故郷④
まっすぐに見つめられてジュールはうろたえた。しばし迷った後、ジュールは正直に話すことにした。いずれにせよもう隠し立てすることなど何もない。男性と恋に落ちたことも、娼館で体を売ったことも、その客に引き取られてかりそめの家族生活を送ったことも、全て失って
神父はじっと目をつむり、黙って聞いていた。話し終えてもしばらく沈黙が続いていた。
「カトリックの神父様にとっては、とんでもない話ばかりでしょう」
ジュールは自嘲気味に言った。
神父は小さく首を振り、ジュールを見つめた。
「君は強いな」
思いがけない言葉にジュールはたじろいだ。
「強くなんか……。いつも不安で、ビクビクして……」
「でも君は生き延びたじゃないか」
神父は言った。
「足を引っ張られそうになりながらも、悲しみを後ろにして生き延びてきたんだろう。それだけで充分だと思わないか」
そして小さく微笑んだ。
「君は強いよ」
アランにもその強さがあったなら……。神父は目を伏せてぼそりと呟いた。
「……アランは僕によく勉強を教えてくれました。彼がいたから、僕は勉強を続けてこられた。彼に感謝しています」
「ふむ、エリックは学校が嫌いだったからな。いくら義務教育だと言ってもなかなか聞かなかった。愛国精神など学ぶより、目の前の人間を愛することを知る方が大切だと、そう言ったよ」
ジュールはクスリと笑った。父さんらしい。
神父はそんなジュールの顔を観察するような目でしばらく見つめていた。それから少し表情を崩し、探るような口調でこう言った。
「君はまだ学業に未練があるのだろう」
ジュールの目を見つめて神父は続けた。
「かといって大学に行く目的はなくなった。自分の道が分からなくなった。違うかい?」
あまりにもピタリと言い当てられてジュールは困惑した。目的はなくなった。道が分からなくなった。そう、簡単に言えば、そういうことだ。
すると神父は少し調子を変えてこう言った。
「教える側にまわってみるのはどうだ?」
ジュールは驚いて顔を上げた。
「……どういうことです?」
「師範学校に行ってみないか」
「師範学校?」
神父は頷いた。
「初等師範学校だ。要するに小学校の先生を育てるところだ。県にひとつずつある。無論、学費は無料だ。三年間の寮生活になるが。どうだ、教師になってみる気はないか。君の免状なら何の問題もない」
ジュールはうろたえて神父を見つめた。
「でも、僕のような人間が教師など……」
「君のような人間こそ、教師になるべきだと思わないか?」
神父の言葉に思わず瞬きした。
「……え?」
「何をしてきたかなんて具体的なことじゃない。痛みを知り、生き残る強さを持った人間のことを言っているんだ」
低いが芯の通った声で神父は答えた。
「そして、それが何より君のためになるんじゃないか」
──君には勉強する権利があるんだ。何に遠慮してるんだ。誰に遠慮してるんだい──。
脳裏にヤンの声が響いた。
──もっと図々しくなれよ。自分のために生きろよ──。
自分のために──。
心の奥に押さえつけていた思いがむらむらと蘇り胸いっぱいに湧き上がる。神父の目を見返しながら熱いものが込み上げる。これは最後の鍵だ。これは、僕に与えられた、最後の鍵だ。
「もし君にその気があるのなら、推薦状も用意しよう」
その言葉にジュールはハッと思いつき、鞄からギヨームの推薦状を出した。
「……これを、役立てることはできるでしょうか」
神父はゆっくりと推薦状に目を通した。そしてジュールの目を見てにっこりと微笑んだ。
「……大いに役に立つね」
✽
四年後。春。
授業の終わりを告げる鐘が鳴った。生徒たちはわあと歓声を上げて次々に机から立ち上がった。
「先生さようなら!」
「さようなら、また明日」
小さな背中が我先にと教室から出て行く。
一人の生徒がにこにこしながらジュールに近づいてきた。
「あたし、先生にお手紙書いたのよ」
そう言って折りたたんだ紙をジュールに渡した。
「ありがとう。気をつけて帰るんだよ」
ジュールはにっこりとその手紙を受け取った。見送ってから開いてみると、『わたしは大きくなったら、せんせいとけっこんしたい』と書いてあった。ジュールは思わずフフッと笑った。おませな子だな。
秋に赴任してから半年が過ぎた。赴任先は自分の通った学校だ。子供はまとまるとなかなか大変だ。先生と呼ばれるのもなんだかくすぐったい。授業も何もかもまだ手探りだ。それでも毎日は充実している。必要とされることが幸せだと感じる。
片付けていると村の人間が一人、息を切らして教室の窓から顔を覗かせた。
「ジュール、あ、いや、先生! 終わったばっかりのところ悪いけどね、ちょっと手伝ってくれないかね?」
「どうしたんです?」
「先生が着いたんだよ、ロッシュ先生の後釜が。荷物を運び込んでるんだけどもう少し人手が欲しいんでね、頼みますよ! いやあよかった、これでもう町まで医者を呼びに行かなくてすむ!」
村人は嬉しそうな声を上げると窓から姿を消した。ジュールも急いで支度をして学校を出た。
その家は先月引退して南仏の方へ越して行った村医者の自宅兼診療所だった。家の前には荷馬車がとまっていた。入口の扉が大きく開いていて、畑仕事の手の空いた人間が数人、荷物を担いでは家の中に運び込んでいる。
「ああ、来てくれたのかい、助かるよ。これ、診察室に頼む」
「はい」
村人から渡された箱を抱えてジュールは中に入って行った。
入ってすぐ左のドアが診察室。昔ながらの診察台もその横の古い机もそのままだ。新しい医者はおそらく居抜きで使うつもりだろう。
後ろから棚を担いできた二人組が部屋の奥にいる人間に声をかけた。
「先生、これはどこに置くつもりだね?」
先生と呼ばれた男が振り返った。その途端、ジュールは手をすべらせた。どさりと音がして箱が床に落ちた。
そこに立っていたのは──。
「ああ、その角に置いといて下さい」
ヤンは二人組に答えるとジュールに目を向けた。
「やあ」
そう言ってヤンはニヤリと笑った。
「荷物を落とさないでくれよ。道具が入ってるんだから」
ジュールは自分の目を信じられず口を開けたまま突っ立っていた。ヤンが近寄って箱を持ち上げた。
「……久しぶり」
ジュールの顔を覗き込むとヤンは小さく囁いた。
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