故郷⑤

 村人が一人また一人と帰って行く間、ジュールは家の中を片付けるふりをしながらずっと様子を窺っていた。まだ心臓が波打っている。

 最後の村人が帰った後、ヤンが診察室からジュールに声をかけた。


「入れよ」


 ジュールは診察室に入った。ヤンは棚の中に本を並べている。


「すまないね、驚かせて」


 ジュールは小さく首を振った。何と答えればいいのか分からない。


「ロッシュ先生が色々置いて行ってくれたんで助かったよ。これで初期費用がだいぶ浮いた」


 ヤンはジュールの顔を見てクスッと笑った。


「頼むから、いつまでもそんな顔しないでくれよ」

「だって……」

「元気そうだね」

「うん。……元気だよ」


 長旅でもしたのかヤンの顔は少しやつれ、うっすらと不精ひげが生えている。ジュールはオルレアンで初めて会った時のことを思い出した。


 ヤンが棚に目を戻しながら言った。


「おれ、親父に勘当されたんだよ」


「へえっ?」

 ジュールは目を見開いた。唐突に何を言うかと思ったら。


「勘当されたって」

「あの時は驚いたよ。帰って来たら君はいないし、親父がすごい顔でおれを待ち構えてるし」

「……ああ……」


 ベルナールがヤンの部屋に入って来た時、ジュールはもう出て行く準備をしていた。鞄にはもう荷物が詰めてあった。ただ最後にヤンにひと言だけ残したかった。


「修羅場だったんだぜ。親父が鬼のような顔して、どういうことだ! って。おれはてっきり親父がまた君を追い出したんだと思い込んで、負けずに怒鳴り返してさ。仕舞いには勘当だ! だよ。もう援助はせん! って、えらい剣幕で言われた。親父とあんなにやり合ったのは初めてだ」


「……ごめん」

 ジュールは困惑して視線を落とした。


「苦学生ってのは文字通り苦しい学生だな。おれはお坊っちゃんだったんだ。コンスタンの苦労が身にしみて分かったよ。いまだに借金が残ってる」


 コンスタンの名前がすんなりヤンの口から出たのが意外だった。


「でもあきらめずに続けてよかった。また君に会えた」

 そう言うとヤンは穏やかに笑った。


「……どうしてここに?」

 ジュールが尋ねるとヤンは窓の外へ目をやった。


「おれに分かってたのは二つ。君がきっと田舎に帰ったのだろうということ、そして、君はきっと勉強を捨て切れないだろうということ」


 ジュールは苦笑した。相変わらずヤンにはお見通しだ。


「いろいろ考えたんだぜ。それで、ある時ふと思いついてね、アンドル県の師範学校の学生名簿を調べた。なかなかやるだろ? 君の名前を見つけたときは小躍りしたよ。おれは天才だ、って」


 ヤンは屈託なく笑った。ジュールは呆れて小さく笑った。


「よくそんな真似をしたね」

「するさ。どんな真似だって。君を見つけるためなら」


 おどけた調子でそう言った後、ヤンはふと真顔になった。


「一年前に一度ここに来たんだ。君がまだ学生だった頃だ。ロッシュ先生に後継者がいないから引退したくてもできないという話を聞いて、それならおれがここを引き継ごうと思った。君が学校を終えてここに赴任してくるかは分からないが、この村で医者をしながら、いつか君が帰って来るのを待とうと思った」

「ヤン……」

「おれは君がどこに行こうと絶対に捕まえる。君がどこに隠れようと絶対に探し出してみせる」


 ヤンは悪戯っぽく笑った。

「恐ろしいだろ、おれの執念」


 ジュールもつられて笑った。本当だね。笑いながら胸が熱くなった。


 一日だって忘れたことなんかない。手紙を書こうかとも思った。でも勇気が出なかった。ペンを取っては置き、書きかけては捨てた。四年間、ジュールが悩んでいる間に、彼は僕を探してくれた。逃げるように出て行った自分を、ちゃんと見つけ出してくれた。


「恐れ入るよ……」


 笑いながら声が震えていた。どこへ行こうと自分を照らしてくれる、この人はやっぱり、僕の太陽だ。


「小学校の先生か……」

 ヤンが眩しそうにジュールを見つめる。

「似合ってるよ、君に」


 目の前にいるジュールは、もう人生という森の中をさまよっている少年ではない。故郷の土で自分の居場所を見つけ、地に足をつけ、しっかりと根を張っている。まるで、まっすぐに伸びたひまわりのようだ。



「……君の手紙……」


 ヤンは上着の内ポケットから、ジュールの残した書きかけの手紙を出した。紙はもう古く黄ばんでいて、折り目は破れかけている。ヤンは大切そうにその手紙を広げた。


「書きかけの手紙ほど気持ちの悪いものはないぜ」

 ヤンが可笑しそうに言うのでジュールもつい吹き出した。

「ごめん」


「……続きを、聞かせてくれないか」


 ヤンはジュールの目を見つめた。

「もしも、これを書いた時と、同じ気持ちなら」


 ジュールはヤンを見つめ返した。


 気持ちなら、いつも同じだ。十五歳の時から何も変わらない。

 心の中にずっと守り続けてきた思い。僕の、最後の砦。それを言い表せるのは、ただこのひと言だけだ。


「──君を、愛している」


 ジュールは静かに、はっきりとその言葉を口にした。


「僕は、これからもずっと、君を愛し続ける」


 明るい茶色の瞳がまっすぐにジュールを見つめている。


「……そう、書きたかった……」


 ジュールの頬にひとすじの涙がこぼれ落ちた。一生かけて愛すると誓った相手が今、目の前にいる。僕はもう二度と離れない。僕はもうけっして逃げない。


 ヤンがそっと微笑んだ。


「一緒に生きよう、ジュール。これからずっと、一緒に生きて行こう」


 ジュールはゆっくりと頷いた。

「ふたりで……」


 ──ふたりで同じ人生を歩こう。

 僕が迷うときは君が道を照らしてくれ。

 君が迷うときは僕が手を差し伸べよう。

 陽だまりの中で笑い合おう。

 夜の闇がおりたらお互いを温め合おう。

 そうやって、一緒に歩いて行こう。

 肩を並べて、どこまでも一緒に歩いて行こう──。


「ずっと……」

「……ずっと」


 二人は黙って見つめ合った。


 ふいに強い陽の光が窓から差し込み、二人の影を壁に投げかけた。


 ふたつの影はひとつに重なった。


 そして──、

 ふたつの心は、今、ひとつになった。


                

 Fin 


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ジュールの森 柊圭介 @labelleforet

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