伏せたまま、思い詰めたような声でもう一度言った。

「僕のことを、赦すって、……そう言って」


「ゆるすだなんて……」

 ヤンは戸惑いを隠せずにその顔を見つめた。しかしジュールは眉間に皺を寄せ、息を震わせながら、なおも同じ言葉を繰り返した。


「お願い……どうかそう言って。赦すって……僕のことを赦すって……言って……!」


 やるせない気持ちが喉の奥へこみ上げてきた。ヤンはジュールの顔をじっと見つめた。額に垂れ下がる汗ばんだ髪を、目の下の隈を、肉の削げた頬を見つめた。

 胸に突き上げてくる痛みををこらえながら、ヤンは頷き、そしてゆっくりと答えた。


「君を……ゆるすよ……」


 低く澄んだ声がジュールの耳に響いた。その言葉は清らかな水のようにジュールの心に沁みた。ジュールの口からかすかなため息がこぼれた。熱で潤んだ瞳がためらいがちにヤンを見上げた。


 ヤンは思わずジュールを胸に掻き抱いた。


「もういい、もう何も言わなくていい……!」


 ぐったりと力の抜けたジュールの体を抱きしめながらヤンは繰り返した。何も言わなくていい。誰も君を責めやしない。君はただ必死に生きてきただけなんだから……!


 ジュールの頬に涙がつたった。目を閉じると胸を震わせて深く呼吸をした。ヤンの首筋は、懐かしい、甘い匂いがした。


「ああ……ヤンの匂いだ」


 そう呟いた途端、張りつめた感情が一気に溢れ出した。ヤンの背中をぎゅっと掴み返すと、ジュールはこらえ切れずに叫んだ。


「逢いたかった……! ずっと、ずっと、君に逢いたかった……!」


 凍りついていた心がヤンのぬくもりで溶けてゆく。涙になってどんどんこの胸を濡らしてゆく。


 ヤンは汗で湿ったジュールの髪に顔をうずめて強く抱擁した。

「おれだって同じだよ。ジュール、ずっと君のことを想っていた。ずっと……!」


 ジュールの頬を捉え、その唇に狂おしく口づけした。昔と変わらない、ジュールの柔らかい熱い唇は、涙の味がした。


「……泣くなよ……しょっぱいだろ……」


 自分が泣いていることも忘れて、ヤンはジュールの頬を拭きながら笑った。

「そっちだって……」

 ジュールも泣きながら笑った。


 二人は今までの空白の時間を埋めるように抱きしめ合い、お互いの気持ちを確かめるように涙の味がする口づけを何度も繰り返した。


 夏風邪なら一緒にひいてしまえ。ジュールの火照った体をきつく抱きしめながらヤンは思った。自分が求めていた人間が今ここにいる。もう離さない。


 一緒に暮らそう。ジュール、また一緒に暮らそう──。

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